「主はわたしの光」

中家 盾(栃木教会牧師)

聖書 詩編27編1~14節
    ルカによる福音書13章31~35節

 「書はやり直しがきかない一回性の芸術。…だからこそ…名筆を…気が遠くなるくらいの時間をかけて…書き写す…。何万回と向き合ううちに、やがて書き手の気持ちまで推測できるようになる」(「朝日新聞」2013年2月23日)。それに対して、十字架の苦しみを受けられた主イエスの日々を受難節のたびに思い起こす私たちはどうなのでしょうか。
 ルカ福音書13章31~35節は特別な聖書箇所です。なぜならば、この部分にルカ福音書の特色である「エルサレムへ!」ということがよく表されているからです。4章において公活動を始められた主イエスが、9章51節からは南のエルサレムへ向かって大きく舵を切り直され、その論調は最後まで続くこととなる。
 ここで問うべきことは、「なぜ主イエスはそれほどまでにエルサレムにこだわられたのか」ということです。宗教・政治・経済の中心であったエルサレムには、傲り高ぶった知識人や宗教家、権力や財力を振りかざす貴族や政治家が大勢いました。主イエスは、彼らによって貧しく、弱く、抑圧されることとなった者たちに仕えるためにエルサレムへ向かうことを決意されたのです。

 私たちは、皆、繋がっている者です。誰かの命によって自分の命が成り立っている。その一方で、自分の命によって誰かの命が成り立っている。このように、全ての命は連なっているのであって、お互い仕え合うことが出来るならば、それは何と幸いなことでしょう。
 とは言うものの、仕えることの実践はそうたやすいことではありません。私たちの周りにも平和活動・人権活動・環境活動を行っている人たちがいますが、平和や愛や共生を標榜している彼ら自身の中にどれほどの平和や愛や共生があるかは疑問です。平和や人権や環境を壊している人たちに対して抗議活動を行っている内に、いつしか苛立ちや、怒りや、恐れが満ち溢れることになってしまう。そんなことで、本当に平和や愛や共生に仕えることになるのでしょうか。
 主イエスは平和や愛や共生のない狭いあり方を本気になって叱られました。「エルサレム…お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる」(34~35節)。ただし、それが主イエスの結論ではありませんでした。最後の最後には「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」(34節)、全ての人を愛し、赦し、包み込まれたのです。

 受難節第2主日の聖書日課にはルカ福音書9章28~36節も含まれているのですが、「山上の変貌」の出来事を取り扱っているこの聖書箇所において、特に注目したい点は9章30~31節の「モーセとエリヤ…は…イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」という点です。この描写はルカ福音書だけに見られる描写なのですが、ここに出てくる「最期」という言葉は出エジプト記において用いられている「脱出」という言葉と同じ言葉です。もし本当の命の世界へ入って行きたいと願うならば、いったん偽りの命の世界に終止符を打たなければならない。それが本当の「脱出」だと言うのです。
 「今日も明日も、悪霊を追い出し…三日目にすべてを終える」(32節)。苛立ちや、怒りや、恐れを、私たち自身の内から追い出すことが求められているのですが、それをなすのは「今度で」はなく「今日」、「他の誰か」ではなく「この私」なのです。

(2013年2月24日の主日礼拝)

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