子供たちには何がのこった? ケース2>>   

 我慢は得意だと思っていた。
 紫の経験から言うと、物事は良くも悪くも永遠には続かないものである。
 渦中にある時は永遠に終わらないのではないかという苦痛(肉体的にも精神的にも)も、いつかは終わる。少なくとも一時的に弱まることはある。
 いっそ、こういうものだと諦めるという手もある。
 人間は惰性の生き物であるからして、相当特殊な状況でもいつかは慣れてしまうことが多いわけで。
 それが根本的な解決にはならないにしても、伊藤紫と言う人間は10年以上この方針で生きてきたのだし、魔法街などという場所にうっかり紛れ込むことがなければむこう10年くらいは同じような方針で生きていく予定だった。
「うぇ・・・ぐ、ぇ・・・・・・っ」
 だから、これもいつかは終わる・・・もしくは慣れるはずなのだ。
 事件から、まだ1週間も経っていない。

 昼間は、まだ良かった。
 大規模な騒ぎに見舞われたばかりの魔法街は、壊れたものの修理や後片付けなどちょっとした用事が絶えなかったし、心配性が悪化した賢太郎や留守中に怖い思いをしたらしい紺が傍を離れようとしないから、余計なことを考えている暇がない。
 ところが夜になって、自分以外に誰もいない部屋で目を閉じていると、色々なものが一気に甦ってくる。
 たとえば人間の首筋に噛み付いた感触だとか、そこに自分の歯が突き刺さる手ごたえ、血の香りと味わい、飲み下した喉ごしと生臭い風味。そして血液を通じて流れ込んでくる生命力と、それに反して生気を失っていく・・・友人。
 被害者の上田環が今現在ぴんぴんしていることは事実として知っているが、吐き気がするような感覚は恐ろしくリアルだった。
 ようやくうとうとし始めると、山ほどもある蛇に呑みこまれる夢で跳び起きる。
 ここ数日、毎晩そんな具合だ。

 そして、本日も午前3時にふらふらと布団を這い出して、洗面所に転げ込む。
 口の中の感覚がなくなるまでうがいをくり返して、またよろよろと部屋に戻る途中、廊下で壁にぶつかった。
「っうゎ・・・!」
「・・・・・・・・・」
 ・・・もとい、士郎にぶつかった。
「あ、すみませ・・・え?」
 くり返すが、午前3時である。そんな時間に廊下に佇んでいたことに関する説明は一切なしで、士郎はただ見おろしてくる。
 あまり明るくない廊下の照明が逆光になって、どんな顔をしているのかはよく分からない。
「・・・しろーさん?」
「・・・・・・」
 唐突に顎を掴まれた。
 驚く間もなく唇を開かされる。口の中に押し込まれたのは、士郎の指だった。
「噛め」
 指示されるまでもなく、反射的に力一杯歯を立てていた。
 骨の太い指には、独特な漢方のにおいが染み付いている。皮膚は堅く、血は一滴も出なかった。
 そのまま数秒(数分かもしれない)。紫が恐る恐る顎の力を弱めると、指は静かに引き抜かれた。
 士郎の顔が近い。
「・・・・・・?」
 今度は、何やら湿った柔らかいものが唇に触れている。
 ・・・いや、現実から目を逸らすのは良くない。触れているのは士郎の唇で、手っ取り早く言うとキスをされていた。
 士郎とキスをするのは、2回目である。いや、前は薬の口移しという別の目的があったから、もしかするとこれが最初なんだろうか。
 混乱した頭の片隅でそんなことを考えていると、士郎はまた唐突に離れていった。
 大きな手が、静かに背中を押す。
「寝ろ」
「・・・はい」
 淡々とした声に命じられ、部屋に戻って布団にもぐる。
 衝撃が大きすぎて眠るどころじゃない・・・と思ったのは最初だけで、目を瞑ってみるとあっさり睡魔がやってきた。
 明日にしよう。全部後回しだ。
 数日振りに悪夢を見ない――もっと変な夢は見た気はするが――夜だった。

 ところが次の日になると、士郎が部屋から出てこなくなった。

「・・・で、生きてるの? 士郎さん」
「生きてはいる・・・と、思う・・・多分」
 ただ、外に出てこない。声をかけても返事がない。
 独特の時間軸に生きている士郎の生活習慣は、昼間活動して夜は眠るという非常に基本的な規則以外はかなりいい加減だった。同居するようになってからしばらくは人間らしい生活を心がけていたようだが、紫がまた高校に通い始めた辺りから元の生活習慣が復活している。
 従って数日顔を見ないのは驚くに当たらないのだが、今回は意図して避けられている気配が濃厚だ。
 直前に起きたことがことなだけに、ものすごく気まずい。
 はっきり言って、居辛い。
「ふーん」
 環は適当な相づちを打って、それから一つの解決策を提示した。
「俺んち、泊まる?」
「え? ・・・いや、悪いし・・・・・・」
 三軒長屋の家は、2階が居住スペースになっている。六畳ほどの一間に風呂とトイレと小さな流しがついて、2人で住むには手狭である。
 春麻の家に住み着いている圭士、という実例があるにはあるが、それは彼らが24時間身を寄せ合っていても気にならない、端的にいえばバカップルだからであって、紫と環には応用できない。
「悪くないって。俺、しばらく留守にするから」
「へ?」
「何だかイサの調子が悪いみたいで、お見舞いがてら泊り込もうかと。そーゆーわけで、留守番よろしく」
 有無を言わせずに家の鍵を押し付けられた。
 実はそれが目的だったのだろうか。いや、それより。
「漁火さん・・・家、あったんだ・・・・・・?」
 驚きは昨晩に出尽くしたつもりだったのだが、地味な新事実もそれなりにショックが大きかった。