「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」

中家 盾(栃木教会牧師)

聖書 詩編22編25~31節
    ヨハネによる福音書15章1~8節

 ぶどうは「少し根を張っただけで沢山の水や栄養が得られるような所だと、根が太く、長く、丈夫にならない。だから、すぐに水や栄養が得られないような所で、必死になって根を太く、長く、丈夫にしていくことが求められている植物だ」と言われています。それを成り立たせるためでしょうか。ヨハネ福音書15章には、ぶどうが豊かな実を結ぶために必要なことが幾つか出てくるのですが、その中心を5節の「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」に置いています。
 今日、「つながる」ということはとても大切なことだと言われています。盲目のランナーがマラソン大会に出る場合、一緒に走る伴走者と[たすき]でつながっていることは必要不可欠なことです。風を体いっぱいに受けて自由に飛んでいるように見える凧も、それを操る人と[凧糸]でつながっていなければ、どこかへ飛んで行ってしまい、やがていつか墜落してしまうことでしょう。母親と胎児の関係はもっと深刻です。もし両者がへその緒でつながっているのでなければ、胎児はその命を保つことはできないのです。

 ところが、「切れる」ということが様々な場面で生じているのです。勿論、よい例もない訳ではありません。6節には「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」と出てきますが、神の剪定によって切り落とされることになる枝は一部に過ぎないのです。私たちにおける悪しき思いや行いが神によって正され、清められ、切り落とされる。それによって、私たちの全てが神へと向かうシンプルで力強い歩みとなる。
 問題は「あなたがたも、わたしにつながっていなければ」(4節)と記されている部分です。枝が自力に幹から離れ、どこかへ勝手にトコトコと歩いて行ってしまう。そんな馬鹿な話があるでしょうか。もしあるとすれば、それは異常なこととしか言いようがありません。ところが、その異常なことを人は神との間で、また、自然との間で生じさせてしまっているのです。

 ただし、それで全ての望みが断たれてしまった訳ではありません。主イエスは私たち一人一人がつながり切れない者であることを承知した上で言って下さるのです。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(1節)。もし私たち一人一人がキリストに繋がることを続けられなくなったとしても、父なる神は、私たち一人一人の所にキリストを遣わし、そのキリストに私たちを接ぎ木し、つなぎ合わせて下さるというのです。
 7節には「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」とも出てきます。キリストの御言葉を受け入れ、自らの内に宿すということが命の源であるキリスト、更には、キリストの体なる教会に結びつくことになるというのです。
 いかなる時にも「聴く」という行為だけは残されています。相手から発せられている声なき声に全身全霊をもって耳を傾ける。その時、相手とのつながりが芽生え、それが命となって溢れ出すということが生じるのです。

(2012年5月13日の主日礼拝)

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