日記風メモへ
                                         

2006年12月31日(日)

 とりあえず年末の準備が終わる。あとは除夜の鐘だ。

 水に触れる時間が、ここ数日、不思議に7に酉があるとき。あるいは寅。
 明日からは、体力も温存しつつ行かなくてはならない。
 どれだけの方が来られるかはわからないが、初護摩祈願のため、参拝の方々がおいでになる。

 今度の円仁まつりもそうだが、徐々に参拝の人が変わってきている。どちらがいいでも悪いでもない。でも間違いなく、宗教心を中心とした考えで、大慈寺が動くようになる気がしている。

 明日からは亥年。

2006年12月29日(金)

 本当に年末が押し迫ってきた。今日から公務員を始め、休みのようだ。
 夕方は5時を過ぎても、西の空にまだ山々のシルエットが残っている。

 心だけなのに、引っ張られるような感触が昨日あった。魂が肉体を呼ぶのか、魂に何かが感応したのか・・。

 今日も町起しの話し合い。初めての方が多くいでになり、また交際が広がった。そこで新たな作戦を立てた。
 初めてやることとというのは、道がないから難しい。町役場の中でも部署があって、調整の必要があるということである。流れのままに、それが一番。

2006年12月28日(木)

 一つのことを思いつめると、何かが変わる。そういった経験が、いろいろな人助けに役立つかどうかはわからないけれど。
 狂うときは狂ってもいいのだと思う。師の教えさえ守っていれば。

 二年前に息子さんがなくなったという女性が参拝に見える。せめてもの償いに神社仏閣回りをしているのだという。
 そのお気持ちは必ず通じていますよ、とお話する。
 その他、少し余計な話をしすぎたかもしれない。これも仕事、これも気のまま。

2006年12月27日(水)

 太陽の出た本当に暖かい日。十月下旬の気温であったという。昨日の風雨の影響も、きれいになくなった。
 でも明日からはまた冬の気温に戻るという。体調管理が必要だ。

 頭で計算をして、それはそれでいいのだけれど、申の刻くらいから、ふと気がつくと求める気に出会っている。時々は気を思い出す、触れるというのも大切だ。
 午の刻に手助けしますと口から出たことが、酉の刻に現実になっている。

 ツクバネに触れる。

 近くのDという仏壇屋さんが、最近の葬儀事情の話をしてくれる。あまりにも「戒名料」が高くなりすぎて、俗名で葬儀をする人だとか、高い墓地が手に入らないので、お骨をもって嫁入りする人だとか、無宗教で葬儀を請け負う寺院だとか、いろいろ葬儀に変化が起きている、ということだ。老人の介護料がかかりすぎて葬儀には金をかけられない。いわゆる葬式バブルがこの数年ではじけるだろう、という。
 いわゆる「葬式仏教」がこのままだと、間違いなく既成の仏教は崩壊していく。一般の人の声を一番聞ける人の結論はこのようなものだった。

 自分も基本的に同じ考えである。間違いなくこのままだと既成仏教はなくなっていくであろう。
 しかしまた、別の視点も持っていないわけではない。なぜならば、流れというものはそう簡単になくなるものではないし、消えてしまう流れというのは、本当の流れではないからである。

2006年12月26日(火)

 一日中雨がふる。この時期には珍しいということだし、実際にそうである。この雨が雪に変わらない分だけ、今年は暖かいということであろう。
 そのせいだかどうだか、今日は皮膚感覚が楽である。

 やっとプリンターの修理ができてくる。今日急いで打ち出し、添付。明日には発送しよう。
 開運の方法を少しでもお伝えしたい、という手紙を出したりする場合は、何かが動く。今日は雨ゆえに楽だったのだろうけれど、妨げというものはあるものだ。
 あるいはその時期ではないのか。あるいは自分がその任に相応しくないのか。まあ、いずれにしても何かが動くのは間違いなさそうだ。

2006年12月25日(月)

 芝の増上寺へ初めてお参りする。その大きさに驚く。本当に東京タワーと景色が一体になっているようだ。

 予定されていた、いわゆる忘年会は今日が最後。確かに自分たちは甘えていたかもしれない。憎まれ役が必要になるほど、状況が変わるということも考ええるが、むしろ厳しさがあった方がよいということだってある、と思いなおす。

 火と水の行か。護摩は祈願でもあるが、行ともなる、ということ。またそうする必要があるということ。
 輝く護摩壇。とりあえず心に留め置く。

 クリスマス サンタの真似する 僧侶かな

2006年12月23日(土)

 夕方、西の空に、本当に細い月がかかる。
 あらためて東京の広さを思う。東京でも東と西では、人の生活スタイルや雰囲気も違う。

 世話人会がある。そのときに、何故か意識が、ずっと昔、先住の時代の世話人会を思い出す。自分は幼く、この人たちは何を話しているのだろう、と思っていた時代のことだ。

 そして、その時代のことと、おそらくそう相違のない話を自分たちが今しているのだと思うと、とても不思議な気持ちがした。

 御先祖の不信に思われていたことを、ご説明する。

2006年12月22日(金)

 ようやく冬至になる。ゆず湯に入る。陰中の陰であるから、これからは陽になるしかない。その発想が好きだ。人生のどん底にいる人であれば、今が冬至であると思ってほしいと思う。

 また水道の力に驚く。老子は水を最高のものであるとした。弱いものであるから、どこでも入っていけるという思想である。
 人という字が支えあっているように、心も支えあうものであると思う。そこに遠くからだけれど喜びがある。冬至の日に。

2006年12月21日(木)

 巳の刻、烏の起請文。何事もやってみないことにはわからない。
 冬至の前日というわけではないが、水のあとの透明な世界。そこに応じていただけたようで、どきっとする。

 来年のことが知りたいという。個人のことは別として、来年は火に水をかけようという気持ちと、薪をくべようという気持ちがぶつかって台風になる、と予想したが、さてどうなりますやら。

2006年12月19日(火)

 流れのままに生きるというのは、楽なようで難しい。頭で生活すると、ポイントに行かないということがある。後姿だけで教えてくれるとか。

 円仁まつりの発送をしようと思い、宛名を印刷しようとしていたら、字が全く出ない。メーカーに電話したところ、この機種はそういったトラブルが多いものであり、無料で修理してもらえるということであった。

 O先生より、「慶」という純金酒をいただく。自分にご縁のあるものとて、ご指示のものであるとして感謝していただく。

2006年12月18日(月)

 宗教的な、精神的な行事の終わったあとは、日常生活に戻るのに、すごい嫌悪感を感じる。しかし生きる上では仕方がない。むしろ、その福徳を分け与えるくらいの気持ちが必要だ。
 そしてそんなときは、眠りの質が変化する。

 熊野大社は、明治時代に川流しにあうまで、熊野川の中州にあったそうだ。元あったその土地の砂や石をお祓いして、分けていただいている。
 今回はご縁だろうと感じ、一対の石を求め、今日本尊薬師如来仏壇に安置する。そのそも熊野大社は、薬師如来と本地垂迹関係にあるのだそうだ。

2006年12月17日(日)

 50パーセント予想の雨を気にしながら巳の刻、熊野本宮へ。このとき天候に問題はなし。今はなき師と同じ方向へ、一歩でも半歩でも歩みたい旨のご挨拶をする。
 参拝の順序は、自分の心のままに。最後の鳥居で、参拝に非礼があたっとしたらお許しください、と思うとすっとする。


 同じ巳の刻、玉置神社へ。駐車場から拝殿まで距離が長かったのを忘れていた。参拝、す。
 三千年の樹木などを見ていると午の刻になる。
 社務所でなつかしい弁財天と出会う。確かにもう少し高く、離れてお祭りしてほしいような気がする。
 そしてここで偶然に、自分とご縁のある人は、神仏にご縁がある人が多いというのに気づく。
 玉石社。「神」はいるのか、いないのか、あるいは言霊が作り出すものなのか。それがわからないから修行するのか。木とからまる石の上、三十センチ。
 玉置山の頂上まで行く。何やら暖かい。見当違いなことを言ったらはずかしいが、ここは元々、お宮があった場所ではないだろうか。

 そこからナビで知らぬ道へ。上山川という素晴らしい川を見る。穏やかで広く、いずれ熊野川と合流するもの。
 道の駅のそばで、めはりというものをいただく。高菜の葉にまかれた寿司のようなものだ。めはりは熊野で食べるのがいい、という雑誌の切り抜きが飾られてある。なるほど、こういうダイナミックな味か。しかも同じようにお味噌汁も塩分が多い。

 未の刻に、速玉大社へ。中で神主さんが御祈願で祝詞をあげていたけれど、外で拍手を打ってお参りしたら、皆に振り向かれてしまった。別に失礼なことではないと思うのだが・・。

 申の刻、那智大社。長い階段。多くの団体さんたちと一緒。道端のみやげ物やさんに、那智黒で心ひかれるのもあるが、目をつぶることにする。一番上まで来て鳥居をくぐると、女性がすぐそばで、突然「明けましておめでとうございます」と言う。誰かと話していた流れかもしれないが、まだ十二月なのに驚く。

 那智の滝。まさか滝には打たれないので、気持ちだけでも打たれたいと思うが、なかなか・・。
 ここで二つの情報。一つは二千五百円の烏天狗の土鈴。こげ茶で睨みをきかせ、なかなかいい。しかし今回はご遠慮することにする。もう一つは小さい天狗の鈴。何だ、ここにいたのか、という感じ。


 雨が降り始める中、左に熊野灘を見ながら白浜へ。水平線から直接登る雲と、頭上から続く雨雲との黒の間に、だいだい色の夕日の切れ目が帯状に浮かぶ。まるでどこかの地図のようだ。
 こんな温暖で、山と海と川とがあり、神仏のいます場所に永住したい、という気持ちが起こる。始皇帝より派遣されて、しかしついにここに定住し、日本で亡くなった徐福ではないけれど。もちろん夢は夢なのだが・・。
 今日の走行距離、270キロ。


 風が強くて飛行機が15分遅れ、でも追い風を受けて定刻に東京に着く。スピードが、普通は900キロくらいだろうに、1000キロ出ているというアナウンスがあった。
 陸地の夜景を見ていると、ものすごい光が出ている。何だろうと、目を凝らしていると、また光る。雷だ。その周囲一体が煙がかかったようにかすんでいる。「富士山」ではないけれど、眼下の雷というのを生まれて始めて見た。
 上から見ると、夜景というのは宝石箱のようだ。緑、オレンジ、青、白。これだけを見ていると、地上にあるのはきたないものだらけ、などとはこれっぽっちも思えない。本当に素敵な輝きだ

 そうそう、車を借りたレンタカー店の社長さんが、NPOを作って熊野三十三箇所めぐりというのを来年から始める、という。開式の招待状を送ります、と言ってくれた。

2006年12月16日(土)

 夜の飛行機で紀伊白浜へ。熊野へは二十数年ぶり。あのときも、確かに一人での参拝だった。

2006年12月15日(金)

 この時期にしてはとても暖かな日。

 今朝、竹垣をすかして、犬が境内を歩いているのが見える。あれ、と思ってよく見ると、もう一匹大きな犬が歩いていく。綱を引いている大人が見えないのだから、野良犬だろう。
 これは危ないと思って、追いかけていく。ほぼ目測で20メートルだ。さてもう見える場所くらいに来たと思ったら。・・犬がどこにもいない。追いかけて、隣の神社の方まで見に行ったが、それでもいない。裏山を見ても見えない。どんなに足の速い犬でも、そんなに瞬間的にいなくなるということなど、ありえようはずはない。
 あの大きな白い犬は一体何だったのだろう・・。

