第2章 遭難碑


 
 大きな太鼓はドンドンドン、小ちゃな太鼓はトントントン。
小太鼓はならないが、ここ煙草屋旅館名物、太鼓による食事の合図である。
 酒飲みにとって山小屋の食事ほどつらいものはない。ザックの中にはウイスキーが入っているが食堂ではやはり冷えたビールが飲みたい。奥寺流で飲めば1本はあっという間だ。2本目が飲みたい。しかし、つまみが足りなくなる。目の前のささやかな料理をつまみとして食べるか、それともご飯のおかずにするか、他人に相談できない分だけ悩みは増していく。
「ビール追加!」
とだれが口火を切るかが問題なのである。その一言を発した者がこのあとご飯を食べる段になった時の食卓に残るおかずの少なさの心理的責任を持つことになるのだ。
ーー缶詰ーー。
この豊かなる響き。
下界では見向きもされないブリキの筒。
「北川くん、サンマ缶とヤキトリ缶をザックの中から頼む」
ついに、こらえきれず隊長が指示。
「いや、あれは明日の昼の肴です」
「命令だ」
と言わないのが隊長のやさしさ。少ないおかずでご飯を三杯おかわりするマリ、あやちゃんは二杯でやめる。ゆかりちゃんは目だけがキョロキョロ動いている。
男三人はご飯は一杯だけ、部屋に戻っての二次会でザックの中の缶詰を狙っている。
 今夜の宿泊客は40人ほど、相変わらず中高年客が多いが夏休みとあって家族連れも4組、望峰倶楽部のような男女混合パーティは他にはいない。北アルプスの高級山小屋と違い那須の山小屋は湯治客旅館の趣きである。
湯治場といえば那須には戊辰戦争当時の刀キズが柱に残る[北温泉]がある。那須の湯治場の本場はこちらの[北温泉]である。隊長が営業マンとして栃木県北部を担当していたころ仕事をさぼってはよくこの北温泉で一休みしたものである。詳しくはこの項では書かない。
 テント暮らしと違い小屋泊まりは他の宿泊客に気を使う。山での怖い話やおもしろい話を酒を飲みながら楽しむのが望峰倶楽部の定番だが、小屋ではそれも出来ない。
山小屋では大部屋の真ん中に陣取り涸沢と白馬のトイレを比較したり、北岳と三俣蓮華の小屋の料理の違いを語るやつがいる。たいがいはハゲていて銀ぶちメガネで短パンである。「牢名主」といわれる人種である。
昼間、少し調子の悪かったゆかりちゃんが8時を回ったあたりから、俄然調子が出てきた。彼氏の話から始まり、勤めている会社の財務体質まで及んできた。正論を言っている。しかし眠い。
このパーティには珍しく消灯9時となった。
 朝4時半に目がさめた。もちろん隊長ひとりだけ。寺ちゃんと北川はいびきでハモっている。静かに小屋のガラス戸を開け、隊長は今日歩く予定の姥ケ平への道をサンダルで散歩。
「那須自然観察道」の標識が300メートル間隔で立っている。
那須の高山植物の説明、茶臼岳の噴火の説明、三斗小屋の歴史、すごく勉強になる。

