「死期が近づいたとき」

中家 盾(栃木教会牧師)

聖書 列王記下2章1~12節
    コリントの信徒への手紙二4章3~6節

 イスラエルという国は多くの時代を「南2部族」「北10部族」と分かれて過ごしてきた国です。その国にあって、大きな変化をもたらしたのは南2部族の方です。南2部族からダビデが王として立ち、イスラエル12部族を統一したのです。ある面において、このことが王と官僚による中央集権体制を生み出したとも言えるのですが、この体制下の中、様々なことが行われました。税金を取り立てるための人口調査。神殿や宮殿を建設するための強制徴用と労働。諸外国との同盟に基づく富国強兵。その点、北10部族はそれぞれの部族の自治独立を重んじ、相互の協力を大切にするという側面を保ってきた共同体です。ところが、その北10部族もまた、バアル宗教を用いての中央集権体制へと傾いていったのですから脆いものです。

 そのようなあり方に対して「否」を唱える預言者としてエリヤが語ったことは「王のもとでは真の平和は得られない。それゆえ真の王である神のもとに立ち返れ」ということでした。このようにして、ある時には頂点に立ったエリヤですが(Ⅰ列王記18章)、今は衰え、死の一歩手前にまで至っています。Ⅱ列王記2章に出てくる4つの地名はそのことをよく表しています。「ギルガル」「ベテル」という山の上にある聖所から「エリコ」という海抜下250mの谷間の町へ。更に、死の危険が伴う「ヨルダン川」(「下る」という意味)へ下り、ようやく向こう岸にたどり着く。
 このようなエリヤの道のりは、私たちの人生にも共通することです。理想を掲げ、多くの者を従え、意気揚々と登る時期、すなわち[高さ]を誇る時期がある。その一方で、夢破れて希望を失い、たった一人でとぼとぼと破滅の底へと下っていく時期、すなわち[低さ]を嘆く時期がある。しかし、そこでの[低さ]は[深さ]とも言うべきものです。[深い]ということは、そこに大切なものを蓄えようとした者がいたということであり、また同時に、そこから汲み上げ、飲もうとする者がいるということです。エリヤは「地の低きに下る道にこそ真実の光輝く栄光がある。ならば地の低きに下れ」と告げたのです。

 8節には「エリヤが外套を脱いで丸め、それで水を打つと、水が左右に分かれたので、彼ら二人は乾いた土の上を渡って行った」とあります。「地の低きに下り、死の只中にある者と共に歩む。そこに、死と混沌の水をせき止め、新しい命を生む道がある」というのですが、問題はその先です。かつてモーセが紅海においてなしたように(出エジプト14章)、また、ヨシュアがヨルダン川でなしたように(ヨシュア記3章)、そして、今、エリヤがヨルダン川でなしたように、エリシャもなすことが出来るのか。それが大問題です。
 だからこそ、エリシャには一つの御言葉が与えられました。それは「わたしが…取り去られるのを…見れば、願いは叶えられる」(10節)との御言葉です。エリヤが取り去られる。しかし、その向かう先は神のおられる天である。つまり、御言葉は私たちに次のように促しているのです。「もしあなたから大切なものが取り去られ、決定的な不足が生じるようになるならば、天を見上げなさい。天におられる神は、必ずあなたに必要な全てを備えて下さるはずであろう」。空っぽの器にこそ神の命は注がれる。そのことを信じ、地の低きに下る道へと進んでまいりましょう。

                                                    (2012年2月19日の主日礼拝の説教)

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