2006年12月14日(木)

 動きたくたくても、動かざるを得ないという時もある。意外なことが辰の刻にもあったし、まさかというすれ違いも未の刻にあった。
 年末も近いので境内清掃をする。
 皆から慕われたK先生の告別式がある。
K先生は、自分のような年下の人間にも、誠意をもってお付き合いをくださった方だった。また文化の面でも様々な分野で、すぐれた足跡を残された。そして遺言のままに、合唱の中、棺が送られていった。多くの人に見守られて、そして旅立っていかれた。

2006年12月13日(水)

 とりあえず、もろもろ、冬休みに入る準備ができる。朝には霜が下りて車は真っ白だった。

 自分はどんな人間を理想とするか。これはとても大切な問題だ。生活に流されるままに生きているのが精一杯ということもあろうけれど、人間本当はそちらが大切なのかもしれない。
 「自分は無冠の帝王になりたい。誰にも知られていないが、聞けば何でも答えられる。そういう人になりたい」というのは、ある禅宗のお坊さんだ。結構その理想も魅力ある。
 チベットのニンマ派などでよく言われるのだけれど、成就者は全く知られないで、一般人に混じって生活しているという。そして死後の特徴によって、それであったことが知られるのだという。
 名前を残すとか、威張るとか、衣の色にこだわるとか、金に執着するとかいうのは、本当はお坊さんには相応しくない。それが本当だと思う。でも、いざ実際自分がそういう立場になったときに、勇気をもってそういう行動が取れるか、自分がそういう状態になっていないので、何とも自信がない。

 明日、ある親族の命日なのだけれど、・・やっぱりお逮夜というのはあるのだろうか。

2006年12月12日(火)

 町仏教会の総会。様々な宗派の方々とお話ができて、有意義であった。
 禅宗は、ほとんどあげているお経は同じであるというのを知る。しかしオカルト的なものは排除しているのだそうだ。まあ、どんな形であれ、行っていることは興味深い。
 その他の宗派のこともお聞きできた。参考になる。

 先住が、教え子だからといって、他宗のお寺に頻繁にお邪魔していたということをお聞きする。恐れおおいけれど、自分も同じようにお邪魔したいと申しでると、快くそこのご住職に許可をいただく。
 本当に先住は、心に壁を作らない方であったというのをあらためて知る。

 魂が飛ぶような受け答えの手ごたえがあって、その後も満足していると、今日である必要もないのに電話連絡がある。
 自分が不安定であるというのはわかるけれど、不安定と不安定が重なると、落ち着く場合もある。不安定でも腹が据わればいいということだろうか。うーん。

2006年12月11日(月)

 おそらく、企業を取り組んだ町おこしのスタイルとして、日本で始めてという説明会に出席する。いろいろな思いを持った方々が集る。しかし基本的には、地元を思い、地域の発展に何とかしようという志を持った方ばかりがいらっしゃる。

 その土地、その土地に、その土地を管理される神様がおいでになる、という。その神々はもちろんその土地の発展を願わないではないが、その住人の意思がそこに大きく左右するのである、ともいう。
 今回、土地の発展を願わない方はいない、ということが明白になった。
 地元の方の振舞われる茸汁に体を温める。
皆で熱い汁をすする。これが原点であり、すべでではないか。

 初めてKさんという方とお知り合いになる。全国的に有名な方であるという。そうだからそうなのか、そうだったからそうなったのか、脳付近から出る色合いが普通ではない。

 ちょうど下弦の月が、東の山に半円のお皿のような形で昇ろうとしている。それはあたかも、オリオンを照らすサーチライトのような形だ。

 自分が正しいなどとは全く思わない。それでも、人間には欲がある、という現実。その言い訳を乗り越えることを、自分にとって、次の修行のステップにするしかないでろう。

2006年12月10日(日)

 日光山一山S院のご住職の結婚式が行われ、その披露宴にお邪魔する。非常に盛大であり、あいさつできなかった方々も多く、恐縮する。

 そこでサーブしていた方が、お坊さんなのにみなさん優しそうな顔をされている、というお言葉をいただく。天台宗のお坊さんは基本的に真面目な方が多いのですよ、と返答したが、さほど間違ってはいないと思う。
 社会の規範が失われている現在、その規範は公務員に求められるし、宗教家にも求められる。そういった意味で、宗教家は「人間として」どうかという視線を受けるのであり、その視線に耐えられるかどうか、結局は宗教をその宗教家がどのように捉えているか、という点に帰着するということか。

2006年12月8日(金)

 ほぼ日本滞在の最後の日々である、ドイツはH大学のS教授の講演を再度聞く。肉食の話であった。
 最初期には、仏教でも肉食を禁じたわけではない。それがバラモンなどの影響を受けて、次第に肉食を禁じるようになるというのだが、その理由がすごい。その食べている動物は、輪廻の考えからすれば自分の親かもしれない、というものだったり、貴重な食べ物なので、それを求めて争いが起こる原因である、というものだったり、性欲を増大させるもので欲望の原因になる、というものだったり様々だ。
 さらに、テキストにはなかったが、動物を殺して愉快に思う見えない「何か」がそこに関与する、というような話まであった。
 その内容のみならず、S教授の、本当にイノセントなお人柄に触れたことはこの上ない収穫であった。
 この人とは、ずっとお知り合いでいて欲しい、と感じる人というのはそう多くはない。日本人をも含めて。だがこのS教授は、あくまでも自分の主観なのだけれど、その例外に入る方に分類される。世界屈指の学者をこのように評価してはいけないのだろうけれど、S教授には、またどこかでいつかお目にかかりたい。

 親しさを表現するのに、遠慮なしのほうがいいという場合もある。それが不快に思う人にはだめだが、それを喜ぶ人もいる。今朝あたり、遠慮がなかったけど、それでもいい。いつもそういう気持ちであるといことが、外に表現できるのであるから。毎日砂を少しずつ乗せていくように。

 お薬師様の日。成道会。

2006年12月7日(木)

 ようやく大雪。これで暦が落ち着くだろう。
 
 岩舟町の観光協会にNHKの取材。土管のスピーカーについて話しをしている様子を撮っていかれる。M会長のいわく、「一人ずつに発言してもらいましたが、誰が放映されるかはお楽しみ・・。」なるほどそうでしょう。そう考えるのも楽しい。
 
 床屋で肩をもんでもらう。結構うまくて、寝てしまいそうだ。お客さん、肩凝っていますね、といわれる。自分では全く気がつかない。

2006年12月6日(水)

 お酒はないが、楽しい忘年会に出る。
 学問をするのに年齢は関係ない。むしろ、社会経験をつまれた方の方が、視点をたくさん持っているという長所もある。

 若いときにはなかなか学問の価値には気がつかないものだ。

 あまり夜遅くまで東京にいることはないのだが、8時過ぎにお茶の水を歩いていると、オーボエの奏者が路上で演奏して回りに人だかりができている。遠くの空には月が出ている。何か暖かな町になった。うれしい気持ちが残る。

2006年12月5日(火)

 暦の上で今日は悪い日だ、などという。実際にそういう日はあるのだけれど、それを変えていこうと思う。その人にとって、というのが大切だから。だけど今日は、酉刻より、見事に近隣地でテレビが見られなかった。
 どうしてそんな話をしたのか、と質問されて答えられないことというのはある。そうやって口に出てしまうこともあるのだから。無責任のようだけれど、これは無責任ではない。
 思いもかけない人のことが心に浮かんで、あの人はどうしているだろう、などと考えていると、今日突然その人がやってくる。
 
 実は、今日は暦を間違えている。だけど失敗はしていない・・はず。

 寒空だけれど、満月が出ている。白くてきれいな月だ。子供たちが大好きな月。ススキがあればおしゃれな月。みんなが夢を抱く月。というような、いわさきちひろの絵があった。心のつながりあり。

2006年12月4日(月)

 ツクバネというのは不思議な実だ。くるくると回って落ちる。子供たちや関係の方々に喜んでもらえればいいが。

 夢に不思議なヒントがあることが多い。今日の卯の上刻あたりの夢が、隣の避難訓練になって出たし、この前は、いつもの賽銭泥棒が、実は近くの人だという夢を見たら、その朝久々に賽銭が取られていた。

 行を大切にしたい。気合いが必要だが。

2006年12月3日(日)

 栃木市の市民ミュージカル、路傍の石。うーん、内容が難しい。そもそも原作が未完の作であったし。

 本当に信仰を持っている人というのは、必ずおられるのである。その方の思いに感謝。私たちが最初に学ぶのは切りなのである。

 亥の刻、外に出ると、満月に近い明るい月が、頂点近くにある。自分の影も30センチくらいにしかならない。
 そこで首を上げて、顔全体を月に向ける。丁度額にむかって、ダイヤモンドのような光が入ってくる。ぐいぐいと押されるようだ。
 光のシャワーを浴びる、という言葉があるが、月光のシャワーを浴びる。月光浴。不浄なものが落ちる気がする。
 皆今日は底冷えがする、と言っていたけれど、自分はほとんど感じない。何十分そんな首が痛くなるような状態でいたであろう。空間を飛んだり、抱きしめられたようだったり。癒しの光の中に。

2006年12月2日(土)

 明日の世話人会の準備をしようと思って、夜亥の刻、本堂に入ろうと思って外に出ると、微かな雨が降っている。あれ、と思って見上げると、上弦の月が煌々と照っており、星もほぼ満天に見える。鳥などが飛んでいるのかと思って静まって確認しても、そうではないようだ。周りの葉からも、微かな雨音が聞こえてくる。
 よく夏に、クーラーを使用しているビルの側などを通ると、水がかかるようなときがあるが、こんな山奥にそんな高いビルがあるわけではない。360度、空を見回してみると、確かに北に薄い雲も見えるが、雨を降らせるほどではあるまい。
 とすると、風に乗ってどこからか遠くの方から降ってきたと考えるしかない。もしそうだとしても、珍しい現象であるに変わりはない。すぐ用を終わして外に出たときにはもうやんでいた。遠く東の山で、オリオンの下、ようやく顔を出したシリウスがきらりと光った。
 ジョウロで花に水を与える程度の、微かであるが何とも気持ちのいい、不思議な雨だった。

2006年12月1日(金)

 師走の第一日目。甲子日の大黒様の日であり、陽遁の始まり。

 半透明の感覚を片方で持つという状態が続く。現実と他人の想念とが重なる。
 暖かな、何かに突き動かされて行くと、目的としていた偶然と出会う。昨日の不足を今日満足する。自然体に共感する何かあり。うれしさあり。

 術という言葉がある。この甘い言葉には落とし穴がありそうだ。
 大きな不幸に出会った人というのは、人の言葉に耳を素直に傾けられない。それはわかる。だが、最も必要なものがないと、本当は何も変わらないのではないだろうか。
 今日も暖かな日だった。山々がきれいに見えた。そっくりそのまま、ありのまま。

2006年11月30日(木)

 もちろん、朝から思う所があたのだけれど、自分に欠けていて必要な気を、奮い起こすことが突然起こってきた。その気があったからこそ、気持ちが心の中心に灯火のように植えつけられる。本当に心がきれいな人だからこそ。
 いやな感覚か、心地よいのかはわからないけれど。話していて、口が渇くのを知られて恥ずかしい。
 数日、何か感覚が違う。この感覚は何なんだろう。


 辻占というのがある。道行く人の声を聞いて、行動を起こすときのきっかけにするというものだ。
 集会所で友人と話をしていたら、隣に大学生のような一団がいて、何やら漢文のような文章を読んでいる。気にもとめなかったが、よく聞くと何と易経の注釈を読んでいるのだ。これには驚いた。
 さらに、ふと会話を止めた耳に入ってきた言葉は自分に告げられたもののように感じた。「・・易は一度は通らなくてはいけない道だから・・。」
 偶然といえば偶然だけれど、自分には十分すぎるほどの辻占であった。
 
