日記風メモへ

2005年12月25日(日)

 いつからだろうか、25日が毎月自分にとって、何かしらか縁日となっている。円仁大仏を奉納したのも6月の24日が突然の都合で25日に変更されたし、その前のときもそんなことがあった。

2005年12月22日(木)

 ある石屋さんで、拙寺の無縁供養墓の管理をしていただいている方が、いつも次のように話をしてくれる。「この無縁供養墓を作るときは不思議なんですよ。一度として雨が降ったことがない。あぶないかな、と思っていてもその作業しているときは必ず雨が上がるのです。」そういう石屋さんに大慈寺の無縁供養墓を作っていただいたのは、もう5,6年も前のことだろうか。
 その社長さんから今朝急に電話があって、今日大慈寺で無縁墓の仕事をしたいという。今日は別にシルバー人材の方も来られる予定であったので、では一緒でよければという話をしてお待ちしてた。風はあったけれど、まあ何とか降らないでいきそうな天候だった。
 しかし、午前の遅いころ、その社長が到着したころから、ちらほらと雪のようなものが舞い始めた。そして、石の配置や新しい供養墓などを検分して、どうも今回だけでは済みそうにない、また暖かくなったら伺いたい、それで今回は自分の方でもってきた供養墓だけを置かせてほしい、という話しをされた。無論社長さんの話に異論はない。それで、さて石降ろしの作業を始めようかとうい段になると、さらに雪が激しくなって吹雪のようになってきた。
 「社長さん、すいませんね、寒い中、無駄足をさせてしまったようで。」「いや、どっちみちまた来なくてはならいのでいいのですよ。今日たまたま日があいたので、大慈寺に下見を兼ねて来ようかという気になっただけなのです。」そういう社長さんたちの仕事が終わり、近くのラーメンやさんで昼食を一緒にしていると、何と雪はやみ、太陽がまぶしく輝きだした。「天気になりましたけれど、今日は仕事が途中になりますし材料もないので、また暖かくなったらお邪魔します。・・でも不思議ですね。無縁供養墓の作業するときに、天気が悪くなることなど今までなかったのに・・。」
 社長さんは、今までの自分の豊富な経験からはずれた今回の天候に、若干の不満があったようであった。しかし私の考えでは、二つの点で、今回の天気を認めたい。一つは降ったのが雪ではなくて雨であるということ。もう一つは、石屋さんが持ち込まれた墓石の中に重要な方のものがあったということである。であるので、決して社長さんの話がおかしいのではなくて、さらに別の要素が加わっていたと考えていいのだと思う。よくわからないけれど、そんな気がしている。

 天候の話で思い出した。中国は天台県の国清寺では、毎年年頭にその年に行う、国清寺のお祭の日を公表するのだそうだ。そして今まで、そのお祭の当日には一度として雨が降ったためしがないということである。天台県の地元の方に聞いた話である。

 今日は冬至の日。陰中の陰。復活の信仰。

2005年12月18日(日)

 今年初めて雪がふり、朝起きてみると1センチ程度の積雪があった。
 しかし昨晩の、目覚めている時間帯は風もなくて、静かな夜だった。そんな夜の1時頃だろうか、パソコンをかちかち打っていると、ヒューンというような長い音が外でした。はてこれは車が走っている音か、あるいは風の音か、と分別して耳を傾けていたのだが、どうもどちらでもないらしい。しかもたった一回の音だった。
 あの音は冬が、雪がやってくる前触れの、冬の案内人だったのではないだろうか、と想像してみた。今から冬が来るぞ、雪が来るぞと皆に知らせてまわる何か。そんなものが、この山奥の地には十分あってもいい。

2005年12月11日(日)

 昨年他界された師の夢をみる。まだまだ教えていただきたいことがたくさんあった。その残念な気持ちを持ちながら、今よちよち歩きでその道を歩こうとしているのだ。
 そんな気持ちがあるからだろうか、先生が実は生きているんだという夢を見た。確かにあの先生なら、そんなこともありえると思えるような先生だった。それなら今のうちに、疑問の箇所を教えてもらわなくては、と急いで質問をして、そしてそれぞれに答えていただいた。夢の中で自分は、できるときに質問しておかなくては、という切羽詰った気持ちだった。
 その内容たるや・・。これは実生活の中で実証していくしかなかろう。自分の潜在意識の範囲での答えとも言えるし、疑問がすっきりした形になったとも言えるし。

 不思議な夢というのを時々みる。

2005年12月9日(金)

 今日の法事でお聞きした、メモすべきこと。同席されたその方は栃木県出身の方であり、大戦時に中国に行かれた方であるという。済南の地に参軍し、都合でその地にあるお寺にお参りされた。その折に、日本国僧円仁が来たという記述のある碑を発見して驚いたということであった。
 ときに、昭和19年の話である。今その寺がどこにあり、その碑がどうなっているかの情報を、現在まで全く得ることができていない、ということでもあった。

2005年12月8日(木)

 戒名をお付けするのは、非常に大変なことだということを実感している。なぜならば、その故人があの世にすんなり行ってもらえるように、また故人の因縁なりが子孫に伝わらないように気をつけなくてはならないからだ。
 しかしそれでも因縁が出てしまうことがある。これはどうしようもない。見えないからだ。だけどなるべく見えない世界も平穏になるように戒名をお付けするという仕事をしている。だから戒名を付けるというのは大変な仕事なのである。

2005年12月7日(水)

 このメモに、今日はこのことを書こう、と思ってパソコンに向かうと、なかなか書けないものだ。内容が微妙なことがらになればなる程、その傾向が強い気がする。
 日本は、言霊の幸わう国だというけれど、同時に言挙げしない国でもあるのだろう。

 日記を見ましたよ、と直接言われると、若干照れる。本当の覚書でしかないのだから。この日には何をして、檀家さんからこんな話を聞いたとか、書いておかないと忘れてしまうことはたくさんある。

 この4,5日間、日本でも活躍され既に他界された、外国人女性歌手のある歌が頭の中でなり続けている。しかも不快ではなく。このことは一体何を意味するのだろうか。

2005年12月6日(火)

 今日は12月の甲子、大黒様の日。

 本当に秋の季節がずれているし、短くなった気がする。温暖化のせいなのだろうか。今まで夏だと思っていたら、冬近くに紅葉を見て、そしてもう寒の気温だという。確かに地球が何かおかしい。

2005年11月30日(水)

 今日きいて、すごく納得してしまった話。同僚の、しかもお坊さんがつぶやく。「俺たちが必要とされ尊敬されるのは葬式のときの二日だけ。それ以外は侮蔑の対象だよ。」

2005年11月28日(月)