 この道、三斗小屋から那須岳避難小屋への道は隊長にとってまさに散歩道だった。
峰の茶屋から20分ほど下ったところにある避難小屋は隊長の下宿。
まだテントを持っていなかった頃、二日間の休みが取れたときは、必ずこの小屋に泊まった。
ある年の五月の連休に小屋の前で少し早い夕食の準備をしていたら、一人の男が峰の茶屋から下ってきた。黒い皮の上下、黒のブーツ、ライダーのいでたちである。
「なんて静かなんだ」
とライダー。
「熊も連休さ」
「そうか、熊も休みか」
納得している。
「あんたは今日、ここで止まるのかい?」
「晩飯食ったら、酒飲んで寝る」
「いいな」
「仕事が休みの日ぐらい早く寝るさ」
「オレも泊まる」
いやな予感がした。
「夜、寒くねぇかい」
「まだ雪がある」
「残雪の山小屋か、悪かねぇ」
「きっと朝まで寝むれねぇぜ」
隊長までライダー口調になっている。
「決めた。ここで寝る」
空身のライダーはなにも考えていないらしい。
この小屋は建坪15坪ほどの二階建て、一階は土間をはさんで畳八畳ほどの板敷き、木製のはしごを垂直に上がると6畳ほどの板の間がある。もちろん電灯もランプもない。まさに登山者を雪と風から守る避難小屋なのである。
隊長は自分のザックの中の在庫を頭の中で確認した。
(今晩は俺も眠れそうにないな)
ダウンジャケットとハンガロの手袋だけ貸すことに決めた。
食後の一服をしていたらタバコの本数が残り少ないことに気づいた。また、いやな予感がした。
「あんた、タバコある」
ライターだけ取り出してこっちを見ている。
「どうぞ」と1本差し出すと、残り数本しかない。
「悪いね」
「いいよ、近くにタバコ屋がある」
ライダーは初めて不思議そうな顔をした。ここは那須の山奥の避難小屋、自販機がないことくらい誰でもわかる。
「えっ、どこに?」
残雪の登山道を1時間、煙草屋旅館にはタバコが置いてある。
まだ陽が残っている。
しらふでこれ以上愚かなライダーと話す気にもなれずタバコを買いに行くことにした。
ザン靴のヒモを締め直し、ヘッドランプをヤッケのポケットに入れたのを見て、ライダーもやっと事態に気づいたらしい。
「おっ、おい、どこまで行くんだ。そんな格好をして」
泣きそうな顔をしている。
「2時間で戻る。先にやっててくれ」
ウイスキーの入ったテルモスをライダーに手渡した。
山道を歩きながら隊長はおかしくて、しょうがなかった。このまま三斗小屋の風呂に入って朝帰りをしてやろうか。大自然の中では黒いライダーよりも登山家のほうが強いのだ。
驚いたのは煙草屋旅館の従業員である。
「マイルドセブン一つ、ください」
つり銭を渡したまま戸も閉めずに、じっと来た道を戻る隊長をまるで幽霊を見るかのように、いつまでも見ていた。

 さて隊長のパーティ、翌朝7時40分に小屋の前で記念撮影をして出発。茶臼への登山道には朝露に濡れたダケカンバの葉が光っている。同じ時間帯に出発した中高年隊は空にかかる雲を見てヤッケとザックカバーで雨対策万全。
「隊長、我々も雨具を」
北川が心配そうな顔で隊長に判断を仰ぐ。
「ノン」
自信満々の返事。
隊長は那須の気候を熟知している。クマ笹が朝露に濡れているだけでヤッケを着る初心者隊。年寄りはよくよく赤が好きらしい。彼らは歩き出して10分後にザックを下ろし雨具をたたんで片付けることになる。無能なリーダーのもとでのパーティはつくづく無駄が多い。
20分で峰の茶屋・姥ケ平の分岐に着く。すでに隠居倉側のダケカンバの間から強い陽射しがもれてきている。10分ほど下り御沢。冷たい沢水がうまそうだが、まだ飲みたくもない。
「隊長、水割りいかがでしょう」
北川はスコッチの入ったテルモスをザックから取り出したが隊長は朝酒はやらない。
タバコに火をつけて一息はいたそのとき、隊長たちのわきを一人の女性が通り抜けていった。
帽子を目深にかぶり肩まで伸びた髪の隙間から、かすかに横顔が見えた。白のポロシャツにモスグリーンのニッカホース、真っ赤なストッキングが目に眩しい。トントンと軽やかに、まるでカモシカのように沢を渡って行った。
「ーーー」
言葉が出てこない。隊長のくわえていたタバコが落ち沢水とともに流れていった。北川はスコッチ入りテルモスを足元に落としたが、それに気づいていない。寺ちゃんも地図をさかさまに見たまま微動だにしない。
「隊長、出発」
マリの声が谷中に響き渡ったが三人はまだ放心状態。
「寺ちゃん、行くわよ」
ポンとゆかりちゃんに背中をたたかれて三人はやっと我に帰った。
朝いちの登りはつらい。普段なら北川が、
「昨夜の酒が残っています。もう少しゆっくり歩きましょう」
と泣きが入るところである。でも今朝は泣かない。いつもより速いペースである。何かに取り付かれたように歩いている。濡れた倒木に何度も足を滑らせながら寺ちゃんはそれでも黙って歩いている。夢から覚めないまま40分で姥ケ平に到着。茶臼の西斜面がガスに煙っている。ここからの風景は那須の絵はがきの定番の場所。丸太作りのテーブルにザックを置き、一本立てる。
「姿が見えませんね、彼女」
ここで初めて北川が口を開いた。
「一人だから当然、私たちのように遅くないわ」
ゆかりちゃんの声が厳しい。
「そこの木道を少し歩くと小さな池がある」
バンダナを縛り直しながら隊長が言った。
「えっ、池、行ってみましょうよ」
あやちゃんがザックからカメラを取り出し肩にかけて歩きだした。
右手に茶臼の中腹が姿を見せ始めたが頂上はガスに隠れている。
「わぁ、きれい。絵はがきみたい」
マリがライトグリーンのバンダナをはずし感激の声を上げる。周囲100メートルほどの深緑の湖面が静かに揺れている。
そこに彼女はいた。湖面をじっと見つめたまま、しゃがみこんでいる。
[湖畔の女]
そのまま絵になる。
いつもなら軽口をたたき気軽に声をかける隊長も、沈黙したままだ。
「みんなで写真を撮りましょうか」
あやちゃんがカメラのキャップをはずした時、隊長たちに気づいた彼女は立ち上がりちょっと頭を下げて通り過ぎた。風だけがかすかな香りを運んできた。
北川は突然倒れてしまった。
「あら、北川さん、弱いのね」
ゆかりちゃんが倒れている北川のザックを軽く踏みつけた。
「さあ、ここからの登りはちょっときついぞ」
木道を戻りながら、気を取り直すかのように隊長は自分に声をかけた。
5メートル間隔で石に黄色いペンキの丸印がつけてある。ガスが深ければ迷ってしまうガレ場だ。登りながら上部を見上げるがすでに彼女の姿はない。親子連れのグループと女性の三人連れが下ってくるのが見える。ロープウェイに乗り山頂駅から茶臼南斜面を巻いてきたハイカーだ。牛ケ首に9時45分に着く。ここは西からの風が強いところだ。やはり昨夜の酒が残っているのか北川がつらそうに肩で息をしている。
「5分休んで出発するぞ」
隊長の声にも北川は元気なく、
「ええっ、もう出発するんですか、隊長30分休みましょう」
「北川さん、昨夜のみ過ぎよ」
ゆかりちゃんが心配している。
この山岳会は酒が飲めないと入会できないが、とりわけ北川は強い。