 とりあえず、陰遁最後の日か。明日は大黒様。
 ・・11時過ぎのこんな夜中に、裏山で烏が鳴いている。月や冬の星座の天空の下で、一体何を世間に告げているのだろう。

2006年11月29日(水)

 朝目が覚めると、昨日の気が残っている。昨日参拝できたことは間違ったことではなかったのだ。
 それにしても、自分は山が好きなのだと思う。山登りというのではなくて、高い山の気に触れるというか、空気を吸うというか。今も田舎住まいだけれど、もう少し深い山の方がいいような気もする。

 人間様の人生をどうこう考えるとするならば、人間世界から出た立場をも持っていないといけないのであろう。どうしても人間生活をしていると、それを忘れてしまうのだけれど。

 今、自分のまわりで、何かが急速に変わってきているのを感じる。それが何なのかは、まだ見えていないのだけれど。少なくとも悪くない方向に。むしろ進まなくてはいけないという感じでもある。

 雑務を終えて田舎の駅に降り立つ。久々に上弦の月をゆっくり見る。見る人の心一つで、月も変わる、か。月といえば、三峰山にも月を観るお祭りがあるということだった。

2006年11月28日(火)

 たった10分の差で、飛行機に乗れず。そもそも電車が遅れたのが原因だというのに。
 電車が遅れた証明をもっていくと、会社ではわかってもらえるけれど、飛行機も何とかならないものだろうか。
せめて空港に乗り入れている電車だけでも。

 そこで心を切り替え、当初の予定通りに三峰神社に参拝する。池袋から4時間、帰りは4時間半。
 そのためか、結果的に参拝のときが、戌年亥月辛酉日申時というように四つが並んだ。
 そもそも秩父の駅が、お花畑だという。そうすると、臨死体験ではないか。そうすると5か。しばらく乗るとシロクという駅がある。唖然としてしまう。四つの緑ともいえるが、4と6とも取れる。もちろん行き先は三峰だし、そこには二瀬もある。
 三峰口の駅についたときには雨が降っていたが、バスに乗る頃には止む。しかし水蒸気があがって、山の上の方が見えない。山から大胆に蒸気が立ち上る。
 最初は車で参拝しようと思っていたが、とてもこれでは運転ができなかったであろう。
 それに、谷の両側に切り立った絶壁の所を走る道路を運転しながらでは外の景色が見えなかったであろう。オレンジから赤のまじった紅葉の葉が美しい。そこだけ夕日が当たったようだ。真っ赤なルビー色もあれば、黄色もあり、赤、オレンジ、黄色と一枚の葉の中に色を変化させていくようなのもある。
 切り立った山際のそこかしこに夕日があたっている。あるいは黄色くなっている。山と谷とに囲まれた川べりの紅葉は見事というしかない。
 道の途中の山の中腹には縄文人がすんでいたという横穴もあった。
 
 ここのバスは大らかだ。一応停留所もあるが、どこで下りてもいいし、どこで乗ってもいいのだそうだ。しかも秩父湖から上のバスは、ロープウエーが通っていないという理由から無料で乗れた。駅員さんもとても親切であった。

 霧がすごい。山の上にくると、
五メートル先が見えないような場所もある。そんな中、神社に向かって歩いていく。
 狛犬ではなくて、狼。大神というので、一番神に近い動物なのだという。結構威圧感がある。雄もそうだが、雌も鋭い。

 参拝。用件を申し述べて、ひふみ。

 霧の中に、ヤマトタケル尊の巨大銅像が浮かび上がる。どきっとするに十分だ。このお山を開いた先人。「はしけやし 我ぎ家の方ゆ 雲ゐ立ち来も」とふと口から出る。その瞬間、霧が銅像の顔の前をすっと横切ったように見えた。

 途中で下車した秩父は神仏が一体となったとてもよい地区である。秩父祭りがそろそろあるし、札所巡りでも有名である。

 今日は、羽田飛行場経由三峰神社行きであった。まあこんな日もあるか。
 帰ってきたら、いつも赤い顔が茶色になった、と言われた。

2006年11月27日(月)

 自分のもっている資質とか、枠とか、心の傾向とかいうものがある。自分のそれも自分でもよくわかってきている。だからこそこのメモを書くのであるし、俗なものであれ願いを持つのだ。前かがみになるために。
 
 松が必要な方がいて、裏山の松をあらためて見る。松くい虫に相当やられてしまっている。裏山には昔松林があったのだ。それをよく覚えている。しかしそれが今は見る影もない。山の上の方に松が少し残るがそれも相当痛んでいる。奥の院の松は多くが枯れてしまっている。この壊滅状態にもはや言葉も出ない。

2006年11月26日(日)

 随分と寒くなった。紅葉が始まりつつある。
 本堂の軒先のある場所に、スズメバチの巣ができているのに気がつく。よくもまあ安全でいたものだ。もうそこの住人はいないようだが。
 
 家人の車が近くの田んぼの中に横転する。二人乗っていたが、けが人はなし。見ると、お守りが、下になった窓にはりついている。身代わりである。日が悪いと悪いのであるが、なかなか予想はできないものだ。
 今日近所に、大慈寺の広告が入れられる。人様がよくなるようにというものだが、そういったどんな物にも、必ず妨げが必ず入るものだ。

2006年11月25日(土)

 古い知人たちと出会う。損得なしで知りえた友人、知人というのはいい。何年たっても、そのままで昔のままの気持ちになれる。
 そりゃわかっている。相手も何年も年をとっているし、こちらだって、実は同じ分だけ年をとっている。相手だってこちらを見て同じことを思っているに違いない。
 
 栃木市でミュージカルをされるというので、練習を見にいく。そこで山本有三の経歴をあらためてみる。
 彼が文化勲章を受章したのは、劇や脚本を書いた業績によるという。そして参議院議員にもなられたということだった。
 心に太陽を持て、唇に・・、という言葉や、たった一度しかない人生を・・、という言葉を、昔わけもわからず覚えたものだが、その意味と意義をあらためて考えてみる。
 我々宗教に携わる者にとって、当たり前すぎる言葉のように思えるのだが、一般に普遍化して公表したので評価される、ということでいいのだろう。

2006年11月24日(金)

 午前中、本堂のトイレから裏山をのぞくと、何やら綺麗な鳥が、裏山の植物の実を食べている。見るとつがいでいる。そしたらどこからともなく一羽、また一羽と集り、全部で四羽で実を食べている。
 息を殺して見ていると、青色の濃い紫色の羽と、白色の胸の部分とがあって、首を動かし回りを気にしながら無心についばんでいる。赤くはないので南天の実ではないようだ。一つ、二つ、目にする実を次から次へと口にする。あんな小さな実がこの小さな鳥の骨となり肉となっているのだと思うと不思議だ。
 ふと、何かの拍子に音が立って、一斉に山をはい上がるように飛んでいってしまった。

 そのあとで、別に何を考えるでもなく隣の保育所のそばを歩いていると、そこの先生がいて、何やら二人話し合っている。聞くと、鳥が建物のガラスにぶつかって死んでしまったのだという。そのぶつかった鳥というのを見ると、何と、先ほどお寺にいた鳥と同じ種類の鳥だった。その鳥の種類を自分にはわからないが、ちょっとした偶然に驚いた。
 そこの先生が庭先に穴を掘って、このぶつかった鳥を埋めてくれた。ありがたいお気持ちに感謝。

 鳥がぶつかったことは残念だったけれど、小野寺では、いつもこれと同じ種類の鳥や別の多くの鳥が、山々を飛び回っている。名も知らない木の実をついばんでいる。自分たちの全く気がつかない深い山の奥で。

2006年11月23日(木)

 亡き師の文章を見る機会に恵まれる。ある場所は細かく、ある場所は主張すべく、懐かしい言葉遣いが並んでいた。
 そして亡くなる数日前の言葉をも読む。ご本人はおそらく自分が他界されることを見越されていたのだろうけれど、あくまで文章は普段と変わっていない。人生最後であろう社寺参拝のことが書かれてあった。
 確かに自分はいつ死んでもいい覚悟はできているのだとおっしゃっていた。とすると、死ぬ直前であっても平常心であったということなのであろう。
 もう次のない文章を読み、その淡々とした文章に涙する。そして本当に師の亡くなったことを、改めて実感する。

2006年11月21日(火)

 昨日までの冷たい雨があがり、朝日が射すと煙のように蒸気が立ち上った。
 しかし、昨日の夜は寝そびれてしまい、ほとんど寝ていない。明け方寝たような気もするが、何か興奮して眠れなかった。そういえば新月であったか。
 
 いじめの問題を話し合う。根が深いし、複合した形が多いので、見つけにくい。担任の毅然とした態度だけがいじめをなくす。また、加害者の親にも問題があるのだという。
 思春期というのは扱いが難しい。大人でもあるし、子供でもあるし。単に異性に対するというだけではなく、すべてに対して敏感であるがゆえに、同じような気持ちをもったモノ同士が惹かれあうことになりかねない。
 例えば思春期ではないけれど、小学生にもならない子供が「性器を刺激する行動」がしばしば見られる場合などは、何か見えない面からの影響を考えた方がいいのかもしれない。
 土地神様にごあいさつ。
 
 熊が大平の富田に出現しているらしい。駅の近くの元の宿場町だ。いやはや、何が悪いのか、誰がいけないのか、地球を誰が面倒みるのか。

2006年11月19日(日)

 現在ここに問題がある、という勘ならば理解できる。現在のことだから。
 でも、滅多に会わないような人のことを思っていたら、その人から電話がかかってきた。自分にはあまり好ましくない電話。だから、その人のことや不都合な人のことを考えるのは今度からやめようと思う。

 人が死ぬときと、人が生まれるときは関係があるという。では受胎のときも何かかかわりがあるのか。あるとき、運が強い子を産むヒントを見たような気がした。悪いものが入ってこないというか・・。
 人は先祖があって生きているのだから。

2006年11月17日(金)

 前から手に入れたいと思っていた本が、といっても、原価で買えばすぐに手に入るのだけれど、できれば古本屋にないかと思っていた本があった。それでふらっと神保町を歩いていたら、ワゴンに発見、思った価格の半分くらいで手に入る。

 世界的仏教学者であるドイツH大学のS教授の講演会がある。話の内容は黄金律のことだった。それはそれで興味あったが、風邪のせいかあまり集中して聞けなかったのが残念だった。
 S教授にお目にかかるのは7年ぶりであろうか。今年で67歳。今回は懇親会でじっくりとお話ができる。そして改めて気さくなお人柄に触れる。本当に優れた学者というのは、人間的にはすぐれた方であるということを改めて痛感する。最晩年にご縁をいただいた中村元先生がそうであったように。

 帰りに電車でNさんと、現代の仏教の神話の話をする。
 現代人は基本的には唯物論者である。輪廻があると信じている人はどれだけいるだろうか。亡くなった人が天国かどこかにはいるとは思っているけれど。
 それに仏教には、キリスト教やギリシャ神話のようなロマンがない。人間味を感じない。
 インドにも神話はあるがレリーフの彫刻などには、子供の作品のような稚拙さがある。仏教で作られたジャータカや経典などには、自分の体を削って捧げたりというの話が多くて、マニア以外、今の日本人にはなじめるものではない。

