Cafe' Mocha〜カフェ・モカ〜
「これでどーだ!スリーカードぉ!!」
「この悟浄様をナメんなっつーの!オラぁ、フルハ〜ウス!!」
――うるせェ。
俺は今宵の宿の、自分だけの為に用意された上等なベッドの端に腰掛け、新聞を読みながら、片眉をぴくりと震わせた。
さっきから背後のテーブルで、やたら喧しくポーカーに興じているのは、言わずもがなの、馬鹿猿とクソ河童だ。
割合と大きな街の、それなりに贅沢な宿に部屋を取った俺達は、夕方頃には早めに買い出しも済ませて。
その後は、各々の部屋でのんびりと寛ぐ…、筈、だった。
昼過ぎにこの街へと到着し、帳場で八戒が記帳していた時に、俺の身なりを見て俺が『三蔵法師』だと知った宿の主人は、
この離れの…所謂“貴賓室”を俺に宛がい、他の3人にも上等な個室を用意すると言って、俺達は丁重に案内されて
館内に通されたのだった。
…が、今何故かこうして、野郎が4人も集合して俺の部屋で和んでいると言うのは、傍から見れば少々珍妙な事に映る
だろう。
俺は、活字を眼で追いつつその馬鹿騒ぎを暫く放置していたが、いい加減苛立ちを覚え始めた丁度、その時。
俺の鼻腔を、ふわりと香ばしい芳香が擽って、思わずふと、顔を上げた。
「悟浄、悟空。駄目ですよぉ、あんまり騒いじゃあ。そろそろご近所迷惑になる時間帯ですからね」
俺の視線の先には…、部屋の隅の簡易キッチンで、やんわりとそいつらを窘めながら、丁寧に珈琲をサーバーに落として
いる、八戒の穏やかな横顔が在った。
小さなヤカンに沸かした湯を、中挽きにした豆の上に、手慣れた仕草で注いでいる。
その口元には、うっすらと笑みさえ浮かべて、何とも幸せそうな表情をしていやがるそいつの姿に、気付けば俺は暫く
ずっと、見惚れてしまっていた。
やがて八戒が、全員分の珈琲をカップに用意し終えてトレイに載せ、こちらを振り返る寸前に、俺は慌てて新聞の紙面
へと視線を戻す。
「はい、珈琲が入りましたよ。二人とも、これを飲んだら此処からお暇しましょうね?」
悟浄と悟空の前にそれぞれカップを置いて、それとなく就寝の頃合いを告げる八戒に、二人はめいめいに大人しく
カードを纏め始め、漸くゲームを終わらせたようだった。
「――三蔵、珈琲どうぞ」
「…あ、ああ」
琥珀色の、芳ばしい香りのそれを白いカップに満たし、八戒が、俺の傍に設えられたサイドテーブルに静かに置いていく。
その時、奴は屈んだ拍子に、丁度新聞の陰で他の二人からは顔が隠れるのを良い事に、俺の耳元にそっと囁きを吹き込み
やがった。
「……もう少し、辛抱していて下さいね。僕は此処に残りますからv」
「――っ?!」
途端にさあっと頬を朱くした俺に、にっこり微笑んで俺を見下ろす八戒に、思わず、返す言葉も失ってしまう。
気が付けば、いつの間にか悟浄と悟空の姿は忽然と消えていて。
奴等なりに、八戒の無言の圧力を感じて、早々に各々の自室へ退散したのだろう。
「……おや、ヤケに今夜は聞き分けが良いですねぇ、二人とも」
のほほん、とした口調で呟きながら、八戒は中身の無くなった二つのカップをキッチンへ持っていき、手際よく洗って
いる。
俺は苦笑いを浮かべつつ、新聞を片手にしたまま、サイドテーブルの上のカップを持ち上げ、珈琲に口を付けた。
程好い苦味と僅かな酸味、そして芳しい香りに、知らず、小さな溜め息が漏れる。
「―――さて、三蔵?」
