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 第6章 パステル色の殺意
 
 
 
            
              
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                                | 「ただいま」 「おかえりなさい」
 「京佳は」
 「もう、おやすみしたわ。6時にダウン」
 「公園に行ったんやろ」
 「ううん、今日は福田寺の境内で大介くんと遊んだの」
 「そう」
 「最近は砂遊びばっかり」
 K製薬小田原工場品質管理課に勤務する北川は帰りが早い。
 「お風呂、それともビール」
 と妻の博子は聞かない。自分で冷蔵庫から缶ビールを取り出して勝手にやる。
 (どうして山で飲む酒はうまいんやろ)
 家で飲む酒がまずいわけではない。妻の料理もいける。
 山から下りてからの一週間はいつもそうだ。[時差ボケ]である。
 まだ足の裏や頭の芯に山の余韻が残っている。
 しかしいつもの余韻とは違った思いが北川の胸にあった。
 (下山の日の隊長、なんか変やったな)
 少しおどおどしたような、なにかに追われるような落ち着きのなさ。普段の姿を知っている北川にはそんな隊長が奇異に映った。
 (あの事件と関係あるんやろか)
 冷蔵庫から2本目のビールを取り出した時、
 「そうや、星の写真や!」
 思わず大声が出た。
 「信次郎さん、静かにして、京佳が起きるわ」
 妻にしかられた。
 
 白馬二日目の夜、シュラフにもぐり込んだ隊長は、
 「夜中に星の写真を撮るかもー」
 と言ってた。
 すぐに鼾をかき出したが、あの後、夜中に起き出して本当に星の写真を撮ったのだろうか。
 9時前には北川自身も鼾をかき出したのであとはわからない。
 12時すぎに目が覚めたが、その時隊長は寝息を立てていた。
 やはりおかしい。隊長のカメラはキヤノンEOS。今回は持って来なかったはずだ。
 登山中、一度もカメラを見ていない。
 (なのに、なぜ、星の写真を撮るなんて言い出したんやろ)
 2本目のビールが空いた時、電話が鳴った。
 「はい、北川です」
 「藤崎です。こんばんわ」
 「ああ、あやちゃん、どうしたんですか?」
 「北川くんに話しておきたい事があるの」
 「なんやねん」
 「下山の日の朝、見たの」
 「私も見ました」
 「えっ、北川くんも見たの?」
 「右側のトイレで」
 「えっ!」
 「大きなウンチ」
 「キャッ」
 「あれ、あやちゃんのだったの?」
 「違うわよ、ばかなこと言わないで」
 「何を見たんですか?」
 「隊長の登山靴に血の痕がーー」
 「――――」
 「私、はっきり見たのよ、この目で」
 「まさか」
 北川は否定した。彼は隊長を全面的に信頼している。
 「なにを言い出すんですか、あやちゃん」
 「私だって信じたくないわ」
 「白馬大池から山頂まで3時間、下り2時間、それも真夜中、サルだって無理だよ。なにを考えているんですか、あやちゃん」
 「そうよね、ぜったい違うわよね」
 「当然でしょう、殺人なんて」
 「―――」
 「そんなばかな事を考えないでください。隊長はいつもは冗談ばかり言ってるけど、法を犯すことはしません。タバコの吸殻ひとつ山には残さない。まして殺人なんか、私は登山家としての隊長を尊敬してます」
 北川は言い切った。
 電話を切った後、あやちゃんは悔いた。たとえ数分でも隊長を疑った事を。
 (ごめんなさい、隊長)
 と心で謝ったものの、登山靴のシミは藤崎彩のまぶたに焼きついたままとれなかった。
 
 地下鉄東西線・萱場町駅で下車、交差点の角のM銀行を右に折れ裏手のYビル5階、三木の勤める会社がある。
 百瀬課長と小出主任、今度の事件で二度目の東京出張である。
 「三木はなぜ、うそをついたんでしょう」
 「わからない」
 「本当は彼はあまり山に詳しくないのかも知れませんね」
 「そんかもな」
 Yビルの狭いエレベーターに乗り、百瀬課長がタバコに手を伸ばした。
 「課長、禁煙です」
 「すまん」
 エレベーターを降りるとすぐ、[DX貿易]の小さな看板が目に入った。
 受け付けの事務員に手帳を見せると、すぐ応接室に通された。
 五十代の小太りの管理職らしい男が少し表情を固くして応対に出た。
 「三木くんは十月一日付けで退社してます」
 「えっ、退社」
 「優秀だったので、ずいぶんと引き止めたのですが、どうしても辞めたいと言い張りまして」
 小太りの男がタバコに火をつけた。
 「理由は?」
 「それが、はっきりと彼は言わないのですが、どうもプライベートな問題らしくてーー」
 「プライベートというと」
 「奥さんと別れたらしいのです」
 「離婚ですか」
 「二度目でしたが」
 百瀬課長がゆっくりとタバコの煙を吐いた。
 
