第5章 カクテルの甘いささやき

               
 白馬山荘で隊長たちと別れた玲子たちのパーティは白馬村営宿舎のテント場に午後2時30分に着いた。
幕営の受け付けを済ませ、すでに4張りのテントが張ってある敷地には張らずに一段高くなっている場所に設営した。
「高いほうがいいわ、それに静かだし」
玲子が提案したのである。
C証券山岳部は隊長率いる望峰倶楽部山岳会とは性格が違う。午後4時には夕食を済ませ夕暮れ前のアルプスの風景を静かにながめて6時にはそれぞれのテントに入った。
玲子と真弓、加藤と吉沢がペアとなり大森だけが1人用のテントに就いた。
「僕はいびきが大きいから」
大森は周りを気遣い1人用のテントを持参した。
夕食後の小屋のざわめきと発電機の音がしだいに遠ざかり五人は心地よい眠りに就いた。

 天狗原まで下りたところで隊長は北川の異変に気づいた。
北川が寡黙になっているのだ。しかし顔色は悪くない。
「北川くん、体調はどうだ」
「別に、悪くありません。ただ!」
「ただ、どうした」
「隊長、昨夜、星の写真撮りましたか」
「い、いや、撮ろうと思ったが寝入ってしまった」
「そうですか。今度私にも星の写真の撮り方教えてください」
「よし次回は写真中心で登ろう」
北川もカメラに興味を持ち出したか、とだけ単純に隊長は思った。
望峰倶楽部写真班は[自然の部]が隊長、[人物の部]は戸部厚が担当する。
しかし戸部厚が担当する[人物]は山でのそれではなく、水着撮影会での[人物]である。
モデルを前にした時の彼のカメラの動きには鬼気迫るものがある。
 天狗原から20分も下った頃、
「バリッバリッバリッ」
山頂へ向かうヘリの音。
「小屋閉めも近いから片付けにはいるのだろう」
と隊長。
「私もついでに片付けて」
のんきなゆかりちゃん。
                         
                              [五月上旬の鹿島槍ヶ岳]
 山頂付近、こちらはのんきではない。
長野県警と大町署員が降り立った。
小屋の従業員がヘリの着く前に遺体のあるテントの周りを青いビニールシートで覆っていた。
前夜の白馬頂上宿舎の泊り客は82名、ヤジ馬となっている。下の小屋の騒ぎに気づき、上部にある白馬山荘の泊り客までぞろぞろ下りてきている。
「百瀬さん、こりゃひでぇな」
県警の白木警部が顔をしかめて言った。
「まるでプロの仕業だ。ナイフで一突き」
大町署の百瀬課長がずり下がるメガネを指で上げながらうなづいた。
右胸を一突き、左頚動脈を一閃、見事な太刀さばきである。
頚動脈から吹き出た血がテントの天井から側面にかけて真っ赤に染め上げている。
「やっこさん、そうとう返り血をあびてるな」
「すぐ緊配かけてくれ」
百瀬課長が大町署に無線連絡。
頂上宿舎の泊り客82名と白馬山荘の34名に対し、住所・氏名・顔の特徴など簡単なメモが取られ、全員の衣服を丹念に観察し、ザックの中まで検査された。
2時間ほどで作業は終わったが出発時間が遅れる、と登山客からの不満が聞こえていた。
「全員、シロに見える」
と白木警部。
「オレもだ」
百瀬課長も同意する。
従業員の聴取後、頂上宿舎の泊り客のなかに午前4時に出発した者が2名いることがわかった。
「先に出た客はモルゲンロートを撮りたいと言ってました。後の方は九州まで帰るので早く出たいと、どちらのお客さんも昨夜の夕食が済んでから受け付けのほうに言って来ました。二人とも山慣れしてるように見えましたね」
ひげの従業員が答えている。
白木警部が宿帳の本日の客の行程表を見た。
先に出た客は杓子、白馬鑓を縦走し今夜の泊まりは鑓温泉と書いてある。
[東京都杉並区高井戸 三木隆之]
神経質そうな細かな文字が百瀬課長の印象に残った。
あとの客は雪渓を下り猿倉に下山予定。
[宮崎県日向市 手塚信一]
「へぇ、九州からか」
白木警部がしゃがれた声で頭の中を整理するかのようにつぶやいた。
百瀬課長が鑓温泉と猿倉荘に電話をかける。
猿倉荘には通じたが、鑓温泉につながらない。
「おかしいな、何度かけてもつながらない」
「鑓温泉は9月下旬で閉めてますよ」
小屋の従業員がそんな事も知らないのかといった表情で百瀬課長を見つめた。
「なに、小屋は閉まっているのか」
白木警部のしゃがれた声が小屋中に響いた。興奮するたちである。これでよく警部が勤まると彼の妻は不思議な思いでいつも夫を送り出している。
「そいつが犯人だ、追え!」
とは言わない。
「ヤツの行き先はどこになる」
冷静になって従業員に聴いた。
「鑓から下った稜線に天狗山荘がありますが、ここも9月下旬でやはり閉めてます。その向こうには唐松山荘があります。途中、きつい岩場がありますが、今日中に行けない事はありません。あるいは猿倉まで下りているか、これなら3時間、楽に下れます」
百瀬課長が猿倉荘と唐松山荘に電話を入れ、二人の特徴を詳しく伝えた。
雪渓側の谷からガスが音もなく湧き上がり、白木警部のつけたタバコの煙と溶けあった。
              
