「自分を迫害する者のために祈りなさい」

中家 盾(栃木教会牧師)

聖書 レビ記19章1~2節、9~18節
    マタイによる福音書5章38~48節

 公現節の目的の一つは「馬小屋の飼い葉桶の中という最も貧しく低い姿でお生まれになり、十字架の上という最もあざけられ、苦しみ悶える姿で死んでいかれる主イエスの中に光り輝く栄光がある」ということを伝える点にあります。
 「しかし、わたしは言っておく」(マタイ5章22節、28節、32節、34節、39節、44節)と言われた主イエスの「反対命題」は、今ある世の秩序やしきたりを混乱へと導く問題多きものと見られがちでした。しかし、この「反対命題」こそが、世の悪しき秩序やしきたりを新しく作り変えていく原動力となったのです。

 「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(39節)と主イエスは言われました。私たちの世において、どれほど打算や暴力がまかり通っていようとも、もし愛に満ち溢れた人間関係や世界を築いていきたいと願うならば、打算や暴力が持っている以上の力や勇気をもって臨まなければなりません。神の御力はこの世の力よりも強いのであって、主イエスが語られるあり方にこそ真の幸いがあるのです。
 とは言うものの、主イエスの「反対命題」に従うことができる人はどれだけいるでしょうか。やられたらやられた分以上に仕返ししたくなる罪深い私たちができることは、せいぜいやられたらやられた分の仕返しでとどめておく「目には目を、歯には歯を」の戒めを守り行うくらいのことです。
 次々と「反対命題」を語ってこられた主イエスが最後に語られた「反対命題」、「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44節)は私たちの信仰が本物であるかどうかを問うものです。ここに出てくる「敵」とは「神のことを大切にしないイスラエル民族以外の外国人」のことを表しているとされています。信仰生活を熱心に行っている信仰者ほど、神の御言葉を大切にすることなく、自分勝手に生き、他者を痛めつけている人のことを苦々しく思い、許せなくなるものです。

 ところが、私たちの物差しは歪んでおり、誰かを正しく測ることも、正しい道に立ち帰らせることもできません。それどころか、差別や争いさえ生じさせるのです。このような状況を見据えつつ、主イエスは真の物差しを示されました。「(天の)父(なる神)は悪人にも善人にも太陽を昇らせ…てくださる」(45節)。「太陽」には幾つかの特徴があります。一つは「暖かい」ということ…。もう一つは「その暖かさは全てのものに及ぶ」ということ…。そして、もう一つは「その暖かさによって全てのものの命は保たれる」ということです。神は善と悪を区別されますが、その区別を超えて善人と悪人の全てを愛で包み込まれます。神は狭く命のないあり方を超えておられる御方だからです。
 その上で、主イエスは、神によって造られた「子」(44節)としての私たちに言われました。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(48節)。愛は理屈ではありません。だからこそ、全ては理屈を超えた愛によって新しい命を得るのです。主イエスの「反対命題」は、天の父なる神の愛による新しい世界の入口なのです。

(2014年2月23日の主日礼拝)

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