東方の商人 >> | ||
目覚めたのは、甘い香りの漂うベッドの中。 ここはどこかしら、ぼんやりとそんなことを思う。だって、私はあのまま殺されてしまうはずだったのだろうに。薄桃色のシーツは絹の肌触りで、長いこと眠っていたからかうまく動かない体を優しくいたわってくれる。 「あぁ、生き延びてしまったわ」 するりと、いやそんなに滑らかに出てきたわけではない。声は咽に張り付いたようにかすれていた。でも、生きている。いっそあの場で死んでしまえたらよかったのに、あの場で… 『目が覚めた?』 「え…?」 何か言われた。 視線を声のしたほうに向けると―丁度そのときこの柔らかな寝具に絹の天蓋が張られていることに気が付いた。本当にここはいったいどこなのか―褐色の肌の男がこちらを見ていた。 「だ…れ?」 『ああ、瞳は薄いブルーなんだ。やっぱりきれいだね』 男は私のわからない言葉を呪文のように唱える。それが異国の歌のようで、私はあの騒ぎからよくわからない人物の所に運ばれるまでの長い間眠ったというのに、眠りの神が私に微笑みかけるように感じてまばたきを繰り返した。 『おっと、この言葉はわからないかな?』 歌うようににこやかに、男は私に向けて(だと思う)また何かを言う。 どうしたらいいのかしら。家庭教師は私に、こんなときどうしたらいいかなんて教えてはくれなかった。困ったような笑みを男は浮かべる。ほら、向こうもどうしたらいいかわからないんじゃないかしら。 【こんにちは、お姫様】 男が、エメラルドのような瞳を瞬かせた。 今度は、少しわかった。 【あなたは誰?】 家庭教師の教えてくれたことも役に立つ時があるということを私は知って、つたない西方諸国連合の古語をやっとの思いで紡ぎだす。 【よかった、言葉がやっと通じたね】 笑う、というか、微笑むことが多い男だと思った。そういう人間は何か心の奥底に隠している。あの高慢な男もそうだった。 【君はどこの国の人?よかったら教えて。そうすれば君も、なれない言葉で話さなくていいことだし】 【私の国は、キリシュ…】 巧みに古語を使いこなす男に対して、私は定型文での回答しか出来ない。本当にこの男は何者なのだろう、見たところ、西方諸国の人間ではないようだけれど。 「キリシュか!」 いきなり耳が日常を拾った気がした。 「僕の名前はシャ・ラル・スティ。えーと、ラルと呼んで」 首をかしげた拍子にさらりと揺れた黒髪が、ふわりと甘い香りを漂わせる。ラル、と自らを名乗った男は、次いで君は?と私に問うた。 「私は、イリシア…ここは、キリシュではないのね」 薄い緑に色づけられた天蓋の向こう側に窓があった。その外に映し出された光景は、私の知っているキリシュではない。あんな砂だらけの場所を、私は海の他に見たことがなかった。男は何がうれしいのか、ゆっくりとうなづく。 「イリシア…そうか、だからイリスなのか」 「なに?」 「ううん、なんでもないよ。君の事はイリスと呼んでもいいかな?」 イリス…私がキリシュでそう呼ばれていたのは、兄と、父と、ロディだけだったのに。 「私は、何でここにいるの?」 忘れかけていた疑問が舞い戻ってきた。 「私は、殺されるはずだったのに」 そうだ、裏切られた。 信じていたのに。ただ盲目に未来の夫だと、一生をかけて尽くす相手だと思って、可愛らしく恋心を抱いた時もあったというのに。すべてはあの日のためにあったと言う。なんて残酷。そして非道。私に送った愛は、全て偽りだったのだと目の前で嘲笑った。 父を切り捨てられ、兄は私の目の前で頭を殴られて倒れた。屋敷には火がかけられていた、その先は想像に容易い。 「何で私は、こんなところで眠っていたの?」 ここは天国でもなんでもない。でもまるで天国かと思うほど、私への扱いは丁寧だ。ぼんやりしていた間に男、ラルがメイドに言いつけて、私の為に飲み物を用意させるほど。 「君はラクシャの奴隷市場で売られていたよ。それを僕が買ってきた。つい昨日のことだけど」 奴隷市場。 そうか、そう言う手もあった。殺されるより、もっと過酷に違いない。 私はラルに手伝われて、ゆっくりと上半身を起こす。何日間か眠らされていた(のだろう)体はそれだけで鈍い痛みを与える。眩暈がして、何かにもたれかかってしまったと思ったら、それはとっさに支えたラルの体だった。 眩暈が治まってクッションにもたれかかると、甘い香りのする白い液体が口元に持ってこられる。 「どうぞ、口に合うといいんだけど」 「何?」 「レモネード…みたいなものだよ」 恐る恐る口に運ぶと、程よい甘さとすっぱさが丁度よかった。要するにおいしかった。少しずつ飲み込み、器の底がぼんやりと見えてきたころにはやっと、まともな考えが出来るくらいの思考力が戻ってきていた。 「なんで、たかが奴隷の扱いがこんなにいいのかしら」 奴隷制度は西方諸国では廃止されているけれど、闇市場として存在しているというのは貴族たちの中では常識だった。そこで売買される奴隷は、労働のためであったり、一部の貴族たちの暗い趣味の道具になっているはずだった。少なくとも、絹の天蓋の付いた寝具で目を覚まして、優しく飲み物を出される奴隷はなかなかいないに違いない。 「そうそう、忘れるところだった」 ラルは楽しそうに笑った。 「君を買ったのは、働かせるためじゃない。君は僕の、奥さんになるんだよ」 そして、やはり楽しそうに言うのだ。それはまるで初めて出会ったころのロディのように。示し合わせたかのように、同じ言葉でもって。 『君は、僕の奥さんになるんだ』 あぁ、きっと私はまた裏切られる。 |
||
← | ||