                      
 ロープウェイが栂池高原駅に着いた。
時計を見ると12時20分、陽はまだ高い。
「やっと着いたわ」
「疲れた」
福井さん夫婦は顔を見合わせてベンチに座り込んだ。
コンクリートの階段を下りた切符売り場の前に、制服の警察官が4人、ロープウェイから降りてくる登山客をじっと見詰めている。
「なにかあったのかしら」
あやちゃんが不安そうにつぶやいた。
パトカーの赤いランプが音もなく回っている。
「事故でもあったのかな」
と隊長。
「いや事件よ、きっと殺人事件でもあったんだわ」
ゆかりちゃんが軽い口調で言った。
「でも私たちは無事下山、早く乾杯しましょう」
福井さんの奥さんが回復し始めている。

 天狗原から20分も下ったところの休憩地に湧き水が出ている。その水で割ったウイスキーが極上なのである。
北川は4杯、隊長も3杯飲んだ。あやちゃんとゆかりちゃんが一杯ずつ、その酔いがまだ残っている。
「白馬の駅の近くのそば屋、あそこに行こう」
まだ飲み足りない隊長が北川の同意を得るように言った。
午後1時12分、再びそば屋で乾杯。
「あれっ、白馬岳が映ってるわ」
店のテレビを指差してあやちゃんが言った。
「えっ、殺人事件だって!」
北川がビールを鼻から吹き出した。
「きたないわ、北川さんたら、まったくもおー」
ゆかりちゃんが左手にかかった北川の鼻毛付きビールの泡をおしぼりで拭った。
「でも、どうして山の上で殺人事件なんか」
隊長が二杯目のジョッキを空にしてつぶやいた。
「さっきのパトカー、私って勘がいいのね」
ゆかりちゃんもビールを飲み干した。
ワイドショーは動きが速い。11時にヘリを飛ばし正午からは著名な登山家のコメントまでオンエアだ。
「どおりでヘリが多かったはずだ」
3杯目のジョッキに手をかけた隊長の頭の中は下山途中見かけた5、6機のヘリの音を思い出していた。
「明日の新聞にきっと出るわ」
福井さんの奥さんは、ご近所に願ってもない土産話が出来たらしく嬉々として山菜そばを頬張っている。
                   
 大森の遺体は松本の日赤病院へ搬送された。死因は出血多量による失血死、凶器は鋭利なナイフ、刃渡り推定15センチ。
加藤たちのパーティ4人は雪渓を下り、夕刻、大町署に入った。
玲子は朝から言葉を失っていた。先輩の真弓に肩を抱かれるようにして、やっと下山した。
署内で百瀬課長からいくつかの質問が飛んだ。
パーティの人間関係、C証券とF電機の関係、登山中の大森の様子、話の内容等々。
質問には主に加藤が答えた。時々、吉沢と真弓が補足するが玲子はここでもうつむいたまま一言も発さなかった。
「今日はもうホテルでお休み下さい。みなさんお疲れのようです」
百瀬課長が腕時計を見た。午後8時を回っている。
「あの4人、シロだな」
白木警部が冷たくなったコーヒーをすすりなからつぶやく。
「同感だ、今朝、早出した三木と手塚の二人、明日が勝負だな」
百瀬課長が珍しくくちびるを引き締めた。
翌朝、大町署の小出主任が受話器と向かい会っている。
「課長、手塚信一、確認できました。今日は仕事に出ています」
白馬の宿帳の電話番号は彼の実家だった。妻が出て手塚の勤務先、福岡のSデパートの番号を聴き本人を確認した。単身赴任である。
「三木は」
「それが何度電話しても出ません。呼び出してはいるんですが」
宿帳には杉並区高井戸のマンションと思われる住所が書かれていた。
「四十代半ばに見えたと小屋では言っていたが、独身かな」
「山好きに独身は多いですから」
「小出君、明日から出張だ、今夜は早く帰れ」
「裕子さんによろしくな」
「はい、今度課長、うちに遊びに来てください」
「新婚家庭になんか行けるか」
今日初めて百瀬課長の顔から微笑みがこぼれた。