 日本人の仏教といったら、お墓参りをしたり、おみくじを引いたり、といったものである。だからそういう方面から、徐々に四聖諦のような哲学的な話をしていけばいいのではないか。日本の仏教は、哲学的で理性的なインドの仏教からは随分と離れている。というお話があった。
 一々ごもっとも。現代人に通用する仏教の神話があれば、仏教が今一度息を吹き返すという。ではそれは何なのか。自分には漠然と見つめている方向が一つあるのだが・・。

2006年11月16日(木)

 岩舟町の仏教会会合の案内を出す。何故か庶務会計という役をやらせていただいている。事務能力はほとんどないのに。

 岩舟町観光協会の理事会で、蛍の話が出た。毎年三鴨山山ろくに放流されていた蛍だが、普通ならば、そのままでも増えていくであろうに、何故毎年放流する必要があるのか。その原因を探っていったら、松くい虫対策の薬が大量にまかれていたというのだそうだ。これでは養殖されている方もいやになってしまう。
 小野寺の地にも蛍を放流してほしいという要望を出す。

 英語の効果的な勉強法。心にふれたので、大切に思うものが自分にも大切。

2006年11月15日(水)

 毎週水曜日は朝から忙しい日。話す仕事が多いので、喉も疲れる。
 夜、最寄駅を降りて、ふと上を見ると、ペガサスの四角形がほぼ中天にある。今年この星座には気づいたのは初めてだろう。スバルも徐々に高度を上げている。
 
 夜、戌の刻、千島列島で大地震のニュース。子供のいじめや自殺のニュースが多い上に、またまた暗い話となる。世の中がおかしいと言われているが、これだけ多いと何がおかしいのか感覚が麻痺してしまうようだ。

2006年11月14日(火)

 朝4時半に目覚めなくてはならず、眠りが浅かったせいか、いろいろな夢を見る。
 会席料理で鮑を食べている夢、明け方は、快く大便をされている夢か現かのようなものも見た。

 役場や法務局や、・・で動いていたら、シンクロなのだろうか、法律関係のいろいろな話題と手続きとの話が出て終わった。
 しかし法律というのは難しい。入り組んでいるし、どこを押せばいいのかわからないことが多い。

 昨日からの気が残って活力となる。安心が心を支配する。

 本堂にこたつを設置する。暖かいが、眠くなるのが困るかも・・。

2006年11月13日(月)

 立冬を過ぎて穏やかな小春日和。
 朝方の冷たさが、太陽とともに溶け出し、今日着る衣服を選び着終わると、明け方からのつながりで、神社に最初にお参りする。
 お墓参りする頃には、背中を暑くなる程の陽が射していた。ご先祖に読経申し上げひれ伏す。

 こんな日だから最初、仕事を片付けて、回りに人がいたりすると気になるし、事務的にしか動けない。心を抑える。
 だけど外に出ると、何から何までがタイミング通りに行って、そしたら本当に心より、いわゆる真心がこもって、元通りの話し方になって安心されたり、いつまでもその場を離れないそのお心をありがたく思う。笑いが出るのが一番。

 思考が働かない。何か達成した喜びのあとの虚脱のように、眠く、体を支えるのが難しいくらいだ。

 夜、気づきの文化の会という会が主催で、栃木市市制七十周年の歌ができたというので、73歳で女性のI議員さんが歌手デビューされる。
 一つ、民謡というヒントをいただく。こちらは、円仁の唐より持ち来たった声明を遠い先祖とするものである。

 神様よりのお米一粒。

2006年11月12日(日)

 一日都合でお参りができず、その後復活すると、何とお参りのご利益が日常あったのかということを痛感する。自分では同じ自分であり続けているように感じても、相当ご加護が違う。
 いろいろ考えて行動するのも重要だが、考えないのが重要なこともある。明日は。

 今日法事の席でいろいろな動物の話題が出る。
 公害でいなくなったマムシが、京路戸に少しずつ戻ってきているということ。マムシは見明の沢に多いということ。近くには狸も狐も兎もいるということ。鹿が羽田にいるということ。あとこの前の熊とは別の熊が一匹いるということ。
 うーん、ここ小野寺は本当の田舎だ。

2006年11月11日(土)

 軽井沢での結婚式に列席する。
 キリスト教は契約の宗教とはいうが、まさしくその通りで、誓いを神と人の前でするという儀式が行われた。
 そして、そういった儀式を行って夫婦となっている、キリスト教信者へ思いを馳せる。なるほど、アメリカが訴訟社会と言われる一因を見た思いがした。

 片道三時間。夕刻、太陽光からライトへと視線が移っていくとき、ふっと意識がなくなる。たそがれに事故が多いというのを、身をもって知る。

 教会の建物に、赤く燃えている紅葉の葉がふれかかる。儀式をされた神父さんは、何十年も日本にいる方と聞くが、それよりも、御魂が日本人のような方に思えた。
 着られているマントの上にあるクロスの刺繍が重い。ただしクロスはキリスト教の専売特許ではない。

2006年11月8日(水)

 朝方西の空にあった月が、夜にまた東の空にあった。一日に二度お目にかかる。

 今日は、本当にいろいろな人から電話がかかってきた。ほとんどが久しぶりの人。皆、開運がしたいのはわかる。でもそんなコンビににように開運できると思うのはどんなものだろうか。
 しかし何とかしなくてはならない事例ももちろんある。

2006年11月7日(火)

 立冬の日、昼間の暖かな気温とは裏腹に、夜になって、十六日の月が随分と北の山際から出る頃には、じわりと冷えてくる。

 昼間、昨日車と人が接触したあたりを運転していると、その少し前頃から眠くなってきて、その現場にいくと、ほとんど意識をなくすくらい眠くなった。勘なのだけれど、昨日の運転手は眠気が原因ではなかったのだろうか。
 我々はなくなった方の気持ちの影響を受けると同時に、生きている人の思いも受けてしまうことがある。その場合、善にも悪にも、なのが問題である。

2006年11月6日(月)

 この日一日、物事が意外な動きをする。
 まず、朝パンクをしたといって、車が入口にしばらく止まっていた。
 具体的な小野寺の動きが今日始まり、そして今日のうちに随分と形として整ってきた。
 自分自身でも思いもかけないような動きをした。
 また両者の判断が狂ったのであろう、お寺の近くで車と人の接触事故があった。

 そして何より、ガソリンを入れるときのイメージから始まって、心の中の微かな感触に導かれた、思いがけない出会いもあった。新聞折込の印刷の依頼もした。

 満月前後というのは、人の意識が通常でない働きをする、というのは本当だ。

2006年11月5日(日)

 知人で来春歯科医院を開業するIさんの悩みは深刻であった。自分には死の恐怖がすごくある。もし来世、すなわち輪廻転生を、現代の人が納得するように証明できたら、心の安心を得ることができる。何とかそれを教えてほしい、ということだった。
 自分の非力を思う。手をかえ、品をかえお話しても、全部現代の医学や科学で証明されえるという反応しか得られない。ある部分では不確かな事例というのもあることで、興味を示してもらったが、それでも心よりの納得ではなかったようだ。
 今度は仕切りなおしで、お寺に来ていただこう。そして実際にどう人が見えない世界の影響を受けているのかを見ていただき、そして納得していただくしかあるまい。その積み重ねしかあるまい。

2006年11月3日(金)

 十三夜。最初のうちはよく晴れて月も絵を描いたような空にあったが、次第に雲が出始め、雲越しの月明かりとなった。
 仕事が一つ動く。この仕事は動かし続けるもの。
 
 町の文化祭の出品作品を見る。人口の割りに、芸術に関心を持たれて活動されている人の比率が多いのではないか、と感じる。
 様々な作品に感動したけれど、特に写真展で、ある方の作品が目についた。これは見たこともないような風景が、日常の我々の周りで起こっているというのを知れせてくれた作品だ。
 おそらく山の斜面であろうと思われる木々の間から、煙か霞のようなものが全体から立ち上り、春の訪れというようなタイトルが付けられていた。
 その作品が優れているのかどうか、自分にはわからない。ただ自分の感性の部分をとても刺激した作品であったことは間違いない。春はこんな形でも訪れるのかと。

2006年11月2日(木)

 昨夜は何のせいなのか、睡眠が浅かったので、夢をよく見たし、その夢を見ているときの心の状況もわかった。目覚めたときに夢を覚えてなくても、心よい感覚が残ることがある。そんなときは、きっと心よい夢を見ていたのだとわかった。

 夕方どうしてもあるお墓に行く用事があって、そのお墓の子孫の人と、お墓の前で話さなくてはならなかったのだが、帰ってきてからどうも調子が悪い。水を口でやっても、お経を読んでもおさまらない。それで水を霧吹きでやったら、瞬時に元に戻る。人様にもお勧めしているが、これは自分でも驚くほどだ。

 ずっと時期を待っていて、思いの通りになっていてくれたことに、じっくりと感謝の念をもつ。近い距離感に驚くほどだ。
 そしてその心の中で、理解していただいていたと感じる。舞い上がりたいほどの感謝のみ。自然体に。

 日が落ちると随分と気温が低くなってきたけれど、何とも月が美しい。その月の下で人が喜び、笑顔を見せる。無事に帰るが一番と一緒に喜ぶ。

 感覚なのだけれどデジャビューで、9月19日、自分は今日11月2日を見ていたような気がする。感覚なのだけど。

2006年11月1日(水)

 暖かい日であるのと同じように、おついたち、ありがたい、心豊な日を過ごす。

 人前でお話をするのに、どんな内容であれ、質問してもらうというのはありがたい。ますます力を入れようと思う。

 皇女和宮の本を読みたいと思って本屋によったら、内田康夫さんの「皇女の霊柩」という本を見つける。帰りの電車の中で読んだら、もちろんそうは思っていたけれど、全くの推理小説であった。時々有益な情報もあったが、内容そのものの、ストーリーの展開、文章のつなぎ、簡潔な文章、などすべてに感動して読み終える。こんな感動、結構久々かもしれない。脳に優しい文章というのは難しいものだ。彼の本を読むのは初めて。

2006年10月31日(火)

 今日あたりから徐々に力を入れなおす。回数がものを言うということだろう。上弦の月もきれいだし。

 参拝の方が、どうもお寺参りがいい年齢になってしまった、というお話をされていた。確かに参拝されるのは、年配の方が多いのは事実だ。人生を総括して、人生の最期いかにあるべきかを考えられる方が多いのであろうと思う。
 それはとても大切なことであるけれども、仏教が人々に提供するのは、それだけではない。
 そうではなくてむしろ、積極的に、現役の人こそが取り入れ、人生の勝者となっていけるような要素を提供するのが仏教であると信じる。天台の法華一乗の悉皆成仏の思想も、死=成仏ということを意味しているのではない。すべての人を、人生の勝者に導くという思想に他ならない。死んでお賽銭をあげられて、何の役に立つものか。

2006年10月30日(月)

 先住の七回忌が終わってから、お墓参りをしたときの感覚が違う。今までは重かったのだが、今は何と言うか、ポジションが定まったというか、軽い感じがする。自分も慣れたせいか。

 地元社会福祉法人のS会に、新たに栃木市に施設ができるというので開所式に参列する。距離は離れているが南に山がそびえ、逆地相である。木も南に高い。川が側を流れる。蛇行する川の側は難しいようだが、大丈夫だろうか。

 栃木市の文化会館の喫茶店で、コーヒーをいただく。栃木市で最初の試みが、あと一ヶ月あまりで行われる。昔、山本有三の文章を意味もわからず暗記したことがあるが、その言葉そのものが歌や踊りとともに舞台で披露される予定になっている。旋律がすばらしいのだそうだ。

