第8章 白樺だけが知っていた

 師走の風が料金所の枯葉を舞い上がらせている。
(そろそろ着く時間だな)
「隊長、お久しぶり」
運転席のガラスが勢いよく叩かれた。
望峰倶楽部・松本支店の三人娘が隊長の顔を覗き込み、笑いこけている。
「時間どおりでしょう、ぜんぜん迷わなかったわ」
東北道・佐野サービスエリアに望峰倶楽部のメンバー全員が集合した。恒例の忘年会である。
寺ちゃんの赤のエステートワゴンもピカピカにワックスがかかっている。
「北川くん、おつまみのかまぼこは?」
寺ちゃんが今夜の三次会の部屋での酒のつまみをすでに心配している。
「あっ、忘れてきました」
小田原に住む北川はかまぼこが嫌いなのだ。
                              
  日光・東照宮
 暮れの日光は人気がない。宇都宮・日光道路もまったくと言っていいほど車がない。
それでも今市から鬼怒川へ続く道になると多少混み始める。
今夜の宿は「M旅館」
鬼怒川にある他の大型旅館とは一線を画した風情のある宿である。
玄関前の黒松もすでに古葉を整理し終え、お正月の支度をしている。
「宴会前に、一風呂浴びましょう」
寺ちゃんが部屋割りやスケジュールを管理している。
隊長と寺ちゃん、そして北川が最上階の南の部屋になる。
「まずはビールや」
北川がさっそく冷蔵庫からビールを取り出し、それぞれのコップに注いだ。
「とりあえず乾杯」
グィ、グィ。
「よし、風呂に入るべ」
浴場に続く石畳の通路で隊長は立ち止まり言った。
「先に入ってくれ、ちょっと電話してくる」
寺ちゃんと北川がスキップして風呂場へ向かった。
「もしもし、玲子、今旅館に着いたとこ、これから風呂に入るよ」
「いいわね、楽しそうで、私なんか今日は大掃除よ」
「ご苦労様、俺は今夜は飲んだくれます」
「そんなことより、今晩か明日の間に必ず殺ってよ!望峰倶楽部のメンバー、一人でも二人でもいいから」
「わっ、わかった」
「約束よ、破ったら玲子が死んじゃうから」
とんでもない約束をした隊長である。
露天風呂に二人はいた。
「最高の気分ですね」
北川の頭から湯気が立っている。
「あんな松も隊長は手入れするの」
と寺ちゃん。
風呂から高さ20メートルはあろうかという赤松が数本見える。
「あんな高いのは無理だね」
隊長は他のことを考えている。
(この風呂なら殺れるな。二次会が済んだ後、二人のうちどちらか酔いがまわっている方を誘えばいい)
もう一人は女性軍から選ばなければ――。
(でも一晩に二人も殺るのは疲れるから、もう一人は明日考えよう)
けっこうのん気だ。それに場当たり的過ぎる。
二次会でカラオケを100曲くらい歌って、三次会は女性軍の部屋だ。山の話で盛り上がる。
「あれっ、寺ちゃんは――」
すっかり酔っ払った隊長があたりを見渡すと、ふすま隣の部屋に寺ちゃんはいた。それも女性と同衾。由梨絵のふとんにふたりかさなるように入り眠りこけている。
見たことのない光景である。
(単身赴任が長いからな――)
隊長が酔いの回る頭でしばらく考えていたが、次に気づいた時は朝だった。

 二日酔いの頭痛の中、みんなで朝食を済ませ、隊長は少し早く席を立ち、玲子に電話をかけた。
「ごめん、寝ちゃった」
「今、なんて言ったの」
「ついつい飲みすぎて――」
「だからあんなに言ったのに、まったく、もぉー」
「久しぶりにみんなと会ったから嬉しくて――」
「そう、私といる時より望峰倶楽部のメンバーといるほうが楽しいんだ」
「うん、そうだ」
とは言えない。