 前年、穂高・涸沢からの下り、ヒザが痛んできたといって屏風のコルを過ぎたあたりから北川はちょっと休んではウイスキーを口に含み始めた。奥又白谷に入ったあたりでコップを取り出し沢の水でウイスキーを割り、飲みながら歩き出した。これがヒザにはいいらしい。新村橋を渡り終えるころテルモスに半分残っていた「角」は空になっていた。

 牛ケ首の風はやみそうにない。
「北川、これを飲め」
隊長は自分のザックからペットボトルに入った「白角」を彼の前に差し出した。
「たっ、隊長」
水割りにして二杯立て続けに飲むと北川はまたたく間に体調を回復してきた。
「もう北川さんったら、わたし寒くなってきた。出発するわよ」
マリがウインドヤッケを取り出し怒鳴る。
登りだして間もなく遠くにアリの大群が視界に入った。
「又、アリか」
寺ちゃんがすばやく双眼鏡を取り出し確認した。
「今日は小アリでなく中アリだ」
すれ違うのも面倒なので登山道を10メートルほどはずれ通り過ぎるのを待つことにした。
「ねぇ、隊長、この花なんて名前」
マリが座り込んで近くの花を指差した。
「ウラジロタデ、火山灰土壌に強い花さ」
「ふぅん」
                        
                                               
遠くを見るように言う。
「あれっ、あの人、さっきの彼女だわ」
100メートルほど先の人の姿は時折、ガスの中に包まれて見え隠れしているが間違いなく彼女である。灰色の岩肌の中に赤いストッキングだけが妙に目立っている。
地元・黒田原中3年の中アリの大群が過ぎ去ったあと隊長のパーティは彼女のいる方へ近づいていった。登山道からはずれ上に20メートルほど登ったところに横5メートル、縦3メートルくらいの大きな岩がある。その岩の前に彼女はかがみ込んでいた。
「どうしたんですか」
と言おうとした隊長の目の中にある文字が飛び込んできた。
[遭難碑]である。
「失礼ですが、どなたか、お知り合いの方ですか」
「ええ」
近づいてよく見ると[平成八年二月十二日]と刻んである。
                   