 他のお寺の現況、僧侶の墓石を埋めたこと、ご供養のときの不思議、鬼形の元三大師の像のこと、偶然に白蛇をまたいで不治の病気が治ったことなど。

2006年10月29日(日)

 卯の刻、その土地でお任せする。
 
 渡良瀬遊水池は広大だけれど、科学技術の進んだ今、雄大な中国のような可能性を感じさせる。何かができる。

2006年10月28日(土)

 世界一古いという日本西蔵学会の研究会に参加する。チベット仏教の置かれている現況などの発表もある。なつかしい方々と再会し、久闊を叙す。チベット研究の第一人者ホプキンス教授の講演も聞く。

 烏は不吉という人がいるかもしれないが、神社を守る烏もいる。自分は見ているぞということをこちらに知らせるし、神社で何かをいじろうとすると、警告を発しもする。

 自分の文章を、誌的だと何人かの人に評される。
 うーん、そんなつもりで書いているのではないのだけれど、どうであろう。確かに詩は好きだけれど。そうなのかなあ。

2006年10月27日(金)

 天台宗とよい関係を保っていただいているR会の、地元教会の呼びかけで、近隣の宗教家と呼ばれる人たちが集合して、意見交換をした。
 お話はすべて全くもって、皆さんのお話の通りであったが、特に心を動かされたことが一つあった。それは、寺院の僧侶の方々で、お寺を法事だけの場所ではなくて、人々が相談を気軽にできる場所にしようという思いを持っておられる方が多くおられるというのを知ったことだった。
 各寺院に、それぞれの信徒さんたちが、相談に行ってお寺が盛んになっている情景を想像してみる。人々は救われるし、かたや僧侶は徳を積むことができる。そして、どのように人を救えるか、各僧侶の間で競い合えばいいのだ。これこそが、将来の仏教のあり方だ、と思った。それが既存の仏教が生き残り、再生する、あるいは唯一の道かもしれない。
 ますます、自分の技を磨こうと心新たにする。

 ふらっと寄った古本屋で、長い電車の中で読もうと、普段は手にも取ろうとしない瀬戸内さんの本を買って読む。そしたら帰りの車のラジオで、彼女が今日文化勲章を受章されたと話していた。

 先住の七回忌。他の人は知らず。今日一日、意識が重なって、二重の感覚がある。
 あるひと時、デジャビューのような生々しい感覚がある。

2006年10月26日(木)

 卒業論文にするのだといって、円仁の調査のために、U大学の学生さんが来られる。これは最近珍しいことだ。この人は、円仁に関心をもっていたが、まさか栃木出身だとは大学に入るまで知らなかったと言っており、これはおそらく大部分の学生に当てはまるであろうということでもあった。

 そんなものであろうと思う。円仁という名さえ知らない人が多い。慈覚大師が円仁のことだというのを知らない人も多い。何をされた方かということも知らず、まして栃木の出身であり、世界の三大旅行記を書いた人であるということもほとんど知られていない。
 これは円仁自身の謙虚なお人柄にもよる思われるが、自分の含めて、現在の関係者の円仁啓蒙の努力がされてないことにもよる。
 二年前、長安は資聖寺のあとと思われる場所で、大慈寺関係者一行は、当地で他界した惟暁の供養を行ってきた。理由を明確に説明はできないのだけれど、この日が、現在の円仁の扱われている状況にとって、非常に重要な日であったように感じられる。

2006年10月25日(水)

 本堂で読経する。生前存在感の大きかった師であったせいか、大きくて、そして清々しい気持ちになる。不思議に、生前と同じような緊張した気持ちになった。

 自分の気持ちに反せず生きるというのは難しい。どうしても頭で考えて、あるいは煩悩によって欲を作り出してしまうからだ。それで曇りが出る。心のまま、うれしさの指し示す方角、喜びの気のある方へ。それが最高の欲の達成だ。

2006年10月24日(火)

 雨が降って寒い日となった。どうも喉をやられたかもしれない。夜仕事があるので、初めてスト―ブを出した。

 何かに引かれるように外出すると、偶然と偶然が重なって、仕事がずっと進む。もう少しで外堀が埋まる。そのあとは本丸だ。今のうちに、情報をできるだけ集め、計画を着実なものとしておかなくては。

 基本的にはじっと息を潜める。節が変わっても、もう少し時期を待つのがよい。

2006年10月21日(土)

 音楽劇「円仁」以来お世話になているTさんが、心筋梗塞で倒れたのは一か月以上前のことだ。
 手術をして快復されたあと、今日始めてそのTさんとお目にかかった。外見では普段と変わらぬ動きをされていた。そしてそのお話によると、病気で倒れて目をつぶっている間、様々な記憶がフラッシュバックして見えた。劇で出た踊り子の女性(もちろん現在も生存している)なども、スローモーションでこっちにおいでと、お花畑で自分を手招きするのが見えた。そして和尚もそこに出てきた。しかも和尚は衣を着ていた。そして、瞬間ぱっと画面が消えたら、意識が戻って、自分が管を全身にはめられているのに気がついた、とお話された。
 何と言ったらいいか、大切な方に、あやうく引導を渡すところであった、ということか。
 そんなこともあってか、今日の練習の前にTさんは、皆の前で自分を紹介するのに、僕の葬式をする予定の人です、と冗談まじりに話されていた。
また人生観も変わったと話されていた。

2006年10月19日(木)

 物書きの人が書いたという、占い者まわりをしたという人の本を読む。
 読んでいくと随分とひどいことが書いてあった。あなたは大事故に会いますよ、と予言して平気でいる占い者(予言者?)と呼ばれる人がいるというのだ。そしてそういった類の人に、次のようにこの著者は言わせている。「私たちのようにちゃんと未来がわかる人が人の相談に乗ればいいのだけれど、口先だけの占い者は、こういう仕事に携わってはいけないのです」と。さらに、そういった人の未来を予見する人の言葉に左右されて、哀れにもこっけな人生を送る人のことも書いてあった。
 更に、何と表現したらいいのか、オチとしてとでもいうのか、この著者自身は、そういった人に言われた予言に、最後には意志の力で打ち勝つことができた、というようなことも書いてあった。

 ・・どうかと思う。もしそれだけ人の未来を知ることができる人がいるとすれば、どうしてその回避の方法を示せないのだろう。もしそれができないのなら、そういった事柄は口にすべきではない。そこには予言した人の驕りがある。
 もちろん、そういう特殊能力のある人がいることを否定しているのではない。そういう人たちは、予言するのではなくて、どうしてそうなるのかを知り、その原因を断ち、そして開運していく方法をこそ示すべきなのであると思う。
 当たり前だが、
この著者を責めているのではない。金儲け第一主義の横行している、占いと呼ばれる世界にあって、真面目に人様のためとして活動している人でさえ、開運の方法を示すことができない現実に腹を立て、かつ呆然としているのだ。
 その人のバックボーンも、ましてや祈りのことさえ知らない占い者などというものに、存在価値などがあるというのだろうか。

 今日話さなくてはならないのに、お話をするイメージがわかないでいた。そして、今日は聞いていただける方の方から、話の内容が提供されるだろう、と楽天的に臨んでいたら、ある方が珍しいコピーをお持ちになられ、助かった。 

2006年10月17日(火)

 隣の村檜神社のお祭り。お神楽の音が遠くより聞こえる。何とも地方色豊かな情緒だ。

 村おこしの話で、こちらの四名が、四名の方と新たにお話をする。方向性や問題点などが漠然と見えてくる。押さえるべき急所もあぶりだされてきた。予算もついた。あとはこのまま進むのみ、と。

 隣の栃木市の、ここから四キロくらいしか離れていない小野口という場所で、ツキノワグマが出たという。しかも、いつも走っている道路から200メートルしか入っていない栗林だという。
 猿情報なら昔あったことはあったが、熊は初めてだ。新聞によると、身長が130センチくらいというが、相手は熊だ。お寺の庭先に出てくる130センチの熊をイメージしてみると、いやはや、これは結構恐ろしい。


 業者の人に地獄マンダラを見せられる。仏教の地獄とはこのようなものかと思う。人間の心が作り出す世界であるとしてもその想像力はすごいものだ。神道の立山マンダラにしても、人間の血と関係がある。

2006年10月16日(月)

 庭にある公孫樹の木が、途中から三本に分かれている箇所があって、その一本が、一週間ほど前に風に折れて倒れた。長さ5メートルほどだが、太い場所で直径20センチくらい。その撤去をする。新品ののこぎり。
 大慈寺は西の山から吹いてくる風が強い日がある。隣の田沼の多田という地区より、京路戸という峠を通ってくる。京路戸とは経論堂の略だといわれている歴史ある場所だが、いまは悲惨な状況になっている。これに対して、さて地元民がどれだけ立ち上がれるか。

 Oさんの老夫婦が、娘さんの家に引っ越されるという話を聞く。この年になって、本当に寂しいよ、という言葉に嘘はない。知らない土地だし、話相手もいないし、都会だし、・・といろいろな思いを述べられていた。ご挨拶に来られたときに、本当にお世話になりました、というお言葉をいただく。自分も小さい頃よりお世話になった方。何かとても大きなものがなくなるような思いだ。死別のような寂しさだ。時間というのはこのように冷酷なものか、と思う。

2006年10月13日(金)

 あわただしい午前中にあって、急遽来られた方がいる。来院の目的は半分しか達成されなかったが、こちらでは多くの情報を得た。
 「辻説法」。待ちではなくて、どんどん外に出てお話をすべきだ、ということ。円仁の話をするのではなくて、自分が円仁の生まれ変わりとなって、説法するという気持ちをもつということ。檀家さんも大切だが、外に布教するのもとても大切だということ。わかりやすい、しかも特徴のある説法をすること。いろいろお話をいただいた。

 確かにそうだ。自分は博物館の学芸員のような話しかしてこなかった。仏教が命を取り戻すためには、自分の言葉で、生活に密着した話をしなくてはいけない。そして本当に開運してもらうしかない。それができないならば、仏教の看板を下げた方がいいだろう。そんな気落ちをもった。

2006年10月12日(木)

 偶然が自分の中で完結していたと思っていたが、他者に対しても影響があるというのがわかった。そういうときには、直前から何となく教えてくれる。これは見事なまで。タイミングとタイミングが重なっていく。
 その偶然を作り出すのは、人間ではない。確かにある部分人間であるかもしれないが、自分にとって、それはご先祖なのである。

2006年10月11日(水)

 お墓参りにいったとき、お参りに来るの待っていたんだよ、と頭を引っ張られるような気持ちがした。こんな経験は初めて。かつお墓の前にたたずむと、意識がぼーっとして眠くなる。

 自分の言ったことが、正しく理解されているかいないのか、こちらでは理解できないことがある。しかし気持ちとして、何かを感じてもらっていたようだ。午の刻。熱意が通じればそれでいい。ゆっくり行こう。

2006年10月10日(火)

 異常に忙しい日というのがときどきある。節が変わったせいであるかもしれない。
 朝に時間をはかって神社参拝。檀家さんの告別式の電話。午前中に小野寺南小の三年生がきてお話し。お墓参りをして、メールで諸連絡。相談の方からの心配な電話。千葉からの方々を待っていたら、烏山から三十名の団体さんが突然来られる。御朱印。休講の諸連絡。Zの方々が来られるのを待っていて、やっと七十名の団体さんが見え三十分お話。また御朱印。Zの方々と対策を立て、意見交換。その後、物件を二ヶ所見る。すぐ帰ってきて同じ班の人とご相談。最後に夜の勉強会。途中で取れなかった電話が数件。
 電話といえば、まさかという人を電話で意識していると、その後に着信履歴あり。そしてたまたま見たかけ横顔で、用件を知る。偶然でもあるし必然でもあるし。

