第11章 北の国からの電話

「カチ―ン」
グラスの中で氷がぶつかる。
「山ちゃん、さっきから何を深刻な顔してるの」
吐き出した煙草の煙がママの顔にかかった。
「ねぇ、山ちゃんたら」
隊長は店では゛山ちゃん゛と呼ばれている。
今日も三軒目だ。しかし酔わない。
「ひげも剃っちゃったし、最近の山ちゃん、ちょっとおかしいわ」
ママが空になったグラスにウイスキーを注ぎ足す。
「ママ、歌いましょう」
「そうよ、菜々ちゃんとデュエットでもしたら」
「山ちゃんの好きな歌、菜々やっと憶えたわ」
「へえ、菜々ちゃん、歌えるの」
「でも、あの歌ってデュエット曲じゃないし」
「ねぇ、山ちゃん、あたし歌っていい」
「あらっ、ママには無理よ、私が歌うわ」
菜々がマイクを握りしめた。
――思いでのサンフランシスコ――
隊長は玲子と行きたかった。夕暮れのゴールデンゲートブリッジを二人で見たかった。

「まあ、菜々ちゃんたら、すてきな発音ね」
「私、学生の時、西海岸に二ヶ月間ホームスティしたの」
「あたしなんか、大洗の海岸しか知らないわ」
二度目の煙がママの顔にかかった。
「じゃあ、今度はあたしが山ちゃんの好きな歌、歌ってあげる」
――サージジェントべパーズロンリーハ―ツクラブバンド――
「ふーっ、久しぶりに歌ったら息が切れちゃったわ」
こんな店、珍しい。

 そのころ黒磯署は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
一本の電話からだった。
――風間玲子の口座から現金が下ろされています――。
A銀行本店の総務課から黒磯署に通報があった。

「私、風間玲子さんと高校の同級なんです。新聞の記事を見て、それで気になって彼女の預金データを確認してみました。そしたら遭難した後の五月六日、九日、十四日と立て続けに現金が下ろされているので、すぐ課長に報告しました」
A銀行上河原支店の上原麻衣は高校の三年間、玲子とクラスが同じだった。
短大卒業後、玲子はN証券、麻衣はA銀行に就職、同じ金融関係の仕事に就いたこともあり、年に数回は連絡を取り合っていた。
「彼女、私の支店に口座を作ってくれたんです。麻衣もけっこう大変よねって言って」
まだ幼さがくちもとに残る上原麻衣は、富永警部の目をじっと見つめたまま事の経緯を話した。
「そのデータ見せてくれっけ」
A銀行本店の応接室で富永警部は上原麻衣のの隣に座っていた本店総務課長の中田から風間玲子の入出金データを受け取った。

五月六日、 午前10時52分 M銀行仙台青葉通り支店
五月九日、 午後2時24分  S銀行札幌大通り支店
五月十四日、午前9時43分  D銀行小樽支店

煙草の灰が富永の膝に落ちた。
――この金の下ろし方は犯人じゃねぇな、ぴったし二十万円ずつなんか
   こんな足のつく下ろし方しねぇ、
   すると風間玲子は生きてんのか、だつたらなぜ家に戻らない
夕刻から始まった捜査会議は隊長が三軒目の店を出ても終わらなかった。
犯人逃亡説と玲子生存説が真っ二つに分かれた。
犯人逃亡説
   @ひげのポール・ニューマンと玲子との関係
   A北海道で預金が引き出されている
   B拉致、監禁、あるいは遺体の未確認
玲子生存説
   @ひげのポール・ニューマンと玲子の関係
   A玲子の家族及び職場関係
   B金銭トラブル

謎は深まるばかりである。
「いずれにしても、そのひげ面のポール・マッカートニーじやねぇや、ポール・ニューマンが事件のカギを握っている。すぐ手配しろや」
署長がテーブルを叩いた。
仙台ー札幌ー小樽と富永が飛んだ。
玲子の顔写真とひげ面のポール・ニューマンの似顔絵をバッグに入れて――。
                                         