不意にすぐ隣から声がしたので振り向くと、いつから居たのか、既に片付けを終えた八戒が、俺の傍にぴったりと並んで
腰掛けていて、俺は大層びっくりした。
「な、何だ」
「さっき、僕の事。ずうっと観てたでしょう?」
「……何の事だ」
「だから。僕が珈琲を淹れていた時、ですよ。どうかしたのかなぁ、って思ってたんですけど」
「…別に。何となく、だ」
――不覚。気付かれていたのか…。
俺はどうにも恥ずかしくなって、つい俯いてしまうと。
八戒の長い指が俺の顎を捕らえて、再び向き直させられ。
もう片方の奴の腕は、法衣の上から俺の腰をしっかりと抱きかかえて、ぐい、と互いの躯が密着する程引き寄せられた。
「ね、三蔵。…教えて下さいよ…」
甘い吐息と共にとろけそうな声色で耳朶を甘噛みされてしまうと、俺の背筋に、まるで羽毛で撫で上げられているかのよう
に、ぞわぞわと震えが走ってしまう。
「……わざわざ、…言うような事じゃあ…ねぇよ…、っ」
「それでも、僕は聴きたいんですけどねぇ?」
腕の中に抱き竦められながら、意固地になって一向に口を割ろうとはしない俺の態度を見て、八戒はわざとらしく盛大に
溜め息を吐いてみせた。
「―仕方ないですねぇ。こうなったら、無理矢理にでも聞き出させて頂きます」
涼しい声で告げ、いきなり深く口付けられたかと思うと、八戒の指が同時に器用に俺の法衣の帯を解き、有無も言わさぬ
勢いでその体勢のまま、俺はベッドカバーの上に呆気なく押し倒された。
散々、俺の口腔内を蹂躙してやっと離れたかと思うと、八戒は唾液に濡れた自分の唇を獣のように舐め擦り、顔を間近に
近付けて、にやり、と唇を歪めてみせる。
「…たっぷり、一晩かけて、…ね。貴方の躯に。三蔵v」
――その、時。
俺は確かに、八戒の深緑の瞳の奥に妖しく揺らめく炎を、視たのだった…。
…どれだけ、意識を失っていたのか。
俺は酷く喉の渇きを覚えて、目を覚ました。
窓の外を見遣ると、東の空がうっすらと白んでいて。
どうやらまだ夜明け前のようだ。
隣には、俺を抱き込んだまま規則正しい寝息を立ててぐっすり眠りこけている、非道な男がその長身を転がしている。
「……ふん」
こつん、とそいつの頭を軽く指先で小突いて、俺は何とか八戒の腕の中から抜け出した。
ベッドから降りようとした時、サイドテーブルに載ったまま、カップの中にまだ残っている珈琲がふと、目に止まる。
俺は洗面所には向かわず、すっかり冷えてしまったそれを飲み干す事で喉を潤した。
「苦い、な……」
少し眉を顰め、俺はベッドの端に腰掛けながら、八戒の寝顔を肩越しに振り返りつつ、掠れた声で小さく、呟いていた。
「――珈琲の支度をするお前が、あんまり愉しそうなんで見惚れてた、だなんてな…」
俺は、八戒の幸せそうな寝顔を眺め下ろし、苦笑した。
「それに…、お前の指が、いつも珈琲の香りがするような気がしているから、お前の指を視ているとつい…閨での事を
思い出しそうになるなんて、……口が裂けても言えるか。…馬鹿が。」
微かな声でそう、ぼんやりと吐露して。
俺は、もう一眠りしようとベッドに潜り直し、そっと八戒の胸に寄り添って瞳を閉じた。
――緩やかに微睡んでいきながら、八戒が俺を抱き寄せて甘く俺の名を囁きかけてきたような気もするが。
…それは、記憶が確かではないので、夢の中の出来事、だったのかもしれない…。
【了】
※初出・オフライン83既刊コピー誌「This Night('04.5.2発行・完売済み)」より。加筆修正有り。※