 信州・上林温泉で玲子から今回の殺人計画を打ち明けられ、隊長はずいぶんと悩んだ。
――長年の山仲間である望峰倶楽部のメンバーを殺すなんて、俺には出来ない――。
――でも玲子と約束したし――。
冬山の登山口で、吹雪の中、いよいよ目指す山頂へ登り始めるか、それとも下の温泉に入って熱燗で一杯やるか、悩ましい選択である。
 東照宮・陽明門
「日光の東照宮を案内するよ」
隊長は決めた。もちろん熱燗のほうである。
(あそこなら一人くらい殺るのは簡単だ)
「世界遺産になった東照宮ですか?」
北川は北関東には初めて足を踏み入れたせいか、好奇心旺盛になっている。
「うん、正確には日光二社一寺、東照宮、輪王寺、それに二荒山神社の三つ合わせての登録だ」
「全部見るんですか?」
とゆかりちゃんが声を低くしてつぶやいた。
「輪王寺と二荒山神社はマイナーだしな」
隊長が切り捨てた。
乾いた風の中、望峰倶楽部の七人は[眠り猫]の門をくぐって奥に進んだ。徳川三代目の墓に続くうっそうとした杉木立ち。
(よし、ここなら一人くらい訳ないな)
誰にしようかと、思案しているところに北川の声。
「隊長、このカメラ、おかしいんです」
なんと、北川が差し出したカメラのファインダーの向こうにギャルが一人。
「あの女性に撮ってくださいと頼まれたんですが」
「どれどれ、俺が」
「あっ、わかりました。ロックされてました」
北川がファインダーを覗く。
「はい、よう撮れました」
「ありがとうございました」
「もう一枚、いきまっか」
北川は攻撃的な写真家である。
のこのことギャルに付いて行って、陽明門の下でもう一枚、パチリ。
望峰倶楽部のメンバーも一緒になって移動するうち、出口まで来てしまった。
(しまった!殺るの忘れた)
「隊長、私、おばあちゃんにお土産買わなくちゃ、一緒に来て」
マリが土産屋に歩いていく。こんな心模様がマリの山好きの要因の一つになっている。
買い物を待っている間に隊長は玲子に電話をかけた。
「ごめん、忘れた――」
「忘れたって!何を?」
「殺るの」
「なんですって!」
「だって北川が――、カメラのシャッターが――」

宇都宮のそば屋で昼飯をすませ、それぞれが帰路いついた。
(やっぱり望峰倶楽部のメンバーを殺るなんて、俺にはできねぇな)
まだ二日酔いでガンガンする頭を隊長は自分でゴツンと叩いた。

暮れも押し詰まった12月29日、隊長は一人、奥日光にいた。
家の大掃除を済ませ、これから正月の準備にせわしない時期に空白の一日を作り、山に入るのが隊長の一年の最後の楽しみである。
いろは坂を登りきって戦場ヶ原南端の赤沼茶屋に車を止め、小田代が原へ歩いている。
みぞれまじりの雪が、湯川の流れをいっそう冷たくしている。
湿原に立つ一本の白樺を撮りに来たのである。
[貴婦人]と呼ばれている。あまりにも俗すぎるネーミングがそのまま、ここに集まる素人写真家のレベルを現している。
隊長にはこの貴婦人、いやこの白樺にある思い入れがあった。
まだ日光湯元スキー場にロープ塔があった頃である。
スキーの帰り、二人は雪の小田代が原に寄った。
「あの白樺に緑の葉が繁る頃、結婚しよう」
あゆみは黒い瞳がよく動く愛くるしい女性だった。
彼女は冬になると元気が出た。夏の海辺はからっきしダメ。
「わたし、もう帰りたい」
砂まじりのサンオイルが体にまとわりつく感覚が嫌いだった。
「冬は体が凍りつくようで好き」
いつの間にか、あゆみは冬山を歩くようになった。
「わたし、先週、那須に行ってきたの」
二月のことである。
「どこまで?」
「大丸に車を止めて、峰の茶屋まで登ったわ」
「誰と?」
「一人よ、もちろん」
秋に二人で歩いたところだった。
冬にはアイゼンが必要になるくらい厳しいコースだ。
驚いた隊長はしばらく声が出なかった。
「いつの間に、そんな山やるようになったんだ」
「あら、山登りの楽しみを教えてくれたのは、あなたよ」
けろりとあゆみの口から出た言葉に隊長はあまりの頼りなさと、妙な不安を感じとった。
「もうやめろよ、一人で登るなんて」
「わかったわ、ごめんなさい」
素直に頭を下げた彼女がいとおしく、隊長は思い切り抱きしめた。

