「わたしについて来なさい」

中家 盾(栃木教会牧師)

聖書 ヨナ書3章1~5、10節
   マルコによる福音書1章14~20節

 マルコ福音書1章14節は「ヨハネが捕らえられた後」という言葉から始まっています。なぜ福音書記者マルコは、主イエスの公の活動の第一歩をクリスマスに通じる暗さと貧しさをもって描き出したのでしょうか。それは、宗教的な迫害、政治的な弾圧の中で「もはや教会の未来はない」との緊迫感が教会に満ちていたということを言い表すために他なりません。しかし、どんな暗さや貧しさの中にも主の栄光は輝きわたるのです。度量の狭さや偏屈さから閉塞感や澱みを生じさせている教会に対しても、主イエスは新しい命をもって臨んで下さるのです。

 公の活動へと出て行かれた主イエスが一番最初になされたことは「ガリラヤ湖のほとりを歩いて」(16節)ということでした。「湖」という言葉には、何かを得ることによって日々の生計を保っていかなければならない人間の姿…。その実現のためには競争することさえ強いられる人間の姿…。そのようにして漁に出たとしても、いつ嵐に巻き込まれ、冷たい湖に沈んでいくか分からない不安定さの中に置かれている人間の姿が含まれています。主イエスはその姿をしっかりと「御覧になった」(16節)上で言われました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(17節)。湖の世界にどっぷりと浸かっている一人一人を御言葉によって造り変え、そのことを「神の国」(15節)の建設の第一歩にしようと考えられたのです。
 主イエスと出会った漁師たちは、この時、驚くべき反応を示しました。ペトロとアンデレは「すぐに網を捨てて従(いました)」(18節)し、ヤコブとヨハネも「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行(きました)」(20節)。なぜ彼らがそのような行動を取ったのかということについて聖書は沈黙しています。それは、自らの動機や理屈を超えた何ものかによって自らが捕らえられ、用いられることがあるのだと言うためです。逆に言えば、理屈や説明、条件や損得計算の整わない者が、ただ神の愛によって選ばれ、用いられることがあるのだとも言えるのです。
 そうだとしても、「網を捨てて」ということ、「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して」ということにはなんと大きな勇気や決断が伴うことでしょう。主イエスからの招きを受ける中で「欲望を捨てなさい」との信仰の促しを受けない人は誰一人いないのです。しかし、[魚を取る網]の代わりに、[主イエスという網]を選ぶ人は幸いです。なぜならば、[主イエスという網]は全ての者を包む神の愛の御手であり、この[イエスという網]が用いられる限り、全ての者は滅びへと堕ちて行くことを免れるからです。

 後日、ペトロを初めとする全ての弟子は「わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(マタイ19章27節)と、主イエスに従ったことへの見返りを求め、十字架を突きつけられるや否や、主イエスのもとから逃げ出しました。勿論、主イエスはそのような弟子たちの暗さや貧しさに気づいておられました。それなのに、弟子たちを招かれ、用いられた。それは、弟子たちが主イエスと共なる道を歩む中で、主イエスによる赦しや贖いに触れることを期待してのことです。主イエスの招きに応えきれない私たちではありますが、安んじて主イエスの招きに応えていきましょう。

                                                          (2012年1月22日の主日礼拝)

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