 今日は、町の観光協会主催で、大慈寺の裏山である諏訪が岳ハイキングが行われた。しかし非常に残念。参加したいと思い続けていたものの、法事が入っていて参加ならず。いやあ、登ってみたかった。
 裏山なのにそんなに長い間登っていないのか、といわれたら返答しようがない。この30年ほど登っていないのだ。機会がないことと、道と、風景と、体力と、ほぼ未知のものに対する不安があって、一人で登ろうという気までは起きないのだ。
 五十名の参加者いわく、紅葉がきれいだった、遠方の景色がすばらしかった、一番いい時期だった、青空と緑の対比がすごかった。
などなど・・。
 法事が終わり、みなが降りてきた頃に、境内で、豚汁料理の準備をする方々に紛れ込み、頃合を見計らって、いやあ疲れたという顔をして皆さんと一緒に熱汁をすする。
 ただあるのは一番盛りの紅葉と、青い空のコントラスト・・。いやあ行ってみたかった。一人では心もとないし、一緒に行っていただける誰かいないだろうか。・・これでは、男体山を開いた勝道上人にはなれそうもないか。

2005年11月26日(土)

 今月10日から始まった行?のようなものが今夜終わった。おかげさまで、今月、また新しい神社・仏閣にお参りすることができた。ご縁を得ることができた。新しい方との出会いもあった。
 お坊さんは、何をやっても平気なんだろう、と思っている人がいるかもしれないが、決してそんなことはない。ときには休む必要もあるし、わがままを言いたくなるようなことだってある。そんな時期もある。
 「豊かさ」とは何ですか、という質問に、「暖かさ」と答えたことがあった。どうも理解していただけなかったようなのだけれど、重要なことじゃないかと思う。
 厳しさとは、荒行をするだけではない。自分への戒めをさらに強める。
 今回は一発逆転。

2005年10月31日(月)

 夜中外を見ると、蒸気の関係なのだろうか、星が異常に美しく輝いている。東にはもう、ゆったり大オリオンが姿を見せている。もちろん、スバルやら、何やらの先導を受けながら。
 あの明るい星は何だろう。木星だろうか。あんなに遠くに離れているように見えるのに、私たちの暦のもととなり、生活のリズムを形成する大切な星。
 この小野寺の里は、東西と北に山があるので天空すべてを見ることは叶わないけれど、それでも結構夜空を楽しめる。星の季節は、さあこれからだ。

2005年10月30日(日)

 宝の山を見て宝を手にできないという場合、様々な様態がある。一つは宝に対する無気力・無関心であり、一つは宝の価値を見出せないという場合である。
 ついこの間まで自分はその両者であった。そしてそのことをはじる。
 しかし人は、何であれ、陰徳がないとなかなか実行できないものである。しかも陰徳は積みにくい。であるから、陰徳を積もうとう気持ちを絶えずもって、その気持ちを持っていることを神仏に誓う、という日々だけが続いている。

2005年10月28日(金)

 一つの信仰をもって、それをある程度まできわめて、そして若干他人に対する寛容の気持ちが起こってきて、自分の信仰が一番だと信じている人、その人は不幸である。なぜならば、それ以上の信仰へ登っていけないからである。
 言葉は大切、教えも大切。ではあなたは幸福ですか。ある程度の幸福を幸福だと思い込み、でもまだ信仰が足りないといわれて、反省したつもりになって、それで納得していませんか。

 毒出しが一番。その原理は簡単。決まった大きさの、自分という器の中に、毒がある分だけ幸運が入ってこられないからである。

2005年10月20日(木)

 知り合いに誘われ、昨日今日、東北地方の一関近辺の社寺の参拝をした。東北地方の紅葉を迎える直前、朝もやかかるひやりとした空気の中、今までに訪問したことのない寺院をも参拝しえた。
 毛越寺の南洞師の3年前のお勧めもあったのだけれど、初めて達谷窟毘沙門天にお参りする機会をえた。その感動が今も冷めていない。
 開基は坂上田村麻呂にまで遡るようである。三重の鳥居を過ぎると、黄色い肌を見せる岩場に毘沙門天堂がありそこに毘沙門天が奉安されてある。ちょうど岩を背中に控え、はりつくように建物が建てられている。足場を組んで高床式になっているので、階段を登り左右どちらかの扉から入堂すると、中央のお厨司に毘沙門天が祀られている。その前には護摩壇が置かれている。左右の空間には別の毘沙門天が複数控えており、このお堂は何から何まで毘沙門天だ。
ここで焚かれるお護摩は野生的なものに違いない、と直感した。
 驚きは毘沙門堂の形態だけではなかった。それから少し離れた場所にあるマガイ仏も圧巻である。首から下は岩自体の崩落によって跡形もないが、お顔だけは残り、地上五メートルから慈悲の眼差しをいまだに世間に向けている。これは弓矢の矢だけで彫られたものと伝えられている。
 さらに毘沙門堂のほぼ前には池があり、そこに弁天堂がある。中にお祀りされる大変にお美しい八臂弁財天は、限りないお慈悲を注がれていた。

 これだけでも十分ともいえるのに、最後の圧巻は、桂の一木作りという、立ち上がったらお堂を壊してしまうほど巨大な不動明王の坐像だった。
 これらの仏像は、すべて身近にあり、ありのままであり、わたしたちに、その息遣いのままに歴史を伝えてくれていた。
そして何よりうれしかったのは、これらの仏像の多くが慈覚大師作であるということだった。ありがたいご縁をいただいた日。

 お時間をとっていただいた南洞師のお話。その内容よりも、お顔に目が釘付けになる。ご本人は否定されていたが、瑞兆が著しい。その篤い信仰のためなのであろうか。

2005年10月11日(火)

 昨日中村友香さんの結婚式があった。言うまでもなく彼女は音楽劇『円仁』のときに、美しいソプラノの声を聞かせてくれたプロの歌手だ。お相手は将来は牧師さんになるという好青年。友人知人たちの多数の祝福。お決まりだが関係者のスピーチ。何と彼らは堂々とした挨拶をするのだろう。将来、人の前でプリ―チする訓練でもしているのだろうか。
 円仁様の熱狂的な信者である松林蓉子さんの「片栗の華――私の中の円仁――」(中外日報社)が昨日刊行された。その内容たるや、円仁ゆかりの寺院を国内外に訪問しその紀行文を載せるだけではなく、円仁の詳細な年表、歴史的な文献記述、将来した文化、特に声明については非常に詳しく書かれいる。おそらく、フィールドワークの分野で、円仁関連ではこれ以上の本はしばらくでないのではなかろうか。言葉に言い表せないほどの感謝。感謝。
 円仁様ゆかりの二人の記念日。私は友香さんに松林さんの労作を謹呈し、円仁様を通じて皆が安寧を得、繁栄されるようにと祈った。

