「高ぶる波をここでとどめよ」

中家 盾(栃木教会牧師)

聖書 ヨブ記38章1~11節
    マルコによる福音書4章35~41節

 ヨブという人物は、実に多くの賜物を与えられた人物です。ヨブ記1章2~3節には「七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があ(った)」とも記されています。しかし、何ということでしょうか。ヨブはその全てを一夜にして失うのです。その中で、ヨブは神に問いました。まず「わたしの生まれた日は消えうせよ」(3章3節)と[存在する]ことの意味を問い、次いで「なぜ、わたしは…生まれてすぐに息絶えなかったのか」(同11節)と[この世で生きていく]ことの意味を問い、最後に「なぜ、(神は)労苦する者に光を賜り/悩み嘆く者を生かしておかれるのか」(3章20節)と[苦難がある]ことの意味を問いました。
 とは言うものの、これらの問いの根っこの部分に「利益もないのに神を敬うでしょうか」(1章9節)とのもう一つの問いがあることに気づく必要があります。本物の信仰は利益にならないことの中でも続けられるものです。ところが、人は利益にならないことが分かるや否や、途端に信仰をぐらつかせてしまうのです。それは「よいことをしてきた人は利益を得、利益を得ている人はよいことをしてきた人だ」との近代合理主義に影響されているからに他なりません。それ故、行き過ぎた近代合理主義の中で愛やゆとりが失われていき、「よいことをしてきた人が不利益を被り、利益を得ている人の中にも悪いことをしている人が大勢含まれている」との現実が目の前に立ち上がってくると、もう訳が分からなくなってしまうのです。

 ヨブ記38章はそれらの矛盾、不条理、理不尽に答えようとしている部分ですが、ここで神が言っておられることは「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて/神の経綸を暗くするとは」(2節)、「わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ」(3節)ということです。「神の経綸」とは「神の永遠の計画」と言い直すことのできる言葉です。つまり、「あなたたち人間は神の遠大な計画の全容を掴みきることはできない。だとするならば、目先の事柄に対して、ただ不平不満を抱くのではなくて、喜びと祈りと感謝をもって誠実に応えていくことの方がよほど有益なことではないか」と神は言っておられるのです。

 そのあり方を最も忠実に行われた御方はキリストです。全く罪を犯していないにもかかわらず、全てをはぎ取られ、重い十字架を背負わされる。その苦難は矛盾、不条理、理不尽に満ち溢れていたと言わざるを得ません。しかし、キリストの十字架が、私たち全ての者の贖いと義のためであることが分かってくる時、キリストの苦難が単なる矛盾、不条理、理不尽ではないことも分かってきます。
 もしかすると、ヨブという人物はキリストを予示する人物、人のあるべき姿を指し示す人物であったのかも知れません。キリストは[命を奪う]ことによって成り立つ世界から、[命を差し出す]ことによって成り立つ世界への転換を果たされた御方です。その証拠がパンとぶどう酒です。人は、皆、このパンとぶどう酒をいただくことによって生きるのです。神の似姿として造られた私たち人間に託されていることは、キリストの姿に倣い、命に仕える道を歩んでいくことです。そこに「限界」(10節)ある人間が「限界」ある世界を生き抜いていく道があるのです。

(2012年6月24日の主日礼拝)

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