2006年10月7日(土)

 本当に暖かで、風のさわやかな一日であった。

 夕方、小野寺の山々が西日を浴びて光っていた。横からの光に、山の顔、凹凸がくっきりと出る。影が山の木々の表面を横に伸びていく。山に夏の盛りはもはやないが、ゆっくりじっくりと内側で熟していて暖かい。そんな山々に囲まれながら、小野寺の人たちは生活をしているのだ。

 夜、月が出る。夜だというのに、雲が白いんだよ。ここかしこに雲が浮いている。木々の葉が一枚一枚光っている。本当に反射して濡れているように光っている。後を振り返ったって、木々の立ち姿がはっきり見える。その姿に思わず一人、おおと歓声が出る。彼らは、自分たちは夜だって寝ていないのがわかるかい、と言っているのだ。
 秋の虫が軽やかに草の中で鳴いている。時折、遠くからざざざという音が伝わってくる。風が吹いても寒さはなく、何とも心地よく呼吸ができる。この情景を枕に、仮のここで寝そべったとしても、人生何の違和感もないだろう。二千年前だって同じ情景を自分は見ていたのだ、と直感する。

 ・・何度も何度も、好きだといっているじゃないか。それなのに、何の返事もしてくれない。月よ・・。目の焦点をゆっくり合わせると、かなたにある孤高の光が、まっすぐ目から脳に入って頭蓋骨の後側に焼きつく。
 かぐや姫の姿というのは、実際はどのようなものなのか。もし顔がこのように丸い月であるならば、体はその下にこのようにあるものか、と勝手な想像する。
 何十分も月を見ている。心のままに手を動かしたり、呼吸したりしながら。そうしていると、高慢な心が次第に消えていく。そしていつしか、月に向かって繰り返し祈っている自分がいるのに気づく。

 ああしかし、今日は何と幸福感に溢れているのだろう。原因と結果のうちの、まだ原因しか行っていないというのに。

2006年10月6日(金)

 今朝は4時半頃起こされる。

 NPO法人おいふぁの活動の一環として、地元の岩舟小学校で、円仁の話をさせていただく。5,6年生が対象。最初の試みとて、どこまで理解していただいたやら。


 山形の千歳栄さんという方が、『慈覚大師円仁 追慕の情景』という本をお持ちになる。写真も多いし、資料としてとても貴重な本。
 この本の中でとても重要な情報があった。慈覚大師円仁が比叡山でなくなり、その後山寺までご遺骨をお運びすることになったとき、頭部のお骨だけは比叡山に残し、御顔に似せた首を木彫りして頭蓋骨とし、他の部分の骨とを合わせてお体とした。今までこれがどういう意味であるかわからなかったのだが、この形式は、中国は遼の時代の「木雕真容偶像」というものと似ているという。そして、その御骨をお運びになったのが荻野戸六人衆と呼ばれ、今でもその子孫の方が天童で生存されているということであった。何とも心躍る。
 最近重要文化財に指定された、この御首像のリアルな写真をしみじみ拝見する。目をつむったまま千二百年埋もれてきた円仁様の御心が今、無遠慮な平成人の視線にさらされることさえ甘んじているということは、何かとても重要なことを訴えるために、この平成の世の中に姿を現した、何かそんな感懐を抱く。
 
 雨模様の十五夜。

2006年10月5日(木)

 朝、5時少しに起こされる。誰だったのだろう。

 お隣の保育所にいる、一番小さい子たちがお寺の庭に遊びにくる。そしてたまたま案内をしている途中で、寒桜がもう咲いているのに気がついた。今年は随分早い開花である。

 どんぐりがこんなに取れたよ、と全員の子が紙ふくろに入った2,3粒のどんぐりを見せてくれた。後にいた子も順番をまって、ちゃんと中身を見せてくれた。

 水(水道)の力に驚く。時間もぴしゃり、ぴしゃりと合っていく。

2006年10月4日(水)

 朝早くから事務をして、そのあと三コマはきつい。それも相手はつわものばかり。
 若いひとたちとお話をすると楽しい。自分は少し心が年を取っていたようだ。若さある心に戻らねば。

2006年10月3日(火)

 神社にいったときのカンで、今日の巳の刻に動く。自分にとって今、二週間推敲し続けた最高のものを出しておく。少しの脱力。

 夕方仕事を終えて、本堂から出ると、10日の月がちょうどいい目線に浮かんでいた。一瞬息を呑む。ああ、何ときれいなのだろうと思う。虫の声もまわりから聞こえる。この景色の美しさ。それだけでいいじゃないか。あとのことはママよ。

 ある企業に勤めている知人が入院したというのでお見舞いに行く。雑談の途中で、社長も見舞いに来てくれたのだけど、じっくり体を治せと言ってくれた。そう言ってくれるのはありがたいが、逆に早く会社に出て来いと言われているみたいにも聞こえるし・・。と話されていた。
 なるほど、その人と会った面会室の隣に机には、その人が入院してまで自発的にやっている、仕事用のノートパソコンが置いてあった。・・やれやれ。
 言うに言われぬ、日本人的雇用・被雇用関係の片鱗を見る。

2006年10月2日(月)

 昨日は一日だったので、神社めぐり。久しぶりの神社もあったが、その後から、違和感なくその神社の横を過ぎることができる。

 今日は甲子。午前中雨。そして雨上がり、ありえないと思っていた状況を見つけてうれしくなる。自分でもこんなにうれしくなるとは思ってもみなかった。仕方のないくらいに。

 祖父の月命日。読経のあと、重なる願いの気持ち。
 祖父がなくなったのは、自分が中二のとき。その風貌と口調とを、今ありありと思い出す。

2006年9月30日(土)

 家を不在にしていた折、何人かの方が来ていただいたようだった。おそらく申の刻、玄関先に心が残る。

 いつも田舎で運転しているので、久しぶりに都会で運転すると気を使う。昔さんざん乗っていた感覚がなくなってきている。
 自分の田舎、栃木県南部で運転している人には、謙譲の精神がある。最初、この田舎で運転を始めた頃は、何てジェントルな、そしてアバウトな運転をする人ばかりだろうと感じていて、最近はそれが普通の運転であると身についてしまっていたようだ。しかしその感覚で都会の運転はできない。わずかなすきにも入っていくという精神がないと、都会での運転はままならないのかもしれない。

2006年9月29日(金)

 あらたに、大慈寺ご本尊「塩薬師」様に、塩を盛って供養する。
 
 二度目のお参りの神社。心、熱意をこめる。

 膨らんでいく月が、鐘つき堂の上にあって、境内の風景と調和する。

2006年9月28日(木)

 どうしても今日は神社参りをしなくてはいけない、と思って見たら庚申の日。

 宗教的なお話をさせていただくが、本当にこれでいいのか、と自問することもある。とにかく答えが出ているという事実がすべてであるとして考えるしかない。もっと簡単で強烈な方法があるのかもしれないのだが。
 そして、そういった本当に人をどうにかしよう、というお話をしたあとには、何ともいえない興奮状態が続く。


 しかし水子をお持ちの女性というのは、どうして一様に独特の寂しい雰囲気なのだろう。年配の女性であっても、水子をお持ちの若い人と同じような雰囲気があるのも不思議だ。

 マザーテレサは、どんなことがあっても命をいただいたからには子供を産むべきだ、と主張された。
 しかしながら、「社会的にどうしても産めない子供というのはいるのに、そんなに強く言うのはおかしい」というある日本人の意見を聞いたあと、マザーは沈黙されてしまったという。
 中村元先生は、仏教の精神を「慈悲と寛容」であるとされた。そんなことも考えながら、さてこの件に関して、どちらの意見に与するや。・・なんか友清歓真の山姥のようになってしまった。

 在家の方であっても、お墓参りの折にお経をあげることを勧める。人間そんなに毎回気持ちを込めて墓参りができるというわけではない。
 背中を動かすのは墓参りが一番・・かもしれない。自分も含めて。

2006年9月27日(水)

 父の月命日。墓の正面に書いてある戒名の前に気持ちあり。

 今日より勉強会。勉強熱心な皆さんに押されて、思考を始める。刺激を受ける。

 昼の土砂降りが嘘のように、夜は星がきらめく。

2006年9月26日(火)

 いろいろな術でも何でも、最後の詰めというのが大切であるのを実感する。結局耳学問ではだめだし、自分で得たものでないと、使えないということだろう。
 最近、その諸々をしている、あるいはさせられている。

 ある宗教者の本を読んでいたら頭が痛くなった。同じ本を前読んだときは、すんなり入ったのに、どうも今回はだめだ。感覚がずれているのだろう。九星だけを見て死期を当てた、なんていうことはない。霊感の補助程度に考えているのに拒否反応がある。

 神が先か、仏が先か。神が先だと思っていたが、僧侶は逆の場合もあるようだ。ちゃんと反応をいただける。遊水地の近くだから海の神なのか。

2006年9月25日(月)

 お彼岸のこととて、お経を長くあげると、その分だけ無意識の世界が動く。お知らせが多い。また心が今日通じたのを感じる。おごるつもりはないが。

 今になってはずかしいのだが、何となく本尊様への祈りのコツがわかってきているようにも思う。しかし全く感覚の世界。


 役場に村おこしのお話を聞いていただきに行く。新しいこととて、どう対応したらいいのかわからないということであった。行政に多くを求めているのでないし、ご理解いただいた上で、徐々にご協力お願いします、とお話をする。
 それにしてもKさんの、ソフトだが要点をはずさないお話ぶりは上等だ。さすが社会経験の多い方であることを再認識する。

 夕方烏が各方向に飛んでいくのを見る。烏の飛び方は自転車をこぐ人のようだ。一生懸命こぐ人、時々こいではときどき勢いにのって走らせる人。そして何やら烏の言葉で合図をし合ってる。結構行動もわかりやすい。烏は霊物か。

2006年9月23日(土)

 お彼岸の中日。暑さ、寒さも、・・ではないけれど、心が吸われていくような何とも言えない気持ちのいい空であった。こんな日が長く続けばいいと思うが、四季があるからこそ日本か、とも思う。

 何で今日はこんなに気が違うのだろう。日本中が聖地??。うーん。
 御先祖様にお墓参り。いろいろな交流がある。
 あるいはお墓の怖さも感じる。お墓にお願いするのでなく、お墓を使うのは、最後の最後か。あの世が身近に思える。
 あの世という表現は最近めっきりきかない。法事の席でも、「故人が天国に行っても・・」と「天国」という言葉でお話される方が圧倒的に多い。「極楽」とお話される方は皆無である。「阿弥陀様の元」なんていうのはらくだが針の穴を通るより少ない。
 では天国に、どのようなイメージを持たれているのか。キリスト教のいう天国ではまさかなかろうに。
 結構生きている人の、あの世に対するイメージというのは大切である。法話の機会があれば、少しずつお話してしかるべき話題かもしれない。

2006年9月22日(金)

 確か、今日あたりが新月。特殊な日であったが、動くのはやめることにした。

 アイデアをほしいと思うわけでもないのに、墓参りをしたあとでは、ふと心に浮かぶことがある。
 祈りの形というのは難しいものでなくていい。簡単でも効くことがある。意外と自分たちは、簡単だけれど大切なことを忘れていることがあるのかもしれない。

2006年9月21日(木)

 昨日は時間が取れずゆっくり墓参りができなかったので、今日お参りする。
 お参りが終わって、一仕事して本堂から出るときに、普通は感じられなかった花の香りがどこからともなく漂ってくる。