2005年10月8日(土)

 申の刻ころから、頭がぐわんぐわんする。生きている実感が生々しい。マイナス的な感覚ではないような気もするのだけれど。自分の精神と肉体の変化期であることが如実に示されているということか。

 お寺にはいろいろな方が見える。小野小町を専門に信仰されている方。七福神だけを追いかける方。自分の持っているお守りの売り寺を求めている方。朱印のみを集める方。花のきれいなのを見にこられる方。最澄様の六処宝塔のみを歩いている方。歴史の講釈をわざわざしてくれる方。それから賽銭箱の中身をいかに取り出すかだけを考え隠れて実行している方。・・

 ともあれ、力強い一歩へ。

2005年10月4日(火)

 その場その場で、逃げないでことに当たれば、人間、何とかなっていくものなのかもしれない。感覚的なことなのだけれど、坊さんをやるということもそれに通じているようだ。あるいは、そうなる時期というのがあるのかもしれない。

 暦がきついせいか、いろいろな構想が浮かぶ。しかも現実味を帯びて。
 
確かに不思議なのだ。なぜ天台宗の各寺院には宗祖様だけを祀るお堂がないのだろう。上野でも両大師といえば、良源さんに天海さんだ。大概、天台大師と伝教大師は本尊脇に、掛け軸でかけてあるお寺が多い。そういう慣わしなのだろうか。

2005年10月1日(土)

 今日本が危ない。天災の多発、景気向上の実感のなさ、人間関係の欠落、疎外感の増大、他国の進展による国際的位置の相対的低下・・。まああまり大げさなことを言っても始まらない。しかし日本が危ないという危機感は、特に中国の方々との関係をもつようになってから、強いもの、堅固なものとなっていた。
 しかしその気持ちを救ってくれるものがあった。それは昨年の冬、東京湾のクルージングのとき、立ち並ぶ高層ビルとそこで働いているであろう労働者を見たときに得られた感触とは異質の、言葉では表しようのないものであった。
 昨日、一昨日と自分は京都の町をふらっと歩いていた。いくつかの社寺を訪れ、言いようのない安心感を得ることができたのだった。今まで何回も京都には来たことがあるが、今回初めて何かふるさとに帰ってきたように感じた。日本にいることの安らぎを再確認した。なぜだろう、まだ日本は大丈夫、という気持ちが心の底より沸いてきた。そう、自然の形で自分の心は元の形に復活していたのだ。

 今日は隣接の保育所で運動会。小さいけれどうれしい。人が大切。

2005年9月24日(土)
現代・小野寺奇譚

 お彼岸の今日、山中地区のYさんと話をする機会をえた。その内容を話をされたままに記しておこう。その真偽についてここで語るつもりはない。みなさんでご判断いただきたい。ただしこのYさんは決して嘘を言うような方ではないし、仮に嘘を言ったところで、何のメリットもないという状況にあるということも補足しておこう。

 「夢の知らせ」:
 これは自分の父、大慈寺先住にかかわる話であり、父が平成10年に入院して、結局12年の10月に他界するまで、良い悪いという繰り返しをしていたときのことだった。父と同級生であり親しくしていただいていたYさんが、明け方トイレに行って、そのあと再度床に入って見た、その夢に関する話だ。
「朝の五時頃だったと思うのだけど、トイレから帰ってもう一回布団に入って寝ていたら夢を見たんだ。それがちょうど小野寺のTカントリークラブの入り口あたりを、自分が自動車で走っている。前には車が一台走っている。すると住職のお父さんが荷物を積んだ大八車の取っ手をもって、道路の左側に寂しそうに立っているんだ。そして急に大八車を引きながら、その前を走っている車の前に、横切るように飛び出してきたんだ。あれっと思った。それで車で走ってその場所まで行ってみると何もないんだよ。何だろうと思っていたのだけど、その時刻になくなっていたとは・・お知らせに来てくれたのかねえ。」
Yさんの夢見た27日のまさにその時刻に、父は足利の病院で快復することなく他界していたのだった。これは五年前から聞いていた話であるけれど、改めて今日聞き直す機会を得た。

 「かみなりさま」:
 「昔はよくどこの家でも傘を作っていたんだよ。もちろん戦後だけど。その傘作りの作業を同じ地区のYKさんの家でやっていたら、雷が鳴り出した。それで危ないから少し休もうというので、4,5人いた人が家の中に入ってお茶を飲んでいたんだ。そしたらビシッて言う音がしたので、どこかに落ちたな、と思った。そしたら、自分たちの休んでいるそばの床の上に、まん丸の赤い、そう、ちょうど太陽が西に沈むような色のまん丸の玉があった。一尺5寸もあったかなあ。そしてそれが音もなく動いて、ずーっと座敷を動いていく。昔の家は段があったけど、それも静かに乗り越えていくんだ。そして一部屋移動して土間に落ちたとたんに、それはすっと消えた。みんな、唖然として見ていたさ・・。そしてもしかして家に雷が落ちたのかなと思い直して外に出て屋根を見てみたけれど、何の変わったこともなかった。俺たちはかみなりさまを見たんだよ。自分は電線を通ってやってきたのじゃないかと思う。・・そんな嘘を言って、と非難する人もいるけれど、嘘だったら話も変わるだろうけれど、自分の言っていることは最初から最後まで全然変わっていないさ。実体験だから。」

 「人魂」:
 「葛生まで仕事に行くので、毎朝7時には家を出ていったんだけど、そしたら中妻あたりまできたときに、人魂を見た。十センチくらいの大きさかなあ。それがすーっと尾を引いて動いていく。方角的にはお寺の方から来たような感じだった。ちょうど銅を燃やしたときのような青白い色だった。その尾の長さだって五間もあったさ。そしてその尾が進むにつれて段々と短くなるんだ。そして最後には消えてしまった。・・その前後に誰かがなくなったなんていう話は聞かなかったけどな。」

2005年9月7日(水)

 めっきり秋めいてきた。台風のせいであろうか。夜ないていた蝉の代わりに虫が鳴く。
 今回日本に来た台風、先週アメリカを襲った台風、今年はじめのスマトラ沖の津波、これらは我々の想像を絶している。
 読売新聞の調査によると、75パーセントが無宗教だという。であるが先祖様の眠るお墓のある寺の存在は知っている、という。しかしその人たちは仏教信者ではないという意識である。というラジオを聴いた。
 日本全体が何かを忘れている。しかし意識しないで血として覚えていることもある。

 虫がないている。涼しい風がたゆたってくる。今日一日の生活に思いをいたす。悩みや苦しみや欲望や自責や生活の糧やらが湧いては消え、生まれる前の記憶への想いをいたす、一瞬もある、という感触。

2005年8月30日(火)