 三木は24歳で最初の結婚をした。
 日本海側にある国立N大学経済学部を卒業した2年後、サークルで一緒だった1年後輩の女性の卒業を待って、DX貿易の社長の媒酌で五月に式を挙げた。
 翌年、男の子が生まれ、雪深い新潟北魚沼に住む母は喜んだ。しかし、その喜びも二年と続かなかった。原因は妻の浮気。幼い子を田舎に住む母に預け三木は単身のまま高井戸で暮らした。翌年、仕事で使っていた渋谷のクラブの女と二度目の結婚。式は挙げず母にも手紙を書いただけだった。そして翌年、離婚。原因はまたしても妻の浮気。なさけない男である。
 
  上越線・土合駅の下りプラットホームに三木はいた。ただ一人の客を降ろし列車の走り去る音だけが薄暗いホームに響いた。ここから462段の階段を登る。約10分かかる。地上から最も低い駅「土合」はギネスに載っている。
 魔の山・谷川岳。
 遭難者の慰霊碑には700余人の名が刻まれている。これもギネス登録である。
 隊長にもこの谷川岳を集中的に登った時期がある。
 土合の駅を降り、ザックを担ぎ462段の階段を数えながら登る。数日後、下山してきた隊長は改札口からプラットホームまで再び、階段を数えながら下りるが462段のはずが一つか二つ、いつも数が合わない。その合わない数だけまだ遺体が上がっていないのである。合掌。
 
 三木は息を切らせて改札口に着き、どんよりとした雲がたれ込める外に出た。
 振り返ると看板が目に入った。
 [ようこそ 日本一のモグラ駅 土合へ]
 ロープウェイ乗り場は紅葉狩りの客でにぎわっていたが、三木はその中に入らず一の倉沢へと続く道路を歩き出した。
 マチガ沢出合で立ち止まり、しばらくの間、岩稜を見上げていた。
 (俺は生き方がへただな)
 生き方のうまい人間なんていない。みんな悩んで生きている。しかし三木にはそれに気づかない。
 沢沿いの登山道を登り始めた。山肌を紅く染めていた木々も30分も登ると、葉を落とし冬の装いになってくる。
 (雪かーー)
 白いものが落ちてきた。三木の吐く息も白くなり、登山道にも薄っすらと雪が積もり始めている。白い登山道に踏み跡があり、数人の登山者が先に入っているようだ。
 西黒尾根の稜線に出た三木の肩に湿り気をたっぷり含んだ雪が覆いかぶさってきた。
 (手が冷たい)
 紅葉の白馬を5日前に下山してきた。
 越後の雪深い田舎で育った三木も、10月下旬に膝まで降り積もる雪は知らない。
 [谷川岳→]の道標にまるで催眠術にかかったかのように、三木は山頂を目指し登り出した。
 すでに登山靴の中に雪がずっしりと入り込み、手も足も指先の感覚がなくなっている。
 稜線と空の区別がつかなくなるほどの白い世界、[ザンゲ岩]の黒い岩肌が遠くに見えた時、三木はその白い世界に消えた。
 
  松本駅前のホテルVで玲子と甘い夜を過ごした隊長は、翌朝、赤いBMWのハンドルを握り志賀高原を走っている。
 蓮池を左に折れ、一の瀬方面に向かうと長野オリンピックのアルペン会場が見えてくる。
 
