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 第7章 戻された時計の針
 
 
 
            
              
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                                | アルプスが近くに見えた。 常念の肩が白く輝いていた。蝶にはまだ雪が乗っていない。
 「私、あそこに登ったのね」
 あやちゃんは、もう30分以上ベンチに座ったまま北アルプスの山々を見つめていた。
 松本市の北西部、城山公園から犀川を西に見下ろしながらの遊歩道。
 (たまには一人で歩くのもいいわ)
 
  [犀川と松本市北部]
 白馬を下りてきた一ヶ月後、あの殺人事件の喧騒から、やっと自分の気持ちに落ち着きを取り戻していた。
 (どうして私、山が好きになってしまったのかしら)
 父や兄は庭いじりが好きだ。
 私も自然が好き。
 ――自然が好き、それって変な言葉――。
 人が好き、街が好き、酒が好き、音楽が好き。
 山を好きになるって、そんなことかしら。
 あんな重いザックを背負って息を切らしながら登る。みんなと下界を忘れていろんな事を話している時間、それはそれで楽しいけど、山の良さって、もっと違うような気がする。
 人間て孤独なんだわ、それを忘れるため、いやそれを確認するために山に登るのかしら。
 犀川から風が吹き上がってきた。汗が冷えて少し寒い。
 ――ロマンチスト――。
 そう山に登る人ってロマンチストなのかも知れない。
 マリちゃんも、ゆかりちゃんだって、それに私も、ふふ。
 北川さんも、ああ見えても結構ロマンチストだし。
 隊長は――。
 寺ちゃんはどうかしら、あの人、本当に山が好きなのかしら、山の雑学はよく話すけど、みかんの皮をむくのが面倒だから、みかんが嫌いだなんて言ってたことがあったわ。
 (山って、私にとって何なの?)
 ――ただ登ることだけさ――。
 あやちゃんの耳に隊長の声が風に乗って聞こえてきたような気がした。
 
 さて、そろそろここで、あの殺人事件の謎解きをしましょう。
 まず、おさらいです。
 X年10月11日未明、C証券に勤める玲子の上司・大森充が白馬村営宿舎のテント場で刺殺体となって発見された。
 第一発見者はC証券に出入りするF電機の加藤。
 加藤は玲子の元恋人ー三年前、那須の茶臼岳西面で遭難死した中原ーの学生時代からの山仲間である。
 事件の起きる三ヶ月前、夏、望峰倶楽部の部員6人がみんなで那須の三斗小屋に泊まり、翌朝、[髪を肩まで伸ばした、赤いストッキングの女]―――玲子、彼女に出会った。
 
 玲子と隊長はその二ヶ月前に出会っていたのである。
 インターネットによる株取引が世間ではやり始めた頃、新しいもの好きの隊長はC証券宇都宮支店を訪ねた。その窓口で応対に出たのが玲子である。
 隊長が玲子と口座開設の書類を確認しているその隣で、大声で話す初老の男がいた。
 「K食品はどこまで上がるんだ?」
 「はい、お客様、この秋には七千円までは間違いありません」
 「七、七千円だと!そんなに上がるのか?」
 「はい、間違いなく、そこまでいきます」
 そんな会話が隊長の耳に飛び込んできた。
 翌朝、隊長は再びC証券を訪ねた。
 「あらっ、昨日のお客様」
 玲子のさわやかな笑顔に隊長は魅せられていた。
 「課長と話がしたい」
 「しばらくお待ちください」
 応接室に通された隊長は開口一番。
 「K食品は本当に七千円まで上がるのですか?」
 くいいるように大森課長の目を見つめて聞いた。
 「ああ、昨日のお客様との話ですか」
 「ええ、ちょっと聞こえたものですから」
 少し間を置いて大森は口を開いた。
 「必ず上がります。間違いありません」
 隊長の鼻がわずかにふくらんだ。
 それから後、何度か隊長はC証券に足を運び玲子と山の話をするようにまでなった。
 しかしK食品の株価は3,500円台を上下するだけで7,000円にはほど遠い値動きだった。
 隊長は焦っていた。妻に内緒で銀行から300万円を工面したのである。一ヵ月後の支払いがせまっていた。
 梅雨に入ろうとしていた。
 ――尾瀬の水芭蕉が見たい――。
 そんな隊長の計画はすっかり頭から離れていた。
 そぼ降る雨に靴元を濡らしながら隊長の足はC証券の前で止まった。9階建てのビルの1階から3階までがC証券のフロアである。
 目を血走らせた隊長は雨に濡れるのも気にせず、その大きなビルを見上げた。
 「くそっ、大森め」
 大通りを走り抜けるタクシーがいきおいよく隊長の足元に泥水を跳ね上げていった。
 