 芸術とは、何と人をこれほど感動させるものなのだろう。今日、音楽劇「円仁」で振り付けを担当いただいた石橋先生指導によるステージが池袋であった。あのステージを完成するのにどれだけの時間がかかったのだろう。どれだけの人が苦労し、どれだけの人が泣き、どれだけの人が喜びの涙を流したのだろう。
 表現者は何かが言いたいのだ。これなくしては芸術ではありえない。一部、仏教でいうところの空の思想を除いては。しかしそれは措こう。芸術で何を表現するのか、何を言いたいのか。いいたいことがない人は言わなければいい。それでも今日の日本では十分に生きていくことが可能であるのだから。
 では芸術によって何を表現するのか。漠然と芽生えた自分の意見、主張を形として表現するという過程は、ある意味で、新しい文化を創造すると思われる程の力を必要とする。何を表現するのか。それを明確に捉えられないまま、思索を重ねるうちに別の発想の方が好ましいことに気づくことも多い。その思索を重ねて、自分が「心の底から」本当に言いたいことを発見して、表現することができるようになる人も、世の中には多いのである。
 しかし今日の表現は見事であった。ステージの上に石橋先生の意図を十分に感じることができた。戦争、
平和、生類、地球、そして水・・。
 ただ現実問題として、戦争の話題を、戦争時代が遠くなりつつある日本人が表現すること、これまた難しい。現実味がどうしても薄くなるからである。

2005年8月29日(月)

 24日から29日の今日まで、ウイーンで仏教研究の専門の方々と出会う。厳しく真理を探している姿をもつ何人かの方々は、自分を探している宗教家や哲学者の姿と重なる。
 実力勝負。なるほど厳しい。しかしなかなか魅力ある言葉だ。

2005年8月22日(月)

 ご夫婦と犬とで、裏山の諏訪岳までハイキングされた方と話をする機会を得た。
 いわく、諏訪岳の頂上に祠があるが、そこを開くと去年は鳥の巣があった。ことしもあるかと見てみると、何とまむしがいて威嚇してきたという。
 大切なお山である。

2005年8月19日(金)

 風のない月夜。ただ黙って月の光を見ていた。一体どれだけの時間、見ていたであろう。そばの木は黒いシルエットを作っていた。地面は光に照らされて雪が降ったかのように白かった。虫の声だけは秋の近いことを告げ、自分の異様な興奮に色づけをした。
 その中空に満月がある。満月がある。
 様々な思いが浮き上がっては消え、消えたかと思うとまた浮き上がり、そしてむなしく消えていった。その間、いつも満月は自分を照らしていた。
 この土地で116代の住職が見たであろう月、その他多数の修行僧たちが見た月。
 輪廻、神、地球、詩人、太陽、自然の力、人間の営為、喜怒哀楽、何を思ってもそこに必ず月があった。
 何を語るでもなく、ただ光を慈悲のように注ぐ月。
 ずっと、あなた様のおそばにいたい。「こんなに時間がはっきり見える」という言葉そのもの、そうこんなに心にはっきり沁みる。生命の感触。

2005年8月15日(月)

 地図がなくても檀家さん回りができるようになってきた。
 「暑い中、頑張ってください」と今年は何人もの人に声をかけられた。昨日は朝の7時から12時間。今日は11時間。

2005年8月14日(日)

 お盆の棚経に檀家回りをする。初日は南回り、明日は北回りの予定。
 お盆は単なる儀式ではない。ちょうちんをもって先祖様を迎えるという行為は、生きている者の心だけのためではない。その証拠に、先祖迎えに行く人と、迎えて自宅に帰る人の足取りは明らかに違う。
 なすに割り箸を刺して馬を作り、まこもの箸に小盛の椀。かぼちゃやぶどうをそのままお供えする。せみの声を聞きながら、暑いですねえ、という挨拶もそこそこに線香の香りをくゆらし、腹をすえて読経する、そんな毎年のお盆行事に心ひかれている。

2005年8月8日(月)

 昨日の立秋を過ぎたという意識があるせいか、風が何となく冷たさを含んでいるようだ。8月のお盆で檀家さんをお参りをしているときに、毎年それをほのかに感じる。
 夜の10時半だというのに、草むらが光っている。何か、目の錯覚か、と思ったら蛍がひっそりと淡い光を放っていたのだ。昼間に除草剤を散布した場所だったので、少し心配する。
 夏を惜しむという言葉がある。確かに春は待つだし、冬は来たる。秋を美化するのは、夏を惜しむ気持ちの裏返しに他ならない。夏を惜しむとは、激しい光を惜しみ、ちょうど青春の輝きのような思い出と、写真と、生き物たちとを惜しむのである。

2005年7月27日(水)

 デジャビューというのは不思議だ。多くの人に経験される所であるのに、説明されていない。・・そうですよ。私は過去にあなたに会っているのですよ、その会っている場を見ているのですよ。・・という感覚が生々しく、しかもなつかしい。そのデジャビューを更に見ているという至福の世界。

 円仁様が中国に何を求めたのか。不足している仏教・・。ならば、それまでの仏教では不足があったということを示しているに他ならない。遠く過去の偉人ではなく、自分の身に、目の前にきている相談者の身に引きあてて考えてみないと、そのまま死んだ仏教になる。

 佐野のTさんのご紹介で、K先生が見える。初対面。仏像を見ていただく。過去の仏像は貴い。それはわかる。しかし、今の仏像もまた貴い。心がこめられているからである。

 萩原葉子さんが死んだ。杉浦日向子さんも死んだ。なぜ、この数週間の間に、自分が読んだ本の人や、噂をした人が次々と鬼籍に入っていくのだろう。

2005年7月25日(月)

 1ヶ月が経過した。その間、新聞や地元のテレビで奉納式典の様子が放映されたし、今後も放映される予定が入っている。写真も次々に集められてきている。
 いろいろな人がお寺に出たり入ったりしている。今まで近かった人が離れ、遠くにいた人が近づいた。だからお寺はなるべく中性でいるように心がけたい。そうすれば、色々な因縁の人が来ても、その因縁と縁ができることがないからだ。そして因縁をもってきた人がきても、中性のものとは縁ができないで立ち去るからである。

2005年7月17日(日)

 父が必死になって集め、検証し、ガリ版に残した希少な著作が、日の目を見るような話になってきている。考古学のプロパー宇都宮のTさんが、暇にあかせて入力して公表していただけるということで話がついた。これをそのままにしておくにはもったいない、私も今同じような努力をしているので、コツコツ努力されたお気持ちがよく理解できる、というお言葉もいただいた。
 Tさんに深い謝意を表したい。

2005年7月7日(木)

 いつもとは違い、今朝は慈覚大師堂前で、強烈な礼拝。ストレート。

2005年6月26日(日)

