見果てぬ夢 >>   06

 シリアは宿の主人に布とお湯を頼むと紅月にそれを運んでくるよう指示して部屋へ戻って行った。
 紅月がそれを受け取って部屋へ戻ると、彼女はテーブルの上に布を敷き、そこにアレシアを横たえていた。更に暖炉に薪をくべ、部屋の温度を上昇させる。
「運んできたよ」
「ありがとう、テーブルに置いてもらえるか」
 いわれた通りにそっと桶と布を置く。シリアは布をお湯で濡らしたあと固く絞って汚れたアレシアの体を慎重に拭った。猫の体は血と、よくわからないどす黒いもので汚れている。その下からは綺麗な銀色の毛皮と大小の傷、そして特に目を引く小さな体を大きく横に走る傷痕が現れた。そのあまりの生々しさに、紅月はこみ上げてくるものを押し戻すために唾を飲んだ。
「酷い……誰がこんなことを……」
 思わず小さく呟く。理不尽な仕打ちと、気付かなかったとはいえ踏んづけてしまった自分に対する怒りと後悔が渦巻いた。
「大丈夫、この子は助かる。もともと強い子だから心配いらない」
 凛としたシリアの声に慰められ、紅月はじっと彼女の治療を見守る。彼女はなれた手つきで慎重に傷口を拭うと、ポシェットから蒼い石を取り出して左手で握った。何をするのかと首を傾げた紅月の前で右手をアレシアの体にかざす。
 その手から石と同じ蒼い光が発せられると同時に、今まで何度か聞こえていた泡の弾けるような囁きが耳をくすぐった。明確な言葉ではないそれは、流れ行く水のせせらぎのようだった。心を安らげるその音に思わずうっとりと聞き惚れる。
「これでもう平気だ」
 シリアの声にはっとして猫を見ると、小さな体を横切っていた傷痕はすっかり消えていた。彼女は残った小さな傷にポシェットから取り出した薬を塗って包帯をぐるぐると巻いていく。
 その様子を、紅月はぽかんと口を開けて見ていた。今目の前で何が起こったか理解できない。怪我を一瞬で治してしまうなんて、それはまるで。
「そうか、君は知らないのだったな」
 治療を終えたシリアが呆然としている紅月に気付き、苦笑して暖炉の前に立った。赤々と燃え盛る炎にその手をかざす。すると不規則に揺らめいていた炎が突然勢いを増してシリアの細い腕に絡みつくように膨れ上がった。
「あぶなっ、?!」
 咄嗟に叫んだ紅月だが、炎に巻かれたはずの腕が全く火傷を負っていないのに気付くと目を見開いた。更に彼女が手のひらを上にして紅月の方へ差し出すと、腕に絡みついていた炎が見る見るうちに手のひらに収縮し、ボール状になって浮かんだのである。
「自然には、精霊が宿る。燃え盛る炎に、過ぎ行く水に、流れる風に、豊かなる大地に。その力を借りて、人の力では決して起こすことができない現象を引き起こす術を、私たちは精霊術と呼んでいる」
 手のひらの上で、炎がちろちろと踊る。シリアが軽く手を振ると、炎は手を離れて紅月の周りをくるりと回ってから暖炉の炎へ帰っていった。
「アレシアの傷を癒したのもこの力だ。先程の石、あれは水の精霊の力が結晶化したもので、あれがあれば水がないところでも彼らの力を借りることができるというわけだ」
 まるで、夢のようだ。とても現実とは思えない神秘の力を目の当たりにして、しかし紅月はそれを受け入れた。確かに驚きはしたが、目の前で起こった以上これは現実に他ならないのだ。本で読んだようなファンタジーの世界、そこに迷い込んだのだということを改めて強く意識する。
「驚いたか?」
「うん……びっくりした。凄いんだね。でも……」
 どうして、全ての傷を治さなかったんだろう。
「自己治癒力が損なわれるからだ」
 小さな疑問の呟きが聞こえたらしい、シリアは答えた。
「精霊術での治癒に頼りすぎると、やがて傷が自然には治らなくなる。体が弱くなり、病気にもなりやすくなるらしい。確かに便利ではあるが、万能ではないのだ。力が強くなればなるほど、使い方を誤ったときには……大変なことに、なる」
 そう告げた彼女は、何故か一瞬だけ痛みを耐えるような表情を浮かべた。気にはなったが、すぐに元の表情に戻ったので深く聞かない方がいいだろうと判断して黙っていることにした。誰にだって、触れられたくないことがある。
「興味があるなら後で説明しよう。紅月、君も疲れているはずだ。今日はもう休んだ方がいい」
「あれ、シリアさんは?」
「私はガリアを待つ。それに大丈夫だとは思うが、この子の様子も看ていたほうがいいからなガリアが戻って来たら私も眠るよ」
「……俺も、アレシアの様子を看てる」
「紅月?」
「だって、俺が踏んじゃったんだ。あんな大怪我してたのに……だから、俺も看病する」
 確かに体は疲れを訴え、いつのまにか奇妙なちくちくも消えていて眠くなってきているけれど、シリアだけに任せっきりにしたくない。例え役に立たないことがわかっていても。
「……ダメかな」
 俯いて呟いた紅月の頭を、シリアが撫でた。
「君は優しいな」
 顔を上げると、彼女は優しく微笑んでいた。