 梅雨明けが近い金曜日、隊長はC証券のカウンターで玲子に小声で話し掛けた。
 「どうしても君と話したいことがある」
 「えっ」
 「K食品のことなんだが――」
 「その件なら大森課長から少しは聞いています」
 「うん」
 「課長もずいぶんと気にしているようです」
 「そのことなんだが、今晩7時、Wホテルの7階のラウンジバーで待ってる」
 強引な隊長である。
 しかし玲子は現れた。
 夕方からの雨に葉を濡らしたマロニエの街路樹を見下ろしながら、隊長は3杯目のブラッディマリーを飲み干してつぶやいた。
 「大森を殺る」
 玲子の目に戦慄と歓喜の輝きが同時に走った。
 そんな玲子の表情を不思議な思いで見た隊長は計画の一部始終を彼女に話した。
 「私も、あの人嫌いなんです」
 「今なんて言った?」
 「あの課長が転勤して来てから、ずっと私、つきまとわれているの」
 2杯目のカクテルで少し頬を赤くした玲子の目が潤んでいた。
 闇を走る車のヘッドライトが玲子の瞳の中を流れていった。
 「そうか、そんな事があったのか」
 隊長は玲子の濡れた瞳をそっと手で押さえた。
 
 なぜ隊長は、望峰倶楽部の部員と玲子を偶然を装うように那須で遭わせたのか。
 それは玲子が隊長に言った一言。
 「私、あなたと山に行きたい」
 「7月に那須に倶楽部のメンバーと登る予定だ」
 「私も連れてって」
 「だめっ、この山行は部員だけの企画だ」
 「いや、私も行きたい、あの山は思い出もあるし――」
 中原のことである。
 ワイルドターキーをロックでやり出した隊長は煙草の煙を玲子の顔に吹きかけて言った。
 「よし、偶然を装って会おう」
 
