「水がめに水をいっぱい入れなさい」

中家 盾(栃木教会牧師)

聖書 イザヤ書62章1~5節
   ヨハネによる福音書2章1~11節

 公現後第2主日の聖書箇所であるイザヤ書62章には「結婚」ということを念頭においた「花婿が花嫁を喜びとするように/あなたの神はあなたを喜びとされる」(5節)との御言葉が出てきます。ここで言われているように「結婚」ということには様々な喜びが含まれています。誰かと結びつくことを通して、知識や技術、財産、家柄を手にできるばかりではありません。自らの貧しさを顧み、相手の豊かさに触れる。そういった新しい世界への誘いが結婚にはあるのです。
 驚くことに、福音書記者ヨハネもまた「結婚」ということに意義を見出した者の一人です。その証拠に、ヨハネ福音書1~2章の所には「さて」(1章19節)、「その翌日」(29節)、「その翌日」(35節)、「その翌日」(43節)といったように日付に関する記述が列挙されており、その最後は「三日目に」(2章1節)という言葉で締め括られています。そうすることによって「主イエスの十字架と復活の犠牲と愛によってもたらされることとなった神と人との交わり・人と人との交わりこそ、七日間で新しい世界が創造されたとの創世記1章の内実を表すものに他ならない」ということを言い表そうと考えたのです。

 ただし、「新しい世界が創造された」との喜びは「ぶどう酒が足りなくなった」(3節)との現実によって打ち破られます。「ぶどう酒」とは[世を養おうとされる天の父なる神の愛]、[罪人を贖おうとされる主イエスの犠牲]を表すものなのであって、その愛と犠牲が足りなくなるということは致命的なことなのです。お互いがお互いを愛し合い、支え合い、仕え合う犠牲的な愛が失われるとき、私たちの世界は崩壊するのです。
 その中にあって、母マリアがなしたことは「ぶどう酒がなくなりました」(3節)と騒ぐことではなく、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(5節)ということでした。ゆきづまった時にこそ、忠実に、着実に、主イエスの御言葉に聞き従っていくことが求められているのです。とは言うものの、それはなんと大きな犠牲を私たちに強いるものでしょうか。事実、主イエスが召し使いたちに命じられたことは「水がめに水をいっぱい入れなさい」(7節)ということでした。「二ないし三メトレテス入りの…水がめが六つ」(6節)、すなわち600リットルもの水を自らの小さな器に入れて運び、水がめを満たさなければならないのです。

 ここで明らかなことは「水」はどこまで行っても「水」だということです。それは決して「ぶどう酒」にはなりません。しかも、今、「ぶどう酒」を欲している人たちはもう既にたらふく飲んでいる人たちなのです。そのような人たちに、今更、何が必要だと言うのでしょうか。
 それでも、主イエスは召し使いたちが一生懸命運んだ「水」を極上の「ぶどう酒」に変えられ、それを人々に振る舞われました。「水」のように薄い私たちの愛や犠牲も、主イエスの御力に基づくならば、全てを満たし喜ばせる「ぶどう酒」となって人々を生かすものとされるのです。そればかりではありません。愛や犠牲が疎んじられていく中にあって、主イエスは自らを全てを満たし喜ばせる「ぶどう酒」として人々に差し出し続けられました。今、私たちに求められていることは、その恵みをしっかりと味わうことなのです。

(2013年1月20日の主日礼拝)

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