 昨日、無事に奉納式典が終わった。
 日本と中国との違いを痛感する。勢いは中国にあり。太陽は日本にあり。去年に引き続きO先生のご臨席。
 ではその時間だけの雨の意味する所は何なのか。自分の責任とするにはカッコよすぎる。北の事象とするのか。そうすると交わり、家庭、なじむ・・。
 記念写真に、円仁像が慈悲のお顔で後ろからこっそりのぞく。

2005年6月22日(水)

 いよいよ明日となった。出発の準備で追われる。しかしその前に、日常の仕事は通常通りにすませる。

 準備のために、ばたばたと夜の境内を歩いていると、川べりに、何か進路を横切るものがあった。何とホタル! 何十年この土地に住んでいて、おそらく初めてではないだろうか。しかも水の汚染が言われているというのに、この命はどこの水辺からまぎれてきたのだろう。
 ゆらゆらと光の線は、手に触れるばかりの高さから、明滅しつつ川の上に覆いかぶさる小高い木まで飛んでゆき止まる。しばらくそのままでいたが、やがてどこかに消えていった。

 円仁大仏を祝福する小動物が、こんなにも多かったとは。彼らの無言の祝福は、もう既に円仁像とその奉納事業とが自分の意志から離れていることを明確に示している。

2005年6月21日(火)

 運送会社から連絡。明日には大興善寺へ円仁像が到着とのこと。「この目で見ないと信じない」という態度はとっていても、内心ほっと一息である。言い分がおもしろい。最初はゴネていたのだけれど、税金を素直に払うということになったら、スムーズだったと。中国の税関にて。よかったはいいが、請求書はこちら。
 式典などの細かい点でまだ足りない部分がある。これはMさんにお願いする。

 今日は喜びに満ちている。式典で使用する線香を買ったからだ。何としてもある銘柄の線香をご供養で使用したいと思いつつ、高価なのでどうかと思いながら線香屋さんに行くと、本数の少ない廉価版がある。これでいけた。
 すでに仏が喜んでいる。

 夏至かつ真夏日。

2005年6月20日(月)

 予定では円仁像は今日、天津の港に到着予定である。一体どうなったであろう。
 円仁像は、当初の予定を大幅に遅れて出発された。こちらではヤキモキすることもあるけれど、五月の気をもって出発していいのか、と疑問に思っていた。そして、どのようないきさつがあったにせよ結果的には、5黄の気をさけての出国であった。
 先々月、大興善寺に行ったときから、4緑と縁がある。確かに西安は東の土地であろう。そこから考えれば、今回の事業は国を超えて、如何に重みがあることか。

2005年6月19日(日)

 心が鋭敏になっているとき、他人様から受けるほんの小さな心遣いがありがたい。
 この事業が万が一失敗して、社会的に叩きのめされることがあったとしても、この人は理解してくれるだろうという友人がいる。知人がいる。自分への勇気。

 昨日のTさんの友人の方々は、何と超俗の人々であろうか。かれ、大慈寺の歴史を見てきたように語る。知人ということだけで、大きな財産を得たようなもの。

2005年6月16日(木)

 お寺というのは何をする場所なのか。こんな問いをしていたくなるほどの状況になっていた。
 そこで、客観的な意見として、知人で詳しい人間に聞いてみた。「新興宗教がはやるのだから、宗教にみな関心はあるのだ。」「ご利益宗教ならば人は来るだろう。」「しかし本来は個の救済であろう。」云々と。
 迷っていた思いが明確な形で答を求めた。何のためらいがあろう。今回の円仁像奉納に関して、他の部分では順調すぎるくらいに行ったのに、ある部分で、こちらで予測していないことが重なるように起こってきている。
 それはなぜか。自分が既に得ているものを活かそうとしないからではないか。あまりにも単純な答が出てきたように思える。これは、今まで気づかなかったことに気づかされるのに必要だったことなのか。とすると「個の救済」のみ。


 『渓嵐拾葉集』を初めて直接読む。これは必携の書になるだろう。

2005年6月13日(月)

 今日は小山のMさんの力を得て、いろいろな方とお知り合いになれた。
 円仁大仏を乗せていた台が輸送費の関係で大慈寺で保管することになる。如来様と登高座を一段あげていただく。円仁大仏の乗っていた台。言わずとも、大慈寺の事象は決まってくる。

2005年6月12日(日)

 あることをしようとするときに、たくさんの波が起こらないと、本物にはなれないのだという。また家庭の因果律より、その土地の因果律の方がさらに強いものであるともいう。この小野寺の地を、今まで自分はどのようにしてきたのだろうか。
 2〜3年前に、出雲地方を旅し、電車の外を眺めていた。遠くに見える墓石は皆、白系統のものばかりであった。
 自分の力のなさの故か、この土地の因果律の深さの故か。
 自分の信ずる道を歩むのみ。

2005年6月11日(土)

 どこの温泉神社であったか、県内に出口王仁三郎の碑が立っていた。その碑文には次のように書かれていたのを覚えている。「月のゆがむにあらず。水の騒ぐなり」と。今日も一つ、騒いだ水が落ち着き、月の本当の形が見え出した。
 月まいり・勉強会で『入唐求法巡礼行記』が一応今回終了した。あと2回ほどを経て、次のトピックに入っていこう。
 仏教などの宗教は、漠然とした道徳ではない。気やすめではない。しかし現在、その気やすめの宗教さへ少なくなってはいないか。

2005年6月10日(金)

 神社参拝。黒本。
 わが天台宗と仲良くさせていただいているR会の足利教会へお参り、教会長様と面会していただく。学ぶこと多い。
 確かに我々は、法華経・如来寿量品の仏が常に自分を守るという観念を持つことを忘れがちである。これを仏という名で呼んだらいいのか、神という名で呼んだらいいのか、先祖という名で呼んだらいいのか、はたまた・・・不明。

 予定では、今日、円仁大仏が東京湾を出発する予定。天津に到着するのは20日。

2005年6月9日(木)

 大黒様の日。陰遁のはじめ。
 今回の事業に、多くの方のご協力を得ているけれど、自分の能力の限界を身にしみる。一人で二役はかろうじてできるとしても、三役となると難しい。それ以上は更に難しい。
 一昨日だったか、中沢仏師と話しをしたときに言われた。「今回のは動きはおかしい」と。確かにおかしい。円仁奉納ツアーに当然参加していただける予定の方が、ことごとくいけない状態になっている。別の予定が入っていけない、という方が多いけれど、前もって言っていた日時を間違えたとか、予約までしていたのにいけなくなってしまったとか、手配していたのに身内が病気になってしまったとか。デモ以上の何かの原因があるような気がしてならない。
 中沢さんは、「開眼に集中するようにというサインではないですか」という。そうかもしれない。あるいは先方で、何か「すごいこと」が起こる前触れなのだろうかとも思う。日程にしても、サイズにしても、何もかにも他の部分では、寸分の狂いもなく物事が進んでいるというのに。自分の不徳だ、というのは一番簡単な説明なのだけれども。先方に行けば、この理由が何かを必ず教えてもらえるに違いない、と信じている。