 お寺のことでもなく、相談のことでもなく、学問のことでもなく、何にも関係のない、友人というものが自分はほしい。自分のバカさをそのまま許してくれるような。そして自分の本質をわかってくれているような。その条件に近い方にお願いしているのだけれど、なかなか理解していただいていない様子。

2006年9月20日(水)

 本当は相当に落ち込んでもいいはずなのに、何故か心よりの喜びがある。お彼岸で墓参りをしたからだろうか。それとも昨日のことが効いているのか。心が通じたような喜びに溢れている。
 明るい未来があるということかどうかはわからない。明るい未来というのは自分より掴むものだ。予言に左右される人生に価値はない。たとえ結果的に予言と同じになったとしても。

2006年9月19日(火)

 三白眼は裏切りの相だというが、比肩も相当の裏切り者だ。というよりも、相手をたたいて平然としているので、裏切りの相さえ出ないのであろう。
 酸素がまだ足りないか。しかしそれでは自信が失われる。亥の刻、手が不自由な方のための道具。砂にめり込む感触。

 暑く感じる一日、夕方、西の空がオレンジ色に輝いていた。まるで、火が吹き出るようだ。雲がないので、放射線やすさまじい。色はオレンジというより金だ。そして運転している車が絶好の場所に移動すると、大きな、大きな太陽がビルの間に落ちていく。こんなに美しい落日を見たのは、大げさだが何年ぶりだろう。
 しかし、人生楽しいなあ。

 文章を書いているときに、突然デジャビューが来る。「昔この場所に来たことがある」というのではなくて「昔この場面に遭遇したことがある」という何とまあ変てこなものだ。微かであったが、間違いなく、その状況を見ていた。ということは、この状況はもう予定されていたことであるのか。とすれば恥ずかしがることはない。
 そのデジャビューの世界は、心静かな世界であったのだけれど。

2006年9月17日(日)

 朝神社に参拝する。日にちは考えていなかったのだけれど、今日は行かなくては、という気持ちに押される。
 すると、あまりの神々しさに足がすくむ。大宮の女体神社もそうだというが、こちらも遥拝するのが正式なのではないだろうか。よくわからないけれど。
 祝詞に小鳥のさえずり。

 何となく参拝の方が境内に来られている。ちらちら姿を見る。時間があるときに、時々話しかけることがあるが、多くは遠くより来られた方たちばかりだ。
 とすると大慈寺は、アメリカ人のライシャワーさんに賞賛された、円仁さんの巡礼行記のようなものか。

 法事の席でお年寄りに話しかけられる。「お宅のお父さんは本当にいい人だった。今でもよく思い出す。おばあちゃん、何か心配事があったら、いつでもお寺においでと言ってくれた。それなのに、私より先にいってしまうなんて・・。あなたもお父さんのようなお坊さんになって欲しい。云々。」
 今日だけで父の話を三、四人の方から聞いた。

2006年9月16日(土)

 地元の運動会。準備と後片付けに無心に取り組む父母の方々の姿に涙が出る。

 ただ自分は、簡単なことを伝えたいだけなのだ。それだけのこと。極めてシンプルな。それは通じていようけれど。ただ今日はタイミングがずれただけのこと。そろそろ酸素がほしい、という感じであろうか。次は酸素が入る予定の時期なのだけれど。

 他のお寺の法事のお話を聞く。通夜の読経の前に一時間も自分のお寺の宣伝をするお坊さんがいるという。そこに立ち会ったある参列者が、あのお坊さんは頭が悪いのではないかと受付の人に質問をした。すると、何か社会的に立派な人であって決して頭は悪くないですよ、と言われたという。
 それに何かコメントをするつもりはない。ただ事実だけをメモとして残しておこう。

2006年9月15日(金)

 イギリスO大学のS教授の講演をお聞きする。
 インドの密教は、インドの土着のシヴァ神への信仰とほとんど儀礼的に違いがない、あるいは両者が影響しあって完成形態に向かっていった、ということであった。そもそもシヴァ神への信仰というのは、他の土着信仰の中でも群を抜いているものであり、むしろ密教より先に儀礼が完成した部分があるという。神霊を呼び出してそれと一体となろうと願い――この段階ではまだ意識があるのだが――、その後自他の区別なくその神霊と一体になるという段階がくる。その方法は密教と同じであるが、シヴァを信仰する一派、すなわちシャイヴァの文献にそれが見られるということであった。
 念のためにお聞きした。とすると日本の天台密教にしろ真言密教にしろ、そうするとシャイヴァの影響を受けているのかどうか。とするとS教授は自信をもって、その通り、とお答えになった。これは高野山では言わなかったことなのだけど、と付け加えられてはいたが。
 いやはや、新しく調べ、注意しなくてはならない分野が広がった。あるいは、呆然たる思いもある。
 講演の後、S先生には、夕食までご一緒いただく。

 O先生のことが気になっていたら、O先生よりお手紙をいただく。

2006年9月14日(木)

 知人のKさんたちが知り合いの方を連れてこられる。なるほど、都会の人というのは、田舎の体験をしたいという人が多いらしい。

 今日始めて足洗いの滝が落ちているのを見る。随分な水量があった。しかも岩場にお不動様もあり、昔の行者さんが行をしたという名残はある。しかし残念ながら、現在も行をする人がいるという雰囲気ではない。何十年も行者が行をしない場所であれば当たり前か。
 途中の溜め池も素晴らしい。熊沢蕃山が作ったという五十のうちの一つだ。その余徳が今に残る。
 昔の小学校の校舎の内部も見る。はるか昔の記憶がトランプのカードのようによみがえる。

2006年9月10日(日)

 お隣の村檜神社にお参りすると、長らく屋根を覆っていた足場とビニールとが除去されている最中であった。屋根のふきかえで、檜はだふきの作業が行われていたのだ。約半年だろうか。

 法事の席で、人生の先輩のお話をお伺いする。

 その中で一つ。昭和の時代が始まったときには、「昭」という字をつけた人が多かったと聞いた。昭和二年なら昭二、三年なら昭三、あるいは昭平とか昭太郎とかクラスの男子の四分の一にこの文字が入っていたということであった。
 それに比べて、平成という文字を使う人はそう多くない。平にしろ成にしろ使いにくい字なのであろう。
 今般お生まれになった秋篠宮家の親王様にどのようなお名前がつくのか。その名前が新生児の名前として流行るのではないか、とその方はおっしゃっていた。

2006年9月8日(金)

 今日は白露、そしてお薬師様の日、しかも月食らしい。夜、雨まじりの雲で月は見えなかったが。
 節が変わったせいか、急激に変化が起きる。タタキといえばタタキだが、いやまあ随分と激しいこと。
 今日という日のせいかどうかは知らないが、もうなりふりかまわず行くしかあるまい。

2006年9月7日(木)

 千葉のMさんが21日のお参りを終えられる。毎日葛生駅まで定期でおいでになり、それから自転車で来られていた。頭の下がる思いだ。
 お墓を新しく作った場合、それ位の気持ちは本当はあった方がいい。そうすれば先祖様も納得してくれるからである。

 日本語を英語で表現する難しさを痛感する。

2006年9月5日(火)

 七面山に登った夢を見る。

 O先生より、栽培されている梨が届く。瑞々しい美味。

 日中は暑かったが、夕方より雨。夜、その雲の切れ間に月が浮かぶ。光が前のお宅の屋根に反射する。
 草の中より二、三種類聞こえる、賑やかな虫の音。何とも涼しい、微かな風。

2006年9月4日(月)

 朝、何か変な気を感じてずっと本堂の中からガラス越しに東の窓を見ていると、誰かいるのか、実際に人が現れ、それが本堂の中をのぞいてきた。この前の賽銭泥棒がまたも来たらしい。目だけしか見えなかったので断定はできないが。そしたらふっと行ってしまった。あ、人がいるから本堂前の賽銭は取れない、とでも考えたのだろう。
 追いかけていくにしても、確認するにしても遠回り。警察に電話をとも思ったが、距離を考えると逃げられてしまおう。追うにも足音がする。今回は追えないか。

 昼間は暑いのに、夕方からはめっきり温度が下がる。

 こちらから飛ばしていたと思ったら逆で、電話がくる。心が通じると、仕事の話でも身近に感じられるものだ。

2006年9月3日(日)

 真岡市で「円仁・心のコンサート」という合唱公演が行われた。市長さんも来られていた。久々の円仁組曲。それなりの感動がある。しかし皆さんは、本当はミュージカルやりたいのだろうな、と思う。上田にも話があるし。

 中国の神秘のお話をまた聞く。中国生まれで日本人の男性と結婚されたOさんは、流暢な日本語を話し、しかも翻訳能力にも長けている才女だ。そのOさんが子供の頃、一ヶ月も高熱で寝ているときに、針の名人に針を刺してもらったら、30分で熱が下がったということだった。お父さんも気功をされていて、未だに二十代にも負けない体をされているともいう。
 その話のあと、実は自分も中国の神秘の話を知っている、といって、昔聞いた話をした。その話題の人は中国の知人の旦那さんなのだが、易を勉強されている。そして、例えば外国から電話があると、いついつその人が中国に来るということがわかって、その準備をしている、ということであった。
 それを聞いたOさんも驚いていた。そういった易とかというものは、中国では文化大革命でなくなってしまっているのだけれど、その人はどうして知ったのだろう、と話されていた。
 しかし自分も、Oさんに別の意味で驚かされたことがあった。Oさんがそのときに、「天には秘密があって、そういったものを知ってしまっていいのだろうか」と質問されてきたことだ。おそらくこういう発想は、一般的な日本人にはほとんどないであろうと思う。少し勉強した方ならばそれを「天機」といって、地上には知らせてはならない秘密が天にある、という信仰が中国にあることはわかるのだけれど。もう日本人になられているOさんなのだが、血として中国の、その未知なるものを畏れるというか、そういった神秘を尊ぶという心根がおありなのに驚いた。
 ますますもって中国という国の奥深さを知る。

2006年9月2日(土)

 岩舟サミットというのが行われる。物産販売のお手伝いをする。
 日本の中で岩船の名のつく地名をもつ地区の方々との交流会で、今回が四回目だそう。内容の理解に不十分な点があったであろうが、それよりも、各地区に歌の巧い方が多いのに驚く。
その土地土地の香を会場に運びながら、

 昨日より、左腕の調子がよくない。原因はわかっているのだけれど。

2006年9月1日(金)

 九月の気。
 新潟より来客。大師ご宝前にて理趣分。夜にまた東京でお話。
 夜の入口、急ぎ足で歩いている途中ふと見ると、浅草の雷門の上に上弦の月が留まる。

 いろいろな誤解も解けた。気持ちもわかった。恥ずかしさも越えた。本当に、自分はそんなに交際範囲が広いわけではないのだ。肉を裂いていって、骨に到達するような狭くてしびれる感覚。大人の言葉遣いを聞いてはっとする。
 
 ある人に言われた言葉が、どこかで前に聞いた言葉だとずっと考え続けていた。そう、六年前に言われた言葉が、今全く違う人から言われたのだ。ということはその間、自分はどこもかわっていないということなのだろうか。

2006年8月30日(水)

 お悩みをお持ちの方のお話を二件お聞きする。
 どんな人のどんな内容のお話でも、お聞きする前は、本心、最初いやだなと思うのだが、お話の後は必ず、お聞きしてよかったと思う。
 今日、そのお話を聞いた帰り、九段下で、帰宅の会社員たちが多くいる道を歩いているときに、ふと涙がこぼれた。
 これで、先ほどの人は助かるだろう。自分は何とありがたい仕事をさせていただいているのだろう。額の上で、ご先祖(父)のほぼ同じ種類の涙。この技術を残していただいた師への感謝。
 そのようないろいろな感情が一瞬にやってきた。それは言葉にしなくても、一瞬で内容を悟ることができたものだ。それが涙として出たと思われた。

