「目が見えるようになりたいのです」

中家 盾(栃木教会牧師)

聖書 エレミヤ書31章7~9節
    マルコによる福音書10章46~52節

 今日の聖書において、主イエスはいささか奇妙な行動を取っておられます。「エリコ」(46節)に立ち寄るや否や、すぐさまそこを発とうとしておられるのです。考えられる一つの理由は、かつてイスラエルの人々が神の約束された地カナンに入る直前にエリコに立ち寄ったように(ヨシュア2~6章参照)、今、主イエスは「一刻も早くエルサレムの都に入り、救い主メシアとしての業に取りかかりたい」との思いをもってエリコに立ち寄っておられるということです。
 しかし、その主イエスの足を止める一つの出来事が生じました。道端から大きな叫び声があがったのです。叫んだ人は「盲人の物乞い…バルティマイ」(46節)でした。見えないということによる困難。誰かの助けを借りなければ生きていくことが出来ないという不自由さ。しかし、それ以上に大きなことは「道端に座っていた」(46節)という一語に表されています。ジグムント・バウマンというユダヤ人社会学者が『グローバリゼーション』という本の中で紹介している「放浪者」「旅行者」「土地に縛りつけられた人々」の中で、もっとも不利な状況にあるのは「土地に縛りつけられた人々」です。現に、原発事故によって田んぼや畑、牛や豚を汚染された人々は、途方もない困難を抱えることとなりました。彼らが頼りにしてきたものは土地なのですが、もはやその土地は毒されてしまい、彼らは未来への道を失い、道端に座り込む者となってしまったのです。

 ただバルティマイは諦めていませんでした。久しく先行きを見つめ、自分の足で、道を歩んでいこうとすることから遠ざかっていたバルティマイが「わたしを憐れんでください」と叫んだ。それは「主イエスという御方ならばもう一度道を指し示してくださるに違いない。主イエスという御方が側にいてくださるならばもう一度歩むことが出来るに違いない」と思ってのことです。
 しかし、時代というものは多数者の言い分を正しいと思いたがるものです。そして、少数者の叫びに耳を傾けず、これを無視したり、妨害したりするものです。効率や能力のことを考えるならば、たった一人にかまけ、立ち止まるわけにはいかないのです。
 それでも、社会は一人一人によって形作られているのであり、一人一人が発する一言は貴重なのです。主イエスはそれを大切にされ、お尋ねくださいます。「何をしてほしいのか」(51節)。恐らく、主イエスはバルティマイの望みを見抜いておられたことでしょう。しかし、あえて問われた。それは私たち人間の愚かさを浮き彫りにするために他なりません。事実、ヤコブとヨハネという二人の弟子が主イエスに願ったことは「あなたの右に…左に座らせてください」(10章37節)ということでした。

 その後のバルティマイの足取りは「すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」(52節)というものでした。「目が見えるようになりたいのです」(51節)、このバルティマイの申し出の中に「十字架への道にある栄光を見出し、それに連なる者となりたい」との信仰があったことにどれだけの人が気づいていたかは疑問です。福音書記者マルコの教会が、バルティマイのような者によって守られ、立てられていったことを胸に刻みたいものです。

(2012年10月28日の主日礼拝)

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