「あなたひとりで負うことはなくなる」

中家 盾(栃木教会牧師)

聖書 民数記11:4~6、10~16、24~29
    ヤコブの手紙5:13~20

 神がお造りになられた世界を祝福に満ちたものとすべく、神の御心に聞き従う信仰共同体を形作っていく。これが『創世記』の中身だとするならば、『出エジプト記』以降はその信仰共同体がエジプトの奴隷状態から解き放たれ、神の約束された地へと導き入れられていく様を描いているものと言えます。
 ただし、イスラエルの民が神の御心としての十戒を授与されてから、神の約束された地に実際に至るまでに要した年月は39年でした。何故わずか300㎞を進むのに、39年もの歳月が必要であったのか…。それに対して『民数記』が答えようとしていることは「古いしがらみを抜け出し、新しいあり方へと進んで行く為には39年もの歳月が必要であった」、「一朝一夕に終わらない荒れ野での生活が、イスラエルの民を真の神の民へと成長させる訓練の時として用いられた」ということです。

 ところで、民数記11章にはマナの記事が出てくるのですが、出エジプト記16章と比較する時、随分その描き方が違うことに気づかされます。出エジプト記の方は「マナは何もない荒れ野において天からもたらされた奇跡的な食べ物」との肯定に満ちているのに対し、民数記の方は「マナは無料で配布される毎日食べ続けなくてはならない食べ物」との否定に満ちているのです。私たちの心と体に備えられている日毎の糧。日毎の務め。日毎の平安。それらのものが一日も欠けることなく与え続けられていること自体は奇跡的なことです。ところが、それらのこともいつしか当たり前のこととなり、それを用意してくださる御方への感謝や信頼が失われるようになるのです。「貪欲」(34節)は[何もない不安]から生じるのではなく、[満ち足りて飽きる]ことから生じるのだと教えられます。もしそうだとするならば、何気なく訪れる一日一日、そこで出会う様々な人や出来事、それらの平凡な事柄の中に神の特別な愛と恵みを見出すことが大切と言えるでしょう。

 それにしても、なんと早く事件は生じたことでしょう。神の御心がギッシリと詰まった十戒を授与されたシナイ山を離れてわずか3日後(10章33節)には、不平不満が生じているのです。まず「雑多な他国人」(4節)が騒ぎ出し、その不平不満がイスラエル全体にまで及ぶようになります。すると、モーセは神と人々との間にあって板挟み状態に陥り、彼もまた不平不満を漏らすようになるのです。しかし、神のなさることはなんと驚くべきものであり、慰めと励ましに満ちているものでしょうか。神はモーセとイスラエルの民の不平不満にお応えくださり、神御自身働くことを決意されました。民を約束の地へ連れて行くこと、それは神にしかなし得ない特別な務めなのです。もしそうであるならば、私たちは自らの力で、自分の人生や他の人の人生を動かそうと考えてはなりません。

 神は「雑多な思い」を抱えている私たちを受け入れ、造り変え、神の民の一員として用いてくださる御方です。もしそうであるならば、私たちがどのような姿で神にお仕えしようとも、そこには大きな違いはありません。神は私たちの選択を喜んでくださり、有効に用いてくださるのです。従って今、私たちに求められていることは、神の御心に耳を傾けつつ、「この私を用いてください」との祈りを真剣にささげることです。

(2012年9月30日の主日礼拝)

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