静かな夜に想うこと
漸く寝付いた三蔵を見下ろして、八戒は安堵の溜め息を漏らしていた。
簡素な作りの清潔なベッドで眠るその人の表情は深く疲労に彩られていて、やはり相当な無理をしていたのだという事実が
じわりと八戒の胸に染みて来る。
「…絶対に辛いって言わないんですから、この人は」
自分がずっと傍に居たのに。どうして気付いてあげられなかったんだろう、と。
八戒は、枕に散る金糸の髪をそっと指で梳きながら、多少なりとも自分の責任を感じずには居られなかった。
決して、自分を信じてくれていない訳ではないのだろうが。
「もっと…、頼ってくれても良いのに。」
夕食を摂る為入った街の食堂で出された料理に手を付けず、先に部屋に戻る、と立ち上がった三蔵の足元が
ふらついているのに気付いた八戒が、勝手に宿まで付き添って半ば無理矢理彼の個室に一緒に入ったのが、
10分ほど前だったか。
八戒が触れた身体は確かに発熱していた。咳も出ていたし、明らかに風邪をひいていた様子だった。
それでも、平気だと聞き分けない三蔵を仕方なく力尽くでベッドに押さえ付け、口付けて鎮静させる為に気を送り込み、
強制的に寝かし付けたのだ。
暴れたせいで乱れた着衣を直してやり、八戒は、シーツの間にきちんと寝かせてやろうと彼の身体を抱き上げる。
…と、その腕に抱いた重みが、以前と比べて減っているのにふと気付いた。
「また…痩せましたね……」
八戒の眉間に軽く皺が寄る。
ただでさえ少食な三蔵だが、そう言えばここ暫くの間彼は食欲も落ちていたような気がする。
ジープでの移動は山越えの連続で強行軍が続いていた。彼自身が八戒に先を急ぐよう強く要望していたとはいえ、
充分な休息が足りなかったのかもしれないと、ますます八戒の心が痛んでしまうのだった。
「ごめんなさい、…三蔵。僕のせいです」
八戒は低い声でぽつりと洩らしながら優しくシーツを細い身体に掛けてやる。
「……折角、貴方の為にとびきり美味しい珈琲豆を手に入れておいたのに」
苦笑しつつ、彼が部屋の壁に掛かっている時計を見上げると、針は10時より少し手前を指していた。
はあ、と深く溜め息を吐き、八戒は傍の椅子をベッドの傍に引いてきて腰掛ける。
「僕もご相伴に預かろうと思っていたのになあ」
三蔵は長い睫を伏せ、ぐっすりと眠り込んでいる。
八戒は暫く彼の綺麗な寝顔を見下ろしていたが、艶やかな唇を眺めている内にどうにもそれにキスしたい衝動に
駆られて、願望を抑えるのに苦労した。
「…もう、こんなに無防備に目の前で眠ってくれちゃって。襲っちゃいますよ?」
三蔵の頬に掛かる髪を静かに払い除けてやりながら、八戒の指はそっと、三蔵の顎のラインを軽く撫でる。
「……ん…」
不意に、微かに三蔵が呻き睫を震わせた。
起こしてしまったかと八戒は一瞬身構えたが、間もなく美しい彼は再び軽い寝息を繰り返し始め、
ほっと胸を撫で下ろす。
「全く、今日は特別な日なのに。悟浄も悟空も、貴方自身も、すっかり忘れてるみたいですけど…、ね。」
ふと、八戒は思い付いて少し身体を椅子から浮かし、そうっと、愛しいひとの額を飾る紅い印に唇を触れさせた。
「………貴方がこの世に生を受けた事に、本当に感謝します。お誕生日おめでとうございます…、三蔵。」
優しい声で呟き、穏やかな眼差しを三蔵に向けて、…八戒はいつしか、三蔵の寝ているベッドの端で
寄り掛かるようにして共に眠ってしまっていた。
…やがて、八戒が寝入ってしまってから、三蔵の紫暗の瞳が静かに開かれる。
ゆっくりと半身を起こした麗人は薄く唇に笑みを浮かべて、すぐ近くで自分に寄り添うように眠っている優男の
焦げ茶色の髪に触れ、密かに囁いた。
「…忘れる訳ねえだろ、馬鹿。珈琲なら明日の朝にでもゆっくり味わえばいいだろ。お前と居れるなら、いつでも
良いじゃねえか。美味い朝粥も用意しとけよ」
ふ、と満足そうに軽く息を吐いて、まだ微熱の残る身体を休めようと、三蔵は改めてシーツの中に潜り込み、
その身を横たえたのだった。