 小樽の街から北に五キロほどのところにある日和山灯台。
そこに玲子はいた。
日本海からの風がさわやかだ。この時期の小樽に湿気はない。
風は玲子の髪を巻き上げなかった。長い髪を切ったのである。
黒ぶちのメガネをかけ、髪をショートにした玲子は別人だった。
そう、心の中も――。
五月四日未明に意識を取り戻した玲子は変身したのだ。
あの時、雪渓を斜行したまま、潅木帯に突っ込んだ彼女は、がけの一歩手前で止まった。
いたずら好きの玲子は隊長が予感したように驚かそうと身をかがめて雪渓の西側の潅木帯を十メートルほど進んだ。そして不覚にも、もう一つのがけに足を滑らせて今度は本当に落ちた。
三メートル下のハイマツ帯にドスンとしりもちをついたが次の瞬間、バウンドし岩に後頭部を打った。そのまま気を失い、寒さで目を覚ましたのが翌朝、しかしまだあたりは暗い。
「どこなの? どうしてこんなところにいるの? それにしても寒いわ」
空が白みかけたころ、玲子はあたりを見回し、そして自分の服装を見た。
「私、山に登ったの?」
玲子は記憶を無くしたのだ。
連休の前夜、隊長からの携帯を取った。
「明日の朝、五時に迎えに行く」
その後の記憶がすっぽりと抜け落ちていた。
(那須に登る予定だったわ)
もう一度、ゆっくりあたりを見回した。
――ここは那須なの? でもどうしてこんな場所に?
   一人で登ったの? それとも あなたと?
陽が昇りかけていた。
立ち上がると、岩だらけの斜面である。
――道がないわ、迷ったの? それとも――
自分の着ているものを確認するかのように触れてみた。
シャツの肩口が大きく裂けていた。少し痛みを感じて手を触れると血がにじんでいる。
――滑落したんだわ、 でも、なぜ――
玲子は空腹に気づいた。
――いつからここにいるの?
空腹感からいって、そんなにたってない。たぶん昨日登ったのだろう。
夜露に濡れた登山靴の紐を締めなおし、ゆっくりと立ち上がって、ガレ場を下に向かいはじめた。
ところどころの斜面にハイマツがある。
――やっぱりここは那須だわ、
標高2,000メートル近くからはえるハイマツもここ那須では1,500メートル以下でも見かける。
―那須の気象は侮れないんだ―
隊長の言葉を思い出した。
クマザサが風に揺れる稜線は東に向かって落ちている。
――斜面にクマザサがある尾根、
   あの尾根かしら、朝日岳から続く長くゆるやかな尾根、
玲子は勘違いをしていた。
朝日岳から東の鬼面山へ、たおやかな曲線をのばす稜線がある。
峰の茶屋から下山口へ向かう時の玲子が見慣れた稜線だ。
玲子は今、毘沙門沢の源流にいる。
見上げる尾根は三本槍の北側からつづく中の大倉尾根だ。
――ここを下れば大丸温泉にたどり着くはずだわ、
残雪期でも、登山道をはずれ山を歩くことは新たな遭難を意味する。
玲子は幸運だった。
一つ北側の沢を下っていた。
明礬沢をはずれ大丸温泉に落ち込む谷はとうてい女の足では無理だ。
しかし傾斜の緩い毘沙門沢は、いくらかでも登山経験のある玲子にとってそれほど難しい下山路ではない。
沢水と雪渓の雪で靴の中をぐしゃぐしゃにして、3時間あまり、建物が見えてきた。
――やっと着いたわ、
ブナの樹林帯のすきまから古ぼけた数棟の建物が玲子の目に入ってきた。
――北、えっ、北温泉なの?
山の斜面から落ちる「打たせ湯」の上部にある祠が見えてきた。
玲子は沢をはさんで北温泉の反対側まで下りてきたのだ。
小屋に助けを求めようとした瞬間、なぜかその思いはすぐに玲子の頭から離れた。
――もう、あの家には帰りたくない、
玲子の両親はここ数年、不仲、父の浮気が原因である。
「わたし、こんな家出て行く」
何度も弟の優一に言った。
疲労と空腹のまま、那須の山奥で一夜を明かした玲子は動物的な直感に支配されていた。
沢を大きくまわり込み、宿の温泉プールの東側の石段を上がり駐車場までの登山道を歩き出した彼女はある決意をしていた。
車が十台ほど停まる駐車場に着き、温泉への客を降ろしたタクシーを見つけ、
「近くの駅まで!」
運転手に呼びかけた。
「はあ?」
怪訝そうにバックミラーから玲子の顔を見た運転手はギアを入れた。
「黒磯駅が一番近いが――」
「新幹線の駅は?」
「那須塩原駅だが」
「そこまでやって」
松林の中をまっすぐに走る那須街道を車の車窓から眺めながら玲子は、静かに言葉を出した。
「運転手さん、途中でスーパーに寄ってください」
着替えを買いたかった。
那須塩原駅で玲子は仙台までの切符を買った。
白いポロシャツと紺のパンツに黒ぶちのメガネをかけた玲子はスーパーの中の美容院で髪を切った。
――私は生まれ変わったんだわ――。

 午後六時近くに仙台駅に着いた。
駅前のホテルに二日間泊まり、六日の午後、仙台空港から新千歳行きのJALに乗った。
札幌のホテルに閉じこもったまま数日を過ごし、小樽に着いたのは十一日、ここは死んだ玲子の元恋人、中原の生まれ故郷である。
函館本線で小樽から三つ目の駅―朝里―、中原が高校まで住んだところである。
なにもなに街である。石狩湾に面したひなびた田舎町。
――ぼくのふるさとにも山がある。朝里岳っていうんだ、その南には余市岳がある。
   東には手稲山も見えるんだ。
海沿いに小さな民家が点在する。駅から十分ほど歩いた小高い丘に登り、玲子は石狩湾に沈む夕日をいつまでも見ていた。
 翌日、玲子は日銀小樽支店のすぐ近くにあるホテルから、ある男に電話をかけた。
「もしもし、北川さんですか、私、風間玲子といいます。今度の日曜日、東京でお会いできません?」

    あの玲子から突然の電話をとった北川はー 第12章 雨の道玄坂 へつづく 


トップへ
戻る