「主の御手がわたしにくだされた」

中家 盾(栃木教会牧師)

聖書 ルツ記1章1~18節
    ヘブライ人への手紙9章11~14節

 新約聖書の一番最初の部分には系図が出てくるのですが、そこには四人の女性の名前も含まれています。「ラハブという遊女」(ヨシュア2章1節)、ダビデの姦淫の罪の相手である「バト・シェバ」(Ⅱサムエル11章3節)、モアブ出身の「ルツ」(ルツ1章4節)…。このように救い主・主イエスに至る系図の中には曰くをもった様々な人が含まれているのですが、これは「救いに最も遠いと思われている者の所にこそ、キリストの救いは訪れるのであり、彼女たちのような者こそがキリストの救いを担うのに相応しい者たちなのだ」との聖書の主張に基づいてのことです。

 物語はベツレヘムに住んでいたエリメレクとナオミの小さく平均的な家庭の描写から始められています。どんなに貧しく困難が大きくても、家庭が崩壊しなければそこに幸せや豊かさを見出すことはできます。しかし、それら全てを台無しにしてしまうような時代の不安定さがあったことを士師記やルツ記は告げています。「イスラエルに王がいなかったそのころ」(士師19章1節)、「そのころ、イスラエルには王がなく」(士師21章25節)…。
 そのような不安定さの中で、エリメレク一家が取った行動は、故郷ベツレヘムを捨て、死海の東側に位置する異教の地モアブへ移り住むということでした。残念なことに、そのような決断をもってしてもエリメレク一家が抱えていた貧しさや困難を消し去ることはできませんでした。程なくして夫エリメレクは死に、モアブの女性と結婚した二人の息子も子をもうけることなく死んでしまったのです。もはやナオミに残された道は故郷ベツレヘムへ向かって帰って行くことだけでした。
 数十年振りに故郷ベツレヘムへ戻って来たナオミのことを人々は即位した王を迎えるかのような「どよめき」(19節)をもって迎えました。それに対してナオミが答えたことは「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んで下さい」(20節)ということでした。その人自身の最大の持ち物であり、死んだ後でさえ人々から覚え続けられる自らの名前をナオミは否定したのです。その上で、神を非難する言葉を四度も口にしました。「全能者が私をひどい目に遭わせた」(20節、他21節)。

 人生には不条理なことが数多くあります。ルツ記はその部分に焦点を当て、不条理なことに対する敵意、自己否定、虚無感を色濃く描き出しています。しかし、ルツ記はそれで終わっていません。むしろ、そこが始まりとなっているのです。たとえナオミが異教の神を信じる者であろうと、外国人であろうと、苦難を抱える女性であろうと、そのことを厭うことなく、最後まで「離れ(ず)」(14節)苦楽を共にするルツ(「友情」という意味)がいるのです。嫁ルツは「自分の里に帰りなさい」(8節)と勧める姑ナオミの説得に応じようとはしませんでした。それは不幸に対する挑戦であったとも言えます。ルツは苦しみを背負うことを通して他者を得、神を信じる者とされようと思ったのです。驚くことに、そこに救い主・主イエスへ至る道があったのですが、それは神の「顧み」(6節)に基づくものなのです。自分の人生を早々と「マラ(苦い)」と結論づけるのではなく、自分に用意されている「ナオミ(快い)」と信じ、自分に与えられた人生を誠実に一生懸命歩む者となりたいものです。

(2012年11月4日の主日礼拝)

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