「キリストを知ることの あまりのすばらしさ」

中家 盾(栃木教会牧師)

聖書 イザヤ書43章16~21節
   フィリピの信徒への手紙3章4節b~14節

 3月は卒園・卒業の季節です。長く通った幼稚園や学校を軽やかに巣立っていく子供たちの姿を見る時、私たちの内には羨望にも似た思いが湧き起こってくるのではないでしょうか。というのも、私たち大人は変わることから久しく遠ざかっているからです。年齢を重ねれば重ねるほど背負うものが多くなり、安定を必要とするのは自然の理です。しかし、だからと言って、心も体も固く強張り、動かなくなってしまってよいのでしょうか。
 「監禁」という殻を打ち破り、「喜び」という実を結ぶ使徒パウロ。その彼が、今、語ろうとしていることは、健康や財産や安定が失われてもなお保たれ、高められ、深められ、強められていく喜び、すなわち「主において」(1節)の喜びです。

 とは言うものの、喜ぶということは一筋縄ではいかないものです。事実、使徒パウロは「喜びなさい」(1節)と言ったすぐその後で、怒りの言葉を羅列しています。「犬ども/よこしまな働き手たち/切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」(2節)。
 律法主義的ユダヤ人キリスト者がやり玉にあげられているのですが、彼らのどこに問題があったのでしょうか。それは自分の努力や熱心さで全てを遣り切ってしまっていた点にあります。普通に考えれば、努力や熱心さはよいことのように思われます。しかし、そこには誰かの努力や熱心さによって自らが支えられてきたことを認めようとしない傲慢さ、誰かの努力や熱心さを排除しようとする攻撃性が含まれているのです。まさに使徒パウロがそうでした。使徒言行録9章1節には「主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込(む)」使徒パウロの姿が描かれていますが、ここに出てくる「意気込んで」とは「熱心さ」のことです。神の御子をさえ死に追いやってしまう努力や熱心さは考えものなのです。

 そのことを踏まえつつ、使徒パウロが語ったことは「キリスト…を知ることのあまりのすばらしさ」(8節)についてです。時や状況の移り変わりと共に、これまで大切にしてきたビー玉やお人形などのコレクションが急に色褪せて見えるということがありますが、ここで使徒パウロが言おうとしていることはそれ以上のことです。「有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになった」(7節)というのです。
 問題は、私たちは一信仰者として使徒パウロのように考えているかということです。立派な生まれや家柄、優秀な成績、比類なき努力や熱心さ…、私たちはこれらのものを役立つものだと見なしてきましたが、その上で、なお「主イエスの御力はそれ以上だ」と信じることは可能なのでしょうか。
 大切なことは、主イエスの御力が溢れ出てくるように自らをよく耕し、柔らかい土壌とすることです。主イエスの十字架の愛によって救われなければならない自分がいる。主イエスの十字架の愛によって救われている自分がいる。そういったことが徐々に分かっていき、私たちの喜びとなる時、そこには思いを超えた新しい命が宿ることでしょう。

 幼稚園を卒園したら小学校、小学校を卒業したら中学校といった具合に、私たちの前には進めば進むほど味わい深くなる世界が用意されています。「キリスト・イエスに捕らえられている」(12節)を確かなこととしつつ、信仰の歩みを進めてまいりましょう。

(2013年3月17日の主日礼拝)

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