  那須 峰の茶手前の雪渓

 その冬、中原栄一は単独で那須に入った。
大丸温泉に車を止め、そこから歩き出した。天気はまだくずれていないが西から大型の低気圧が接近していた。峠の茶屋から冬道を直登し峰の茶屋までは雪が少ない。朝日岳をピストンし那須岳避難小屋に着いたのは午後4時を回り、あたりはすっかり暗くなるころだった。小屋の床にどかっと腰を下ろしたが肩で息をしたままザックをはずすことも出来ずしばらく仰向けに倒れこんでいた。やっとの思いでザックを肩から下ろしたが、今度は凍りついたアイゼンを外すのにてまどった。小屋の中は闇、誰もいないようだ。すえた汗の臭いと木をこがした臭いが妙に彼を安心させた。
(どうも体調が良くないようだ)
中原の勤める会社はこの時期、決算期。彼は3週間ぶっ通しで出勤し、やっと三日間の休みを取った。昨夜10時に仕事を終えて、そのまま東京から車をとばした。大丸温泉の駐車場で2時間ほど仮眠をとったが疲れが残っている。ヘッドランプをつけて夕食の準備にとりかかった。風はない。片付けもそこそこにシュラフにもぐり込み泥のように眠り込んだ。
(寒い)
時計を見ると午前1時、ゴォーという音が小屋全体を包み込んでいる。
(もう少し眠らなければ)
シュラフの中でまどろむ中原の頬にすきま風が痛いように突き刺さる。
空が白み始めてきたらしく小屋の板の隙間から明かりが見えてきた。食欲が無かったが無理やり口の中にパンをコーヒーで流し込み食事をすませた。アイゼンを思い切り強く装着させ、よしと、気合を入れて小屋の外に出た。小屋の前には風が雪煙を立てて巻いている。峰の茶屋までは昨日、下りてきた道の登りだ。踏みあとを慎重になぞってピッケルを突き刺しながら登る。峰の茶屋のコルまで1時間、予想以上にかかった。茶臼西面からの風が真正面と横から中原の体にぶつかってくる。下からの風が小石まじりの氷片を飛ばし彼を襲う。
(ゴーグルを忘れた)
小粒だが強い風に吹き上げられた小石が散弾のようになって中原の顔面に突き刺さる。腰をかがめピッケルを思い切り斜面に突き刺し風の通り過ぎるのを待つ。
―――ゴォー―――。
風の唸りと那須活火山特有の硫黄を噴出す音がぶつかり合い山全体を揺らしている。
少し風が収まるその瞬間をついて登る。
(まだ8時だ。牛ケ首を回ってロープウェイ山頂駅から頂上を目指しても充分時間はある)
夏なら1時間足らずのコースである。風は収まらない。ますます強くなっているように思われた。牛ケ首に着き、手袋をずらして時計を見ると正午を過ぎていた。これほど遅れたことは無かった。夏山で地形とコースタイムをしっかりと叩き込んでいたが茶臼の風の怖さだけは計算外だった。
中原は焦りを感じた。風は相変わらず強く、あたりは夜が迫っているかのように暗い。
ポケットからチョコレートを取り出し、かじりながら登る。南斜面に回りこむと下りになる。風の通り道からはずれ、さっきの風の音が嘘のように静かになったその時、一瞬、気が緩んだのかアイゼンを岩に突っかけ前のめりに転倒した。
「ウオー」
と叫び声をあげながら彼の体は横転し滑落した。足を上にして落ちていく。ピッケルバンドが首に巻きつき顔面が雪氷にこすりつけられた。二度目に叩きつけられた岩で止まった。
時間がどれほど経ったのか、体中に鈍い痛みがある。メガネが吹っ飛んだのだ気になった。手足を動かしてみると動いた。しかし目の前の雪面に真っ赤な鮮血が広がっている。
(オレの血か)
始めは他人事のように感じた。異常な量の出血である。額に手を当てて手袋を見ると真っ赤染まっている。ゆっくりと胸元を見た。ブルーのヤッケが赤に変わっている。ザックの中からタオルを取り出し、はちまきにしてきつく額を縛った。その上から毛糸の帽子をそっとかぶり彼はゆっくりと歩き出した。が右足が動かない。
(ヒザが上がらない)
骨折していた。
30分ほどで中原の体力は限界に達した。雪面にはいつくばり両手と左足で進んでいた。左前方に大きな黒いものがある。
(ロープウェイ山頂駅か)
岩である。横5メートル、縦3メートルほどの大きな岩だ。しかし彼はそれがロープウェイ駅なのか大岩なのかの判断がつかない。最後の力を振り絞りそこまでたどり着いた。岩と斜面の隙間に体を寄せるとそのまま倒れこんだ。
(助けてくれ)
しかし声にならない。
―――玲子―――と彼の口から最後の言葉が出たが、それが恋人の名か、母親のそれか、中原には判断がつかなくなっていた。

 6人は遭難碑の前で手を合わせた。
「私、もうこの山には来ません」
玲子はそう言って、はるか山なみを見つめた。
ロープウェイ山頂駅が見えてきた。
「隊長も冬山で怖い経験があるんですか」
歩きながら北川が聞く。
「ある」
「どんな」
「八ヶ岳で雪女を見た」
「ウヒャー」
山頂駅にはロープウェイ待ちの長い行列が出来ている。それを横目にここからは直登だ。
茶臼岳山頂には11時30分に着いた。そこにも中アリの大群がいたが気にせず
「ヤッホー」とマリの声が那須の山々に何度もこだましていた。

                         第3章 サービスエリア







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