 古本屋を回る。15分。一番先に目についた本を買う。別の店で、この前これは後で買おうと思っていた狙いものだ。故事にもたくさん学ぶ箇所がある。例えば大木を切り倒す場合の作法とか。さりげなく、真実が昔話の中には残されるものだ。

2005年6月6日(月)

 辛酉の日。引き締まる。一日中、気が支配する。
 魔鏡の話。転換期の話。作り出す話。実質は木曜日からではなくて今日から変わっているような感じがする。

2005年6月3日(金)

 式は粛々と行われ、作業は淡々と進んだ。雨天になる心配もなく、(朝と夜には雨が降ったが)多数の方々のご協力を得て、円仁大仏の発送が無事終わった。
 見送っていただいた方だけではなく、忙しい中を出演していただける方も多数おられた。
 円仁様は柔らかな布やら、スポンジ状のものやらでていねいに包まれ、徐々にお顔を隠していった。ちょうど雛人形をしまう要領である。しかし、体の大部分はむきだしのままの状態でお堂の外に運び出された。
 世話人さんたちのお力を得て運び出すときには、オムツを取り替えられる子供のようになされるがままだった。箱に入れられるときにも、何も言わなかった。珍しいことに、箱入れ作業の途中、手伝ってもらった人の前を野うさぎが姿を現し、「脱兎の如く」野に入っていった。
 最初、送り出し式を行うときに、無事に渡航を終え無事に目的地に着くようにという読経を行った。
 終わり三拝をしてふと上げた目に、円仁大仏様の目がうつった。その瞬間、涙がこぼれそうになった。それは決してお別れの寂しさからではない。円仁様は最後まで慈悲のお顔と目をされていたのだった。
 そうして円仁様は箱に入れられ、互い違いの太い棒で押さえを施されて、コンテナに入れられてトラックに乗せられた。そして、結縁していただいた多数の方の祈りと、円仁を信仰される方の祈りとを乗せて、中国へ旅立った。そして現実の円仁様とは違い今度の円仁様は、二度と日本には帰らない。

2005年6月2日(木)

 二度目の正直、明日円仁大仏の発送である。こうなってくると、長くいてほしいと思った最初のときとは違って、何とか時間までに行き着いてほしいという思いの方がはるかに強い。
 大慈寺の仮本堂の中、蛍光灯の明かりに照らされて、円仁大仏が浮き上がる姿を見るのも今日が最後。近所の人は、その神秘の姿を見に何度も訪れてくれていた。2ヶ月と半。昼だけでなく、夜も回りを照らしてもらった大仏様に感謝。
 輸送会社の人は明日の雨を心配して、テントの高さを調べておいて欲しいという要望の電話をかけてきた。降水率が高いのだそうだ。だけどなぜだろう。絶対に雨は降らないという自信がある。これだけ奇跡的なことが続いてきた大仏様は、必ずやそのふさわしい状態で、ふさわしい道をお歩きになると信じて疑わない。

 朝、昨日発行の「広報さの」(佐野市発行)に中沢仏師と円仁大仏のことが出ているというので、どっさりともってきてもらう。そういえば当、岩舟町の広報の方もずっと前に取材に来られていたが、まだ記事になっていないようだ。円仁の日記の扱いに関した、ライシャワーと日本人の関係のようなことが起こらないことを望む。「文化の香り」が恥ずかしい。

2005年5月31日(火)

 ワッセができたといって、編集の方が持ってこられる。自分の顔写真が入っているのに驚く。しかし地元を紹介いただく雑誌というのは重要だ。
 夜の7時を過ぎても明るい。天変地異でも起こる前兆かと怪しんだが、何のことはない。来月は6月、夏至が近い。円仁像が止まっているせいか、自分の頭の中も時間が止まっている。6月3日の出発までは安心できない。

2005年5月30日(月)

 除草剤の効果が目に見えて現れている。散布してから3週間になろうとしているのに、ほぼ全面茶色だ。
 しかし今回最初の効きは悪かった。本当に効くのだろうとか、という不安があった。しかし今となってみると、こんなに強く効いてくれて何より、と安心である。

 これには実は秘伝がある。ある檀家さんから教えてもらったものだ。・・複数の除草剤を混ぜて散布すると効くという。それを今回試してみた、ということ。
 不毛という言葉は好まないけれど、こと草に関しては例外だ。この感覚からいくと、去年の半分くらいの回数で今年は散布が済むかもしれない。


 地元の社会福祉法人Sで、今度テーマソングを作るという。その歌の一つを円仁合唱団が歌うのだ、という話を聞く。ふーむ。

2005年5月29日(日)

 石仏研究では栃木での第一人者Tさんが来られる。板碑の拓本を取られた上、別に置いているものも見ていかれた。そして一番古いものでは弘安元年のものあがり、1280年頃のものだというお話だった。大慈寺の初期の歴史と最近の歴史をつなぐ重要な資料となりそうだ。
 これはそもそも、自分が小学生の時代に、慈覚大師堂の裏から、仲間を集めて掘り起こしたもので、今考えても自分は何と変わった小学生であったのかと不思議に思う。しかもそれが今大慈寺の歴史を証明する重要な資料となるなんて。
 小学校が終わって皆が遊びにくると、スコップやつるはしを持ち出して、さあ行くぞ、今日は誰が現場監督だ、などという役割を決めて掘り起こした。まあ大概は「お寺の子」が指示する現場監督であることが多かったように記憶しているのだけれど。

 不思議なことに、父はその当時同じようなことをして、近隣の遺跡や史跡などの発掘に飛び回っていた。小さかった自分は、そのような父の姿は一度も目にしたこともなく、噂にも聞いたことがなかったのに、その同じような行動をするというのは、不思議なシンクロニティーである。
 あと一つ。板碑は墓石の代わりをするというに作られたのだそうだが、正面をこちら側に向けるのではなくて、あちら側に向けるのだそうだ。どうしてですか、とお聞きしたら、それはわからない、と自信をもって言われてしまった。

2005年5月28日(土)

