年下って損をする>> | ||
ずいぶん後から思い出しても、土佐賢太郎の犬生でこれほど必死になった事はそんなに多くない。 とは言っても賢太郎は最初から最後まで無我夢中だったので、後で散々褒められたり怒られたりした時点でも、何がなんだかさっぱりの混乱状態が続いていた。 彼の不幸は、環と一緒に漁火が作った穴に入った瞬間、激しい眩暈と吐き気に襲われたことに始まる。 後になってから、“門”に不慣れだと乗り物酔いを酷くしたような状態になることがあるのだと教えられたが、そんなことを知っても何の慰めにもならなかったのは言うまでもない。 さっさと周囲を見回して外敵の有無を確認した環が、これまた素早く広葉樹の植え込みに蹲っていた紫を発見して走り寄った時、賢太郎は4つの足を総動員して立っているのがやっとだったのだ。 紫の様子はよく見えなかったが(犬族の例に漏れず、彼もド近眼なのだ)、不穏な臭いもしなかったからまず安心して、 だから、どうして環がぎょっとしたように立ち止まったのか、わからなかった。 物凄い勢いで跳ね起きた紫が、ぶつかるように環にしがみついて、それから血の臭いがした。 紫が怪我をしていたのだろうかと一瞬思ったが、それは環の血の臭いだったし・・・明らかに力を失っていく様子から見ても、ダメージを受けたのは環だった。 「紫殿・・・若君!!」 咄嗟に跳びだした。気持ちが悪いのも眩暈も、まとめてどこかに吹っ飛んでいた。 賢太郎が前足で紫を叩き地面に押し倒すのと、解放された環が首筋から血を流しながらぱったりと倒れこむのが同時だった。 「あ・・・ドジった・・・」 あい変らずあまり緊迫感のない呟き。命に別状はないようだが・・・ダメージが大きかったようだ。 それから・・・・・・巨大なものが這いずる音が背後に迫り。 地を這うような漁火の声が、言った。 「そこを、どけ」 嫌でござる。そう答えようと思ったのに、舌は口の中に貼り付いたようになって、人間の言葉を発音するのは困難だった。 うつ伏せに拘束した紫は、賢太郎の前足と全身を使ってようやく押さえ付けられるような力で暴れる。人間の力ではない。 漁火は鎌首をもたげて、脇から物凄い殺気を浴びせてくる。賢太郎がいなければ・・・一瞬の迷いもなく紫に襲い掛かるだろう。 人間らしさを失った紫に、攻撃性をむき出しにした漁火。こんな時に一番頼りになる環は、ぐったりと動かない。 狼の群に囲まれるよりも、遥かにまずい。 紫を拘束しているのか漁火から庇っているのか、自分でも分からなくなってきたその時、微かな電子音が聞こえた。 『よお、放蕩息子。そっちは無事か?』 聞き覚えのある、『御館様』の声だった。 視線を動かすと、血の気の引いた環の手が通話状態の携帯電話を握り締めているのが見えた。 『環? どうした?』 賢太郎は息を吸い込んだ。口の中は乾ききっていて咳込みそうになったが、堪える。 「グルル・・・ワン、ワン、ワン!!」 『賢太郎か!?』 必死で喉の奥から絞り出した声は、届いたようだった。訝しげだった声が、一気に緊迫した調子に変わる。 『おい漁火! いるんだろうが漁火!?』 「・・・・・・・・・」 「ワンッ! ワ・・・(けほけほ)」 『“門”を開けてくれ!! おい、聞いてるか!?』 漁火は無言のまま頭を持ち上げて、空間に亀裂を作った。 数秒後そこに現れた御館様たちは、一目でその場の状況を見て取ると、即座に行動を起こした。 ざっと環の状況を確認した上田が、ほっ、と息を吐いてぐったりした体を担ぎ上げる。それを確認した阿久津は、賢太郎に噛み付こうと暴れている紫に近づいた。 「・・・・・・」 足音を立てずに近づいてくる阿久津に、賢太郎はふと「これで良かったのだろうか」と自問した。 他に選択肢が思いつかなかったのは確かだが、そう言えば・・・阿久津は親馬鹿だと聞いたことがある。 「・・・!!」 「・・・何を考えているかはわかりますが、誤解なので落ち着きなさい」 阿久津は呆れたような顔をして、賢太郎の首根っこを持って脇にどけた。ほっそりした手が乗用車並の大きさの賢太郎を軽々摘み上げるのは相当驚異的な光景だが、生憎その場にいた中で驚ける神経を持っていたのは当事者の賢太郎一匹のみだった。 自由を取り戻した紫が、焦点の定まっていない目を新しい獲物の方に向け、腕を伸ばす。阿久津は途中まで好きにさせておき、近づいてきた紫の頭を無造作に掴んだ。 常に着用している片眼鏡を外すと、阿久津の目は澄んだ緋色に光っていた。 その瞳に見つめられた紫の表情が段々と力の抜けたものになり・・・終には完全に目を閉じて倒れこむ。それを静かに受け止めた阿久津が、どこからか注射器を取り出して紫の首筋に刺した。 それから紫を賢太郎の背中に乗せて、未だ物騒な気配を消していない漁火にゆったりと手を振って見せる。 「帰りましょう。“門”を開けてください」 賢太郎はここに至ってようやく・・・当面の危機が去ったことを、心の底から実感した。 |
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