琴 平 神 社 柏倉町
報告者氏名 関 口 光一郎
大阿久 岩雄
琴平神社は鞍掛山の頂上に鎮座し、之は巴波川舟運と渡良瀬川・秋山川南舟間
に当るので、渡良瀬川・秋山川舟運関係者は、佐野・田沼・葛生・足利・上州か
ら、巴波川舟運関係者は栃木・寒川・部屋・古河方面から船主・船頭・丹子等の関係者
が参拝に来た。明治5年の本殿・拝殿・神楽殿及び社務所の大改修は、すべて祈願者の
奉納に依り行なわれたものである。
山門にも似た間口8間、奥行4間の三階建額殿が完成したのは明治11年で、社務所も
間口4間、奥行4間の三階建であった。
山頂は次第に広げられ、僅か240坪の平地に茶屋が数十問立ち並び、北関東一の社に
なったと云われる。
吹上に住んで居た嶋村桑園の描いた「野州琴平神社総署図」は最盛期の模様を措いた
ものである。
茶屋は左手前から、角松屋・大古久屋・白木屋・増田屋・皆川屋・関口屋が並び、拝
殿裏手には中屋・足利屋・常磐屋・関塚屋・十一屋・布袋屋・竹屋・吉野屋・大田屋等
が記されている。
最盛期には神官約11名、巫子約16名が常住し、茶屋も62軒、芸子多数住込み、参拝客
も続々と来参したと云う。
明治15年5月琴平山内十一種で開かれた奉額の為の句会には東京・千葉・茨城から文
人多数参集したと云われる。
「初雪や 鞍掛山の 帽子ほど」石花 之は小築庵宗匠の撰にかゝる其の折の秀作である。
明治の中期頃から琴平神社を支えて居た河川貿易が、急速に発達した陸上交通によって
打撃を受け、衰退を辿る事になった。
琴平神社の講社の数の多いのは有名で、今尚、群馬県小島町に小島講、千葉県銚子に
網元斉藤講、足利郡富田宿に富田講があり、昔の名残りを残して居る。
琴平神社は、地元氏子もさる事乍ら、之等多くの講及近郷遠地の崇敬者によって支え
られ栄えたのである。
琴平神社の戦前の祭行事中、特筆すべきものとして奉納の神楽がある。神楽は依田流
(十二神楽)で、此の近郷に普及されているもので、氏子中に神楽師が居て、戦前は毎月十日
「月次祭」に神楽を奉納し、大祭(10月10日)・小祭(4月10日)は特に盛大であった.
当時、地元に8名の神楽師が居り、皆、故人となったが、後継者を養成し、現在10名
の神楽師が居る。
昭和20年の火災に依り、社屋すべて消失、末社愛宕神社(火防の神)のみ残った折り、
神楽道具一切も消失してしまった為、戦後の大祭、小祭には借衣裳(大平町武井の
中山福次郎氏)で奉納した。其の後、中山氏の提案に依り衣裳を購入した。
現在は
1月 1日 元旦祭(近隣の参拝客で賑わう)
4月10日 小 祭(年番・総代により、餅・赤飯を供えて祝う)
10月10日 大 祭(年番・総代・氏子が集まり祝う。各家庭にても親戚・
知人を招待している。)
現在は祭日と雖ども店は一軒も出ないが、昔は煎餅を笹竹に紐で結んだ葉団扇煎餅・
琴平団子が有名であった。戦前、祭典の日には村長初め学童が参拝して居た。
現在も葛生方面の講社の人々が祭の日に来参して居り、地元氏子も地域活性の為、崇
敬者を集めるべく道路の整備等、努力しつゝあるが、敬神の念薄れた現在、再興は極め
て至難な状況と云わざるを得ない。