 今までは業者さんにHPの管理をお願いしていたが、今回から自分で管理するようにする。・・とかっこよく言ったはいいものの、アップロードに手間がかかる。今日で4日目。やはり素人には難しい。基本を間違っていて、それに気がつくのに時間がかかるからだ。細かい所まで電話で聞くので、サーバーの人にいやがられてしまった。
 昨日は運送業者さんのご苦労をきいた。あのままだったら、ぼろぼろの円仁像とご対面していたかもしれない。これも救いの手。
 日中文化事業社の社長は連チャン。説明会、はがきの効果が出ているのが見て取れて少しの安堵。和田総代長も、田植えの合間に忙しく本堂に見えて対応いただく。

 夕方中沢仏師さんの家にいく。相変わらず、教えられることが多い。信仰者の姿。

 ・・そうそう、昨日田中重光さんたとち一緒に会食の折、恐る恐る、ファンタジアのオウナーさんに中村不折の軸のことをお聞きした。本物でも、自分が思い切って購入した額前後で売られることがあるらしい。まあ、最初から贋作でもいいと思って買ったもの。○○鑑定団にお話するのはやめておこう、か。ハハ。

2005年5月23日(月)

 今日は円仁大仏と結縁していただいた方々に、法要参加のご案内をするための発送の準備をした。番地の書いてない方、判読不明の方には残念ながら発送できない。また量が量だけに疲れる。
 昨日法事のために行けなかった小山の丹野先生のお琴の50周年記念公演、大成功だったと聞く。長時間でさぞお疲れだろうと思いきや、平然としていたという報告までついて、さすがに経験のある先生は違うと感心、しきり。
 本堂で夜まで仕事。豪雨の後晴れて、誰も知られず満月近い月が雲間にのぞく。あす郵便の発送。

2005年5月20日(金)

 円仁像の出発が、6月の上旬ということになった。先方の奉納式典を1日延ばしてぎりぎり間に合う。見積もり。
 説明会への呼びかけ。個人への電話。
 田中さん、今市のスケッチの帰りに寄っていただく。キャンプの指導なら自分にはできる、本当のキャンプを子供に教えたい、と。水だけあればあとは何もいらないそうだ。

 三谷という地区を夜に走行中、たぬきを見る。少し興奮。

2005年5月19日(木)

 真夏日。ある教育関連の行事に参加。そこに文部科学省から、おそらく30歳前後と思われる女性のお話。それに驚き、次に転属してまだ2ヶ月以内である、しかし壇上にたっているというのに驚き、原稿を読まずに自分の意見を述べる点に好感を持つ。
 その中1つだけ。「教育は国家の根本を形成するものなのに、なぜ文科省の役人はそれを力説しないのか、自分でも不思議である」と。彼女のような人材が出世するかどうかが、日本の未来が明るいかどうかの目安となるような気がしてならない。
 円仁像、重い。

2005年5月18日(水)

 あまりにも多くの重圧がある。そんな中で文章を書き残す気にはなれない。
 何としても切り抜いていく。

2005年5月14日(土)

 いろいろな問題を抱え、そう順調いいく仕事などどこにもないという慰めになぜか納得しつつ、また今あがいても無駄であるのはわかっているので、次にどんな手を打つか、それを考えていた。
 高度な神霊はお金にご興味がないらしいが、弁財天のように、末世に福を授ける神もまた必要であることを痛感する。

 これは天と地との一致での件なのか。単なる世俗の問題なのか。今、しておかないと、仏教自体の意義を見失う。たとえ今苦しい状態にあるのだとしても。
 外野さん。入ってきたいならば素直になった方が楽ですよ。何ら拒む理由なし。見ていて苦しそう。

2005年5月13日(金)

 運送会社の関係で、円仁大仏の発送が延期されることになった。ほぼドタキャン状態だ。皆様に多大なご迷惑をかけてしまう。明日皆さんに何とおわびしたらいいのか。それに一体、大人がする仕事でこんなことがあっていいのか。
 原因究明というより、次どうしたらいいかに思い悩む。明日どうしたらいいのか。皆に何としておわびしたらいいのか。明日の儀式はどのような形にすればいいのか。
 大人がやる仕事としてこんなことがって許されるのか。関西の人と関東の人とは話ができないのか。
メールのやりとりに落ちはなかったのか。つめは甘くなかったのか。・・・
 それに午後2時からの説明会には何人の方が見えるのか。多くの参加希望者が、目に見える形で来てくれるのか。
 今月は中入りを待ったほうがいいのは言うまでもないが、円仁像が自ずからその時期を待った、という形になるのが、不思議といえば不思議である。あとまだ明日だと、月の力が弱い。

2005年5月12日(木)

 目が回るように忙しい日というのもある。午前中、宇都宮の病院往復。午後最初から郡中学校の校長会、町の経済課、佐野市の広報誌担当者の来院、各説明.。おいふぁへの協力依頼文書作成、送信。東京で授業、娘迎え。昼頃から夜まで中沢仏師が仏像の修復。本心からの言葉多数交わす。世のめぐり合わせの不思議を語る。真夜中を過ぎる。

 電車の中で三好達治の随筆を読む。あのように生きてはずむような文章が書きたい。

 円仁像発送まであと2日。

2005年5月11日(水)

 中沢仏師が仏像の補修に来られる。そして休憩のときの会話の中でほっとした、という。なぜならば仏像の顔が変わったから。シンが入った証である。噂には聞いていたが、自分には25年間で始めての経験である。もうこの仏像は自分の手を離れている。本物の仏像は顔は変わるものなのだ、云々。
 その他のことがらに関連して、衷心から中沢仏師およびご家族に感謝すること、多。

2005年5月7日(土)

 告知してきた時期が過ぎても、看板を撤去していないためか、何となく人が入ってくる。
 ほぼ新月。ものの終わりによし、始めによし。

2005年5月5日(木)

 多くの方の祈りを込め、円仁像の胎内写経や胎内結縁札を入れていただいていたが、とりあえず今日をその納入の最後の日とする。円仁像の御魂抜き作法をした。
 この円仁大仏は不思議なお顔をしている。色々な方向から見ると、それぞれいろいろな顔をする。目の錯覚かとも思うくらいの変化もある。御魂抜き作法の後には、急に丸顔となって、はっとした。
 たくさんの方が訪れてくれた。野点の竹川先生やNPO法人おいふぁの方々をはじめ、世話人さん、檀家さん、ご親戚、遠くの知人、近隣の方々、近隣の友人、県外の方々、通りすがりの方々、多くの方が来ていただいた。何度も足を運んでいただいた方もいらっしゃった。・・ただただ感謝。この日のために書き溜めた、たくさんの写経をお持ちになった方が何人もおられた。
 結縁札に記入いただいた方には、円仁像と三面大黒のお札を差し上げているのだが、この事業の間、そのお札はいらないという方も何人かおられた。粗末にすることを恐れておられるからである。
 円仁様は宇宙におられるのだと思う。そして人々の安寧を願い、円仁様にお祈りされる方にお力を出されるのだと思う。
 円仁大仏にお祈りすると、自分の体が円仁像と同じ大きさになるような気がする。これを法量というのか。
 今回の事業は、自分がしているのではない。何かに動かされている。客観的に見れば、普通にはできないと思われることが、淡々と行われていく。気負いもない。自分の心の奥底にある方向性と、現実とがじりじりとかみ合い、世の中を押し進めていく。自分は借り物。神仏の御意志。

