「ふさわしい実を結べ」

中家 盾(栃木教会牧師)

聖書 イザヤ書12章2~6節
   ルカによる福音書3章7~14節

 アドベントを迎える中で騒ぎとなっていることがあります。それはマヤ暦に基づく「2012年12月21日、地球に隕石や未知の惑星が衝突することによって地球が滅亡する」との「終わりの日」説です。今日の聖書日課であるルカ福音書3章にも、物騒な表現が幾つも出てきます。「差し迫った神の怒り」(7節)、「斧は既に木の根元に」(9節)、「切り倒されて火に投げ込まれる」(9節)。救い主の到来によって、悪しき者に対する裁きが始まろうとしているのです。だとするならば、身に覚えのある人は何とかしなくてはなりません。

 洗礼者ヨハネによって「蝮の子らよ」(7節)と厳しい叱責を浴びせかけられたのは、金品を奪い取っていた「徴税人」(12節)や「兵士」(14節)、特権階級に胡坐をかいていた「祭司長、律法学者」ばかりではありませんでした。「洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆」(7節)もまたその対象に入れられていたのです。
 このことは私たちキリスト者に対する挑戦とも言えます。洗礼者ヨハネは言うのです。「洗礼を受けたからといって安心するな。洗礼は悔い改めのしるしなのであって、悔い改めが実を結ぶというところまで至らなければ、『領主ヘロデ』(19節)のように身を滅ぼすこととなろう」。

 一体何が悔い改めにふさわしい実なのでしょうか。その問い(ルカ3章10節、12節、14節、10章25節、18章18節、使徒2章37節)に対して、洗礼者ヨハネが出した答は「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ」(11節)、「だれからも…だまし取ったりするな」(14節)というものでした。
 ルカ福音書19章に出てくるザアカイ物語も同じテーマを取り扱っています。「背が低い」(同3節)というコンプレックスを持つザアカイが、敵国ローマの手先である「徴税人」(同2節)の世界に足を踏み入れ、賄賂や誤魔化しによって私腹を肥やす「頭」(同2節)となっていく。しかし、その彼も、主イエスとの出会いの中で、他者を配慮し、自らの罪の償いを果たす者とされていく。そして、ついには「神の祝福の約束を受け継ぐのにふさわしい者」とさえ言われるようになる。

 試金石となるのは、やはり「終わりの日」のあり方です。自分のことさえままならない。そんな極限状態の中で、他の人を配慮することなど不可能なことに思えて仕方がありません。しかし、洗礼者ヨハネは言うのです。「『もう終わりだ』と思えるような極限状態の中でこそ、当たり前のことを当たり前のように行え。それが[終わり]を乗り越え、[始まり]を生み出す力となるのだ」。
 「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ」。これは「持ち物の半分を貧しい人に施せ」との愛を語るものではありません。「下着を二枚持っている人も、それを三枚四枚と増やしたくなり、その実現のために一枚二枚と奪い取るようになる。その貪欲を何とかせよ」と言われているのです。
 「終わりの日」とも思える最低最悪の時にこそ、主イエスが私たちの身代わりとなり、全てを補ってくださる。その主イエスが一緒にいてくださるならば、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」(使徒4章34節)とも言うべき豊かさが皆の内に満ちるようになるのです。

(2012年12月16日の主日礼拝)

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