 大糸線、中央本線、山手線、井の頭線を乗り継ぎ高井戸の駅に降りた時は午後2時を回っていた。
(やっぱり信州は遠いな)
小出主任は埼玉・川口の生まれ、妻の裕子は安曇野・池田町の産。10月の異動で妻の実家に同居する事になった。
大糸線上り列車が松川の駅を出て5分、車窓左側、山の麓にプルーの屋根のサイロが見えてくる。そこが裕子の実家である。
そのサイロからはまるで異国の感がある東京。
高井戸の駅から歩いて5分のグレーのマンション。
「ここですね、課長」
「702号だ」
1階の管理人に尋ねた。
「三木さんなら、ひと月前に引っ越しました」
「なに、ひと月前に」
百瀬課長が口からしばを飛ばして言った。
「ヤツは古い住所を書いたんですね」
「どうしてさんな事をするんだ」
「灰色が濃くなって来ました」
「署に電話を入れてくれ」
署から管轄郵便局に電話を入れ、住所変更届けを確認。
「大田区の大岡山に移っています」
東急目蒲線・大岡山下車、T病院の東隣、白のマンションだ。
階段を駆け上がり、301号室のドアの前に二人は立った。
[MIKI]と表札がかかっている。
ピンポーン、返事がない。
「しかたがない、夜まで待つか」
百瀬課長がタバコに火をつけた。
駅の反対側のT工業大学のキャンパスで時間をつぶし、駅前のラーメン屋で夕食、8時と10時にドアをノックしたが中は相変わらず真っ暗である。
「今夜は目黒のビジネスホテル、裕子さんに電話しておけ」
翌朝、マンションの所有者に会い、三木の勤め先を確認、萱場町行きの切符を買ったところに派手な着信音、小出主任のケイタイが鳴った。
「えっ、すぐ戻れ、白馬山荘前のベンチに血痕だって!」

 鑑識が頂上宿舎近辺をしらみつぶしに洗ったが証拠になるものは何も見つからなかったのに小屋閉めの準備にかかっていたもう一軒の白馬岳の山小屋、白馬山荘の従業員から情報が入った。
「三日くらい前まではこんな血の痕のようなもの、なかったと思います」
小屋の前にある3つの木製のテーブルのうち、入り口に近いほうのテーブルの隅に直径1センチほどの血痕のような汚れが二つ。科学捜査研究所に依頼し、結果はA型血液と判明した。
殺された大森の血液型と一致。
大町署で捜査会議が開かれた。
被害者・大森充 52歳
 1、C証券内での人間関係、役職。取引先とのトラブル
 2、被害者の女性関係、金銭関係
 3、家庭環境のトラブル
 4、事件当日の被害者の行動
 5、テントを張ってからのパーティの行動
 6、5人パーティで登った訳

 人間、叩けばほこりは出てくる。
「殺しまでするような動機じゃねぇな」
白木警部が吸殻いっぱいになった灰皿に火のついたタバコを押し付けながら、いつものしゃがれた声で言った。
 秋の陽射しをいっぱいに浴びた大町警察署2階、紫煙の向こうに鹿島槍の双耳峰がかすんでいた。
                       
 最上階のラウンジバー。
弾き語りのピアノがデューク・エリントンをやりだした。
カウンター越しのウィンドーに松本の夜景が瞬いている。
「あなた、お疲れ様でした」
「うん、さすがに疲れたよ」
「今夜は二人だけね」
「君と僕の夜に乾杯!」
カクテルはマンハッタン、ピキーンとグラスが弾けあった。
「でも愉快だわ」
「なにが?」
「だって、あなた山では隊長って呼ばれているんですもの」
「三枚目が出来るってことは一流の役者だってことさ」
「じゃあ、あなた本当は二枚目なの?」
「これ以上の二枚目がいるかい」
静かに時が流れている。
「松本城は見えないの?」
「あのビルがじゃましている」
ピアノソロが終わりソニー・ロリンズに変わった。
「でも、わたしー」
「でも、なに?」
「あなただけ見えればいい」
隊長はそっと玲子の細い肩に手をまわした。
月明かりの中、常念から唐松のかなたに小さな星がひとつ、流れていった。

                             第6章 パステル色の殺意



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