 雪は思いのほか深かった。
(こんなに雪が多いなんて、想像以上だわ)
スキ―客であふれる湯元スキー場のリフトを二つ乗り継いで[白根山登山口]の案内板のところまで、すでに1時間かかっている。
(確かカンジキって言ってたわ、あれがあると便利かも)
隊長は自分のアパートの部屋で、あゆみに冬山の装備を見せてやったことがある。
「このアイゼンはシャルレ、ピッケルはシモンさ」
「この木で出来ているのは何?」
「カンジキ、雪が深いときに使う」
「へえ、お部屋の飾りになりそう」
「けっこう歩き方が難しいんだ。ガ二股になって歩く」
隊長が畳の上をカンジキ歩行のまねをすると、あゆみも一緒になって歩いた。
(あれ、借りてくればよかったわ。でも又一人で登るなんて言ったら、絶対貸してくれないわ)
雪が舞い始めてきた。先行の登山者がつけた踏み跡が少しずつ消えかかっている。
(行けるところまで行こう。途中で引き返してもいいんだわ)
あゆみは、いつのまにか白根沢に迷い込んでいた。
踏み跡が無くなったあたりから、コースを左に折れる標識を見落とし直進していた。
ゆるい傾斜がそのまま白根沢に続いている。初心者が犯しやすいミスをあゆみは少しずつたどっていた。
正午を過ぎていた。歩くたびに膝の上まで雪にもぐった。
ゆるかった傾斜がいつの間にか急な登りになっている。
立ち止まって大きく息をするあゆみに白い恐怖感が襲いかかった。
(戻らないと――)
不安と焦りが彼女を支配した。
下りながら何度も転倒し、髪の毛に雪がまとわりつく。
水分をずっしりと含んだ日光特有の重たい雪がザックの上に降り積もり、あゆみの体力を必要以上に消耗させた。
(俊介くん、助けて)
ザックを降ろしたまま、あゆみは走りだそうとした。雪は腰の位置まできている。
この日の天気図では、日本海から発達した低気圧が関東地方全域を覆っていた。
急激な降雪はあゆみから正常な判断力を奪い取った。
手袋とヤッケを脱ぎ捨てたあゆみは、雪の中を泳ぐように彷徨った。
素手で雪をかき分けたが、もう冷たさを感じるだけの能力が彼女には残っていなかった。
(ごめんね、俊介くん)
あゆみが正常な判断をした最後の言葉になった。

5日後、あゆみの遺体は金精沢の下部で発見された。
下るべき白根沢をトラパースぎみに北へ回り込み、沢の緩斜面でリングワンデリングを繰り返し、彼女の精神と肉体のすべてが冬の魔の手に奪い取られていた。

 みぞれまじりの雪の中、じっと隊長は一本の白樺を見つめていた。
遠ざかる過去をこの白樺だけが知っていた。
――俊介くん、今度はアルプスへ連れていって――。
降り積もった雪の中から、あゆみの声が風に乗った。
真っ白い湿原にそれはいつまでもこだましていた。
そこにケイタイが鳴った。
「わたし、玲子、いま、どこにいるの?」
「小田代が原にいる」
「何?それ」
「君を連れてくることは出来ない」
なにを言ってるの、今晩からスキーに行く約束じゃない」

福島の羽鳥湖スキー場に行くことになっていた。

                                                  第9章 星明りの裸身


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