2005年5月4日(水)

 連日円仁像のお参りにきている人が多い、と書いてきたけれど、あと一日で終わりになる。明日の花まつりには、ばあーっと人が来て、そしてエンドとなるだろうから、実感としてこの一連のできごとに感懐をもつのは今日までであろう。ふと寂しい。
 この一連の事業の中で、この円仁像の所に、天台宗の方だけでなく、他宗派のお坊さんが何人か来ていただけたことは意義あることだった。円仁様が宗派を超えて知られるということこそ、我々の望む所。
 今日は三十分買い物に出かけている間に、いつもは重い腰の同級生が来てくれていた。連絡してくれれば待っていたのに、残念。
 夜、願文を書き終える。内容も文字も人に見せられたものではない。しかし、最後の呪願文で引き締まる。見直していて、最後にきて自分でもぞぞっとする。内容の良し悪しでなし。和歌の力。そして言霊の力。ルビをふった理由をわかってほしい。

2005年5月2日(月)

 毎日書くのは好まないが、お寺のことが集中している時期なので、また今日も書くことにしよう。
 栃木市出身で、佐野市にお嫁にいった人。自分は円仁を学校で習わなかったし、子供も習っていない。岩舟は決してそんなことはないだろうけれど、近隣の人も地元の偉人を全然知らない、という。
 日本の歴史教科書が悪い。いや中国の国定教科書が悪い。という議論の前に、地元の教育が悪い。地元愛ゼロ。どうしてうちの町は過疎になるのだろう。その原因あり。

 同じ人の言うのは、ある勘の強い人に話を聞いた。例えば、日光の○○宮にお参りに行くより、円仁系統の寺院にお願いした方がずっとご利益がある、と。ふむ。この件、自分に意見がないわけではないけれど、初めて聞いた言葉として意外、新鮮。

2005年5月1日(日)

 ガールスカウトの子たちが、円仁像を見にきてくれた。そのうちの何人かはスケッチをして、円仁胎内に入れる予定。これらの絵は何十年後、あるいは何百年後の人が目にするのだろう。そして何を思い、何を感じるのだろう。
 たくさんの人が来ると、説明するにも張り合いがある、とは和田総代長。おそらく、円仁像関連では、今までの最高記録。
 初めて行った葬祭ホールで、職員の方たちが先生、先生と呼ぶ。議員さんを先生と呼ぶのは聞いたことがあるが、お坊さんはいつから先生になったのだろうか。自分などを先生と呼び続けていると、仏教は増々おかしくなってしまう。
 草・・草が自分を苦しめる。連休過ぎに除草剤を撒くつもりだったけれど、最近の高温で育ってしまい、状況が許してくれそうにない。それで大方をなぎ倒すことにする。
 今日はごつい体格の蜂が飛び回っていた。そういえば、つい2週間程前の夜、初めて野兎を見た。車の光に逃げて、土手下の川の方へ飛びはねて降りていった。何十年住んでいて初めての経験だった。その同じ夜には、ふくろうも人間の声をして鳴いていた。啓蟄というわけでもなかったのだけれど、暖かな一夜、動物たちの競演。

2005年4月30日(土)

 大師堂前の霧島つつじが満開に近づいた。大師堂を飾ろうとして、大師堂の前に2本真っ赤な木を植えていただいた先人に感謝。それとともに、その信仰心に畏敬の念をいだく。花に誘われてくる人が増える。円仁大仏7、花3。
 目の不自由な方に、声からすると、ほっそりした感じの方ですね、といわれた。残念ながらはずれだ。言いたいことを言う人は、毎日裏山に登って体形を整えたらどうかという。要するにやせろ、ということだ。

2005年4月29日(金)

 連休最初の日、つつじの五分咲き。大慈寺に花を見に来られる方と円仁像を見られる方との二層化が顕著である。日中に五分間程度の雨があったが、非常に暑い日であった。おそらく真夏日であったろう。
 今日もまた看板の矢印通りにきたら、この寺についた、という人が多く見られた。マイカー社会、捨て看とはいえ捨てられない。
 栃木テレビの方々の取材。役場のMさんは、休日返上。画面の都合上、ああしてくれ、こうしてくれ、と言われた。別にいやなわけではないけれど、言われてやる行動というのはどこか自分にうそがある。自分にうそでも他人にはよく見えるということは、自分の心のままの行動というのは、他人にはよく見えないということか。ままよ。
 円仁合唱団へツアーへの協力要請。しかし、円仁というネーミングはたまたまなのだそうだ。栃木町長の名前より、栃木合唱団とすることに一票。時間の問題でなく、意識と愛情の問題。いや愛情の問題。県の名前だし。故人は皆美しいってか。

2005年4月25日(月)

 法雲寺のご住職が来院される。水琴窟の第一人者のようだ。そのお話の中、佐野には全国にある水琴窟の10分の1が集中しているということだった。
 そのご住職は色紙に水墨画を描いて、個展も開かれるような才能もお持ちであった。水墨画に少し心動く。それよりも前に塔婆や位牌の字を何とかするようにと、お目付け役の言葉。
 朝、藤岡の部屋からTさんという93歳のおじいちゃんが来た。奥さんが90歳。38才で仏様から命をもらったと信じ、法華経系統の信仰一筋。信仰の内容は問わず。その純粋さに憧憬をもつ。

2005年4月24日(日)

 連日「円仁大仏」を見に多くの参拝者が大慈寺を訪れている。同じ話を何度も、新たに来られた方々に説明する。なかなか難しい。どうしても話に変化を求めてしまうからだ。新たな気持ちで相手と接するという態度をどのように維持するか、これは日常の心のあり方とも同じことが言えるだろうから、自分にとって、文字通りの修行である。

2005年4月23日(土)

 月の満ちるとき、人の意識に変化が起こるという。そんな酔狂に踊らされて「日記風メモ」なるものを始めようとしている。「住職日記」でもいいかと思ったが、毎日書くものではないので、この名前はご遠慮した。
 これには何の考えもない。随筆などを書くには相当の力を使うけれど、こういった日記形式であれば、さほどの苦労もなかろうという甘い考えもある。本当に思いつくままのことだけ、日常生活でお寺に関する、しかも必要なことだけを書きとめることにしよう。

 ミラは変光星。表面穏やかでも、時々メスのような言葉を発するのだそうだ。