 かくして那須、そして白馬大池の偶然の出遭いが仕組まれた。
 
  では大森はいったい誰に殺られたのか。
 白馬大池から山頂まで登り3時間、下り2時間。
 このトリックをお教えしましょう。
 10月10日の夜、望峰倶楽部の恒例の宴会が始まったのが午後6時2分。
 福井さんは7時6分にテントに入って熟睡、福井さんの奥さんは7時46分にテントに入った。戸部厚が7時52分にダウン、三軒隣のテントからイエローカードが発せられたのが8時4分、北川のテントにいつものメンバーが集まり、小声で話しながら飲んでいた。
 「そろそろ寝ようか、明日も早いし」
 珍しく隊長がお開きの宣言。
 「そうね、私も眠くなってきたわ」
 あくびをしながら、ゆかりちゃんが言った。
 それぞれのテントに入ったのが8時32分、1分もしないうちに隊長のいびきが聞こえてきた。
 「まったく隊長ったら、寝つきがいいんだから」
 ゆかりちゃんが小声でシュラフの中からあやちゃんに話しかけたが、もうあやちゃんもすやすや寝息。
 15分もしないうちに隊長のいびきが聞こえなくなった。
 (うふっ、隊長ったら、いつもそう、あとは静かに眠れるわ)
 望峰倶楽部に入会して4年目のゆかりちゃんは、隊長のいびきのくせを体でおぼえてしまっていた。
 (隊長のいびきが終わると、私、眠れるの)
 8時58分、隊長は同じテントの中の北川のいびきが始まるのを確認した。
 (この男は寝入ると6時間は必ず熟睡する)
 隊長も北川の睡眠のリズムを知っている。
 (もう、こうなったら殴っても起きない)
 北川の左腕の時計をはずした。
 時計の針を3時間戻したのである。
 午後9時14分、隊長は静かに白馬大池の幕営地を後にした。
 月は出ていない。リチウム電池の強力ヘッドランプを隊長は3個、こっそりザックに忍ばせていた。頭に一つ、両手に一つずつ、そしてサブザックの中にはナイフ。
 2年前にこのコースは歩いている。
 それよりもなによりも、今日、往復してきたばかりだ。
 隊長は倶楽部の部員たちと冗談を言い合って登っていた。でも、しっかりこのコースを頭に叩き込んでいたのである。
 翌10月11日、午前零時9分、白馬山頂に着く。玲子や大森たちの眠るテント場までは15分で下りる。
 (玲子は寝ているだろうか)
 もちろん寝てなんかいられない。これから起るであろう恐ろしい光景を思うと玲子はただ、テントの中でひとり震えていた。
 隊長は玲子との何度かの打ち合わせの中で、大森はいびきがうるさく、テントでは一人で寝ることを確認していた。
 「大森課長、一人用のテントを買ったらしいわ」
 「それは好都合だ」
 と、両膝を叩かんばかりに隊長は喜んだ。
 月明かりが白馬山頂へと続く稜線を静かに照らし始めた。
 大森の眠るテントはすぐわかった。
 (玲子の言ったとおりだ)
 IBSのウルトラライト一人用のイエローである。
 テントの中から大きないびきが聞こえてくる。
 隊長は返り血を浴びた時のために雨具とスパッツ、それに軍手を頂上で装着した。
 テントのファスナーを開けてから、大森の呼吸が止まるまで1分足らず、みごとなナイフさばきである。
 テントを出て来た隊長は、その狂気を裁くかのように静かに輝く天空の月を見上げ、大きく息を吐いた。
 まるで夕立に遭ったかのように血の雨にまみれた雨具、スパッツ、そして軍手を準備してきたビニール袋に入れ隊長は頂上へと戻った。
 呼吸が乱れていた。山荘前の椅子に思わず手をついてしまった。
 まずい! と思ったがライトを照らすと何一つ跡はつかなかったように見えた。
 ここで着けた血痕は13日午後、山荘の従業員に発見され、科捜研でA型血液と鑑定された。(第5章)。
 午前零時32分、山荘を離れ頂上からは走るように下った。
 三国境でザックからビニール袋を取り出し中に石を入れ、岩の間から白馬沢に向かって腕が引きちぎれんばかりに投げ放った。
 時計の針は午前1時12分を指している。
 急げ! 月明かりの稜線を天狗のように走り下りた。
 午前2時52分、白馬大池に戻った隊長は肩で息をしたまま地面に這いつくばった。
 (早くテントに戻らないと――、北川よ、寝ていてくれ)
 北川は疲れていた。この時刻のテント場はいびき合唱団。
 やっとの思いで息を整え、北川の隣のシュラフにもぐり込んだ瞬間、彼が目を醒ました。
 ガサガサと音がしてライトがついた。時計を見ているようである。
 (そうだ、よく見ろ、まだ11時58分だ)
 しばらくしてライトが消えた。
 (隊長はええな、いつも朝まで熟睡や、悩みがないんやろな)
 30分ほど様子をみて隊長は静かに北川の腕を取り、時計の針を3時間進めた。
 夜が明けた。一睡もしないまま隊長は北川が起きるまで、まんじりともせずにテントの中で大きく目を見開き、つい数時間前の出来事を思い返そうとしたが頭の中は白く回転するばかりだった。
 6時15分、北川が目を覚ました。
 テントから這い出てみんなのコーヒーを沸かし始めている。
 しばらくして隊長が起き出してきた。
 「おはようございます」
 「ああ、おはよう」
 「隊長、ぐっすり寝てましたね」
 「君はよく眠れたかい?」
 「ええ、12時ごろ、ちょっと目が覚めましたが、隊長のいびきもそのころは収まっていたので、またすぐ寝入っちゃいました」
 
 隊長の長い長い一夜が明けた。
 
 第8章 白樺だけが知っていた
 
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