「平和の計画」

                                                    中家 盾(栃木教会牧師)

聖書 エレミヤ書29章1~14節

 巨大帝国として世界を牛耳っていたアッシリアの支配力が急激に弱まる中、それに代わるかのようにしてバビロンが台頭し、世界を牛耳る。南ユダ王国では、ヨシヤ、ヨヤキム、ヨヤキン、ゼデキヤといった王が目まぐるしく政権から滑り落ち、ついにはバビロンとの戦いに敗れたイスラエルの民が1500㎞も離れたバビロンへと連れ去られることとなる。

 エレミヤ書29章には思いがけない出来事に遭遇した人間が取るであろう二種類の態度のことが記されています。まず最初に、預言者エレミヤが語った「家を建てて住み」(5節)、「果樹を植えて、その実を食べ(よ)」(5節)。「妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように」(6節)との言葉に注目してみたいと思います。この三つの言葉はイスラエルの民がバビロンの地に長く留まることを示唆しています。異教の地に長く留まったならば、異教の習慣に染まってしまう可能性があります。まして、扶養家族が増えれば、異教の地での生活はより困難さを増すことでしょう。何よりも、祖国へ戻る際の足手まといになることは容易に想像できることです。
 しかし、問題に留まり、問題と向き合わない態度は更なる問題を引き起こす危険性を秘めています。事実、預言者エレミヤの周りには耳触りのよいことを語る偽りの預言者が大勢いました。「わたしはバビロンの王の軛を打ち砕く。二年のうちに…捕囚の民をすべて…この場所に連れ帰る、と主は言われる」(28章2~4節)。ここには「悪いのはバビロンであって自分たちではない。従って、二年後に滅びるのはバビロンであって自分たちではない」との自己反省のなさが含まれています。エジプトの肉鍋に舞い戻ろうとするあり方こそ、偽りの支配者による独裁政権を許し、滅びを招く源であることに偽りの預言者たちはどれだけ気づいていたことでしょう。

 とは言えども、家族を殺し、故郷を焼き、辛い行軍を強いたバビロンに長く留まることには大きな抵抗があったことでしょう。一口に「七十年」(10節)と言っても、それが耐え難いほど長い年月であることは言うまでもないことです。しかも、祖国へ戻ることができるのは自分ではなく、自分の子孫なのです。
 それなのに、なぜ預言者エレミヤは皆にとって受け入れ難いことを語ったのでしょうか。それは安易な希望を捨て、きちんと絶望するために他なりません。次の世界への扉を開くためには過去のあり方を捨てることが必要不可欠なのです。私たち人間が絶望する時、私たち人間の希望を超えた神による希望が開始されるのです。

 そのことを踏まえつつ、預言者エレミヤは言いました。「あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから」(7節)。神の大きな歴史支配・導きを信じているからこそ励むことができる小さな奉仕があります。それは「祈り」(12節)の生活です。神のなさりようを信じ、全て先のことを委ねる。自分たちに苦しみを与えた者を受け入れ、その者と共に歩むことをよしとする。そのことを自分の後に続く未来の子供たちのために行うのです。もしそのことに徹することができるならば、それはなんと「平和」(11節)に満ちた生活となることでしょう。

                                         (2012年4月29日の主日礼拝の説教)

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