  ―――1998年2月 長野冬季オリンピック―――
 あの時の長野は日本ではなかった。
 
 朝、駅前の「マクドナルド」はカナダ人で満席だった。
 隊長は出勤前にいつもここでコーヒーを飲んでいくのだが、あの2週間は店に入れなかった。
 [長野東急]前の通路には、ピンバッヂ売りのアメリカ人、スイス人がいつも信州人をカモにしていた。
 善光寺は世界のすべての宗教の発祥地と勘違いしてしまいそうな勢いである。
 白いターバンをまいた人までが、お賽銭を上げていた。
 夜は表彰式会場「セントラルスクエア」にいつも人があふれていた。まるでニューヨークの5番街を歩いているように――。
 [そごう]の納品者用駐車場に車を止めて、寒い中、コートも着ずに隊長もよく見物に行った。
 ある夜、突然、後ろから、
 「課長、もう見てるの!はやーい」
 会社の内勤スタッフ、山口、清水、宮川のギャルトリオだ。
 「仕事中、通りかかっただけだ」
 「えっ、ほんとうですかぁ?」
 勘がいい連中である。
 「本当は里谷多英、見にきたんだ」
 「やっぱりーぃ、明日みんなに言ってやろ」
 長野東急のM統括が言った言葉が印象的だった。
 「私も、この会社に20数年、勤めてますが、あんな呼び出しは初めてでした」
 
 ――カザフスタンからお越しのM・スミルノフ様、ベラルーシのダジンスキー様が1階ハンカチ売り場でお待ちです―――。
 それも日本語で―。
 
  
 東館山西斜面の[タンネの森スキー場]もこの時期は無残なトラ狩り状態をさらけ出している。その隣の[ダイヤモンドスキー場]に隊長は車を止めた。
 「淡いのね、色が」
 「えっ」
 「わたし、燃えるような紅葉より、ここみたいなパステル色の秋が好き」
 (ありゃ、妻と同じせりふを言った)
 玲子がストックを両脇で抱えるようなしく゜さをして、おどけながら走り出した。
 「待て、小娘」
 隊長はウェーデルンの名手、たちまち追いついた。
 「さあ、ここから登るぞ」
 落ち葉を踏む音を楽しみながら樹林帯を歩き出す。しばらく登るとキノコがところどころ目に入った。
 「シメジだね」
 「採っていこうかしら」
 「キノコ料理、出来るの?」
 「ええ、母がよく作ってくれるわ」
 「君は?」
 「私だって、出来るわ」
 晩秋の山歩きの魅力は冬支度前の自然の静けさにある。
 木々の向こうに見え隠れしていたリフトの降り口が見えるころ、登山道は木道になる。
 ゆっくり2時間の登りでガスに包まれた山頂に着いた。
 稚児池が静かにたたずんでいる。
 視界もなく、少し風が出て来た。
 10分の下りで北斜面ゲレンデ。閉鎖されたリフト降り場の鉄塔の下で冷たくなった握り飯をほほばる。
 「視界が悪いとコーヒーを沸かす気にもならないな」
 「私、少し寒くなってきてわ」
 ザックからヤッケを取り出し玲子の肩にかけ、抱きしめたまま隊長はタバコに火をつけた。
 「下りて、温泉に入ろう」
 「ええ、早く入りたいわ」
 グリーンのネットが張られた斜度のきついゲレンデを斜滑降状態で手をつないで下り始める。
 「ネットが滑るから気をつけて」
 「雪があれば怖くないのに」
 「トンバだって、この時期ならぼくたちより遅いよ」
 *アルベルト・トンバ(イタリア)
 ナガノ五輪 男子回転で棄権
 1時間の下りで下のゴルフ場に着いた。
 岩菅山の西斜面の道路をボードのトレーニングをやる若者がランドクルーザーの後ろにロープを付け芋虫のように蛇行しながら登って行く。
 「なに、あれ、面白い」
 玲子が無邪気に笑う。
 「いろんな練習の仕方があるもんだな」
 下りはそれぞれが滑走してくる。カーブのミラーポールに女の子が突っ込んだ。
 隊長はスノボーは嫌いである。あのファッションが自分に似合わないのだ。
 
 オリンピックのスノーボード会場となった[かんばやしスキー場]の麓、上林温泉のS旅館に直行。
 ここの旅館の露天風呂からの紅葉はいける。小さな織部灯篭と光悦寺竹垣の取り合わせが絶妙なのである。
 湯上りのビールを一人でロビーの硬い椅子に座り飲んでいると、風呂から上がった玲子が後ろから隊長の肩を抱き首筋に熱い吐息を吹きかけた。
 そして、そっとつぶやいた。
 「ねぇ、あなた、今度は望峰倶楽部の会員を殺って!」
 
 恐ろしい言葉を残して 第7章 戻された時計の針 へ
 
 
 
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