「その十人のためにわたしは滅ぼさない」

中家 盾(栃木教会牧師)

聖書 創世記18章20~32節
    ルカによる福音書11章5~8節

 先に、神はアブラハムに対して素晴らしい約束を告げられました。「あなたを偉大な民とする」「あなたに豊かな土地を与える」「あなたに未来を受け継ぐ者を用意する」。今、私たちは、この喜ばしい知らせをアブラハムのような喜びをもって聞いています。というのも、私たちもまた神の約束を受け継ぐ神の民の一員であるからです。
 ところが、今、その約束が脅かされようとしています。「ソドムとゴモラが不義を行った結果、苦しみを訴える者が多数現れた。そこで、神はソドムとゴモラを滅ぼすことにされた」というのです。このままでは神の約束はどこかにいってしまいかねません。
 この問題は、極めて21世紀的な問題です。強欲によって、飢饉や疾病や争いなどの様々な問題が引き起こされる。それは今なお続く私たちの世の現実であり、その罪に対して神の介入があるということは動かしがたい事実なのです(アモス3章6節参照)。

 この時、アブラハムがなそうとしたことは、世の暴走を食い止めることでした。22節はそのことを「アブラハムはなお、主の御前にいた」という形で表現しています。暴走列車の前に立つ。脱線をもくろむ神の御前に立つ。いずれにせよ、立つということは力のいることであり、勇気のいることです。世の流れに流されずに生きる。もし本気でそのことに取り組もうと思うならば、被害者意識を捨て、不条理を受け入れ、神の御心を拠り所とした歩みへと立ち帰らなくてはなりません。
 とは言え、たった一人で世界の流れに立ち向かい、その流れを変えることは困難を伴うことです。それは、執り成しの祈りを成している時にも感じさせられることです。ただ、それでもアブラハムは一歩も退きませんでした。むしろ、23節には「進み出て言った」ということが記されています。世界を執り成すという行為は、ただの一人になっても続けられるものであり、ただの一人になるからこそ続けなければならないものなのです。
 アブラハムは必死になって神に訴えました。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば…町全部を赦(して貰えないでしょうか)」(26節)。もしかすると、ここに出てくる数字はアブラハム自身の義に関わるものであったのかも知れません。「もし自らの内に50%でも正義があるならば…」。自らの義を探し求める戦いは続けられ、ついには10%にまで至っています。その中でアブラハムが悟ったことは、「結局のところ、私たちの世には執り成し手が少なく、また、その執り成し手も不完全なままである」ということです。

 しかし、主は「それでも構わない」と言われます。なぜならば、人を救うことがおできになるのは神のみだからです。頼りになる人間が減っていく。その中で、明らかにされることは、「真に頼りになる御方は、神ただお一人なのだ」ということなのです。
 その神がアブラハムを立たせ、大切な務めを果たさせようとしておられる。「主は言われた。『わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか』」(17節)。神は確信しておられたのです。「アブラハムならば、私の思いをよく汲み取り、よく応えてくれるに違いない。だからこそ、私はアブラハムにソドムとゴモラの滅びを告げるのだ」。神の民の一員である私たちにも万人祭司としての務めを果たすことが求められています。

(2013年7月28日の主日礼拝)

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