2006年8月29日(火)

 卯に土、戌の7時30以内で金。朝のあとでご先祖にお礼。ご先祖の力を借りるのはとても大切なこと、と実感する。また、身に沁みてもらう。
 
 昼頃に携帯を見ると、画面が消えている。スイッチを消したり入れたりしても反応がない。受信はできるが送信はできない。で結局修理に持っていき、そっくり交換してもらうことになるのだが、ここでいろいろと考える。
 全く異状がなかった携帯が突然使用不能になった、ということは何かのお知らせであろうと判断する。まず携帯に災いが入ってきたのか。明日二件、お話を聞かせていただくことになっており、その方のどちらかの影響ということも十分にある。それとも、ネット上で収集して携帯に保存してある情報が天機だったということもある。あるいはご先祖のお知らせか。
 そのいずれかが原因かは、明日になればわかるであろう。とにかく新しい携帯になった。料金がかからず得した気分。
 
 不思議なことなのだが、人が幸福になろうというときには、何らかの妨げが入るものである。

2006年8月28日(月)

 鎌倉で、ゾロアスター専門のO先生のお話をうかがう。
 いろいろ興味深かったのだが、数の話がおもしろかった。ゾロアスターは3が基本であり、ユダヤ教から出て、グノーシスの影響もあるというマニ教は5を基本とするということだった。この5というのは、陰陽の考えを入れるならば、陰数と陽数の合計数だ。外宮と内宮。

2006年8月26日(土)

 昨夜、問題がすっきり解決した夢をみた。しかし現実はそうではない。心にまだぽっかり穴があいている。

 夜の8時半頃、仏手内あたりを車で南に走っていると、三鴨山の東あたりを、飛行機よりも大きい間隔をもった、三つの赤い光を備えたものが、低空で、斜めに地面に落ちていくのが見えた。

 三つの光は等間隔で、一瞬飛行機かと思ったが、点滅していなかったので飛行機ではないだろう。それにあれだけ大きなものなのに、音が全くしていなかった。渡良瀬川の気球でもおかしいし、夜にグライダーでもあるまい。個人所有の飛行機にしても、滑走路があるとは聞いたことがない。しかも音なくして。
 落ちたか着陸したか、そのあたりの目星をつけてあわてて追ってみたけれど、角を曲がったときには、光そのものがなくなってしまった。誰か同時刻に空を見ていた人がいれば、あれだけ大きかったのだから、必ず目に入ったであろうものであった。
 確認のできない、飛行し、そして墜落もせずに消えた物体。


 去年の夏だったが、夜に茨城から帰る途中、渋滞する車の上二、三メートルを、花火のような燃える物体が自分たちを後から追い越していき、そして自分の車のすぐ前あたりで消えた、ということもあった。

 空を見ていると、結構いろいろなものが飛んでいる。

2006年8月25日(金)

 なき師のために読経をすると、何とも言えない気に包まれた感じがした。

 先日七面山に同行された方とお話をする。ずっと、特定の人に怨まれていたのだが、お山に登ってから、その念がなくなったそうだ。その人は70歳くらいの女性で、見る人が見ようとすると、すぐ顔を隠してしまうという。それはそうだろう。人を恨んでいるときには、自分の顔を隠したがるのだろうから。

 来年は中也の生誕百年とかで、ラジオで番組をやっていた。ゲストは研究者である70歳の女性であり、30歳で死んだ中也の恋愛詩の解説というのにいかにも違和感を覚えた。

 この女性、役職上のこともあるのだろうが、いかにもしたり顔で話されているのに、嫌悪感さえ感じた。いくら中也を語ったところで、中也そのものを知ることはできない。中也の作品に触れることのみによって中也自身を語りえるのであるから。
 仏像は手を合わせられることによって価値があるのであり、仏像評論家に話されるようになった時点で、仏像は死ぬ。この中也研究をしている人に何の罪もないが、この人が解説をする限りにおいて、中也を殺しているのである。
 だから、全国にある何々記念館は、その人を顕彰しているようにみせかけてはいるが、実はその人を殺してしまっているのである。さらに、インテリといわれる人にのみ職を与え、社会的な評価を与え、更に、その人たちの話をきいた頭でっかちで、頭の大きさを競いあい、しかも心の貧しい日本人の数を増やしているに過ぎない。
 それらの解説者たちが文化人の地位を与えられるのに反して、これから本当に文化を創造しようという、実質的な意味で貧しい人々は、残念ながら社会から置き去りにされている。
 再度いう。この老女に怨みも何もないが、日本文化はいまだに貧弱である。
それはライシャワーのときから変わらない。

 亥の刻、艮、木気二つ。

2006年8月24日(木)

 噂として、カントの先生が、スウーデンボルグであったという説があるらしい。確かにカントの仏教との共通性は皆が認める所である。

 お話をしていて、している最中に次から次へとアイデアがわく。不思議で仕方がない。一人で考えているときは、あまり沸かないのに。とても大切なことがわかった。

2006年8月23日(水)

 大施餓鬼が終わる。処暑。新月。これから変わろう。やっと。

 昨日はモンゴルのホテルに宿泊しているリアルな夢をみ、今日は同級生の家にお邪魔して宿泊しているリアルな夢をみる。本当にリアル。

2006年8月21日(月)

 秋の気配になったからではないであろうが、昨日やったことのせいだろうか、昨日見ていた資料のせいだろうか、あるいは朝布団の中でしたことのせいだろうか、朝の神社参りから気が違う。何ともすがすがしい。きらきらと輝くようだ。
 トランプの切り札というのがある。それが本当の切り札かどうかは、実際に使ってみないとわからない。

 円仁のビデオを作っていただいているTさんが来られて、ビデオに入れる声を入れてほしい、とテープを持ってこられる。自分の声を聞くというのは恥ずかしいものだ。10月には完成だとか。

 一昨日から、千葉のMさんが21日間参りをされており、今日もお参りされている様子を遠くより拝見する。

 今日の線香(吉祥香)は面白い形をしていた。夕刻だが、丸くなるような状態で、立ち消えしていた。更に火をつけると、半分丸くなって灰が残った。おそらく、と感ずることあり。朝の9時半にもあり。

2006年8月20日(日)

 辰の刻、艮より。またしてもご先祖がお喜び。意味がわからず。

 昨日のバカ暑さはないにしても、やはり暑い一日であった。施餓鬼の準備。

2006年8月18日(金)

 今日は、千葉のMさんが来られて法事、なき師の話に花がさく。
 しかし話が非常になまなましい。あれ、と思ったら、命日25日(旧暦)であった。旧暦でも来られるのであろう。

 話のヒントに赤いもの。現場にいく。圧巻より、喉より手、必ず手に、感謝しつつ。見えないご指導。これで変わる。

2006年8月17日(木)

 今日ふと思い出した。この前、用事があって子供のたくさん集る場所に行くことがあった。普通は子供たちが自分に声をかけてこないのに、このときだけ、バイバイと言ってきた小さい子がいた。
 そして法事で、この子に会ったことを思い出した。この子の曽祖父の法事である。時間を考えると、この子にバイバイと言われたその日の夕方、この子の曽祖父は他界して、そして自分が数日後に告別式をすることになったのである。
 そしてこのお母さんは、亡くなった方やその次の世界のことについて興味を持たれて、いろいろ自分に質問をして来られる方だったのである。
 子供は無意識のうちに、いろいろとさせられることというのがある。

 一度約束をしていたのに反故にした場合、その理由はどうあれ、抑えようと思っても気持ちがいってしまう。それと同時にその約束に関する「モノ」も一緒に行くのではないかと思う。それが摂理。

 台風の影響か、天気のあとにすごい雷雨がある。ここまでくると気持ちいというほどの土砂降りだ。庭一面が水たまりになり、屋根からは水道から流したように雨だれが落ちる。バカな話だが、家に屋根があってよかったと思う。空全体が白くなって、水の惑星と衝突したような気分だ。無意識に死のイメージ。

2006年8月16日(水)

 お盆最後の日、残りの檀家さんを回る。新盆のお宅はゆっくりお話するのだけれど、息子さんをなくされたKさんの家で、他にどなたもおいでではなくて、Kさんのお話をじっくりお聞きする。
 人の相談を受けるときもそうなのだけれど、冷たく突き放すようでないと、本当に相手を救えない。一緒に溺れてしまうということになるからである。
 そのKさんのお話をお聞きしていて、まずいと思ったのだが、その人生談に涙が出てきてしまった。もともと田舎芝居でもすぐ泣いてしまうほうで、やばいな、と思ったが遅かった。
 自分のことはかわらない。親族のこともわからない。ひいき目で見てしまうからだ。同じように、檀家さんというのも、距離を置く部分も必要なのだけれど、本心から檀家さんの相談を受けられるのかどうか、少し心配になってきたのも事実である。

 雨と太陽が交互にくる。場所によっては、天気雨。気温は高くないが、湿気が高い。

 酉の刻。艮へ。自分にもきつい。しかし名誉のため。何度でも。

2006年8月15日(火)

 今日のご法事で墓参りに行って驚いた。今回の個人が先祖様の墓を建てているのだが、その一番上座に自分が入ってしまっている。しかも戒名まで入って。没年は書かれておらず、先祖様よりも、上にして入れてしまったのか、と思って親族の方に聞いた。
 何ということはない。先祖様に立派な方がおいでになって、その人の名前を貰った人が今回の故人であったということだった。
 一時は、これは大変なことだ、と思ったが、無事に何事の問題もなく法事を終えることができた。


 友人の親族の法事であったので、その友人のご家族を紹介いただく。家族を知ることによって、その個人をより深く知るということは間違いなくある。結局その家族の影響下で生活してきたということなのだから、その雰囲気がにじみ出る。
 友人といっても同級生なのだが、これが結構大人の振る舞いをしているように見えた。ということは、同級生である自分もそれ相当の大人の行動をしているように見られているのか、と考えるのは早計か。


 昨日の法話で、人がなくなったときに聞いた足音の話をした。すごく関心をもって質問してきてくれる人もいた。あまり触れないようにしている人ももちろんいた。内容より「住職さん、話のスピードが早い」と言われたのがこたえた。同じようなことは、何度言われてきたことであろう。

 政治のことはわからないが、小泉首相が今朝靖国神社を参拝した折に、小雨が降っていたそうだ。この意味を何と見るか。

2006年8月14日(月)

 ほぼ一日、お盆の棚経のお参りができる。南側の途中まで。
 自転車で一軒一軒回っている移動の途中で、道路の自分のわきを通る車が、こんなに離れて追い越していく。道服を着ているので、明らかに後からでも坊さんであるとわかるのだろう。しかしそんなの坊さんというのは敬遠される存在なのか。自分だって、普通の人間だよ、とこの時期毎年思う。

 最初のうちは、いろいろなお宅の様子がわかるのだが、途中から疲れてくると、そういった感覚が鈍くなる。
 しかし途中、あるお宅、Sさん宅に参ったときに、その家のご先祖ではなくて、自分の家の先祖が喜んでいる様子が浮かんできた。なぜなのか、その意味が自分にはよくわからない。

 今までは余裕がなかったが、檀家回りをさせていただいて、いろいろな勉強ができた。そして、小野寺地区の家の多くは、同じような作りをしているというのを改めて知った。

 先ず家の中に廊下がある。それによって南北の部屋が分断されている。大体三部屋づつが多い。そして北の部屋の中央の南側に、壁と接するように東向きに仏壇が置かれている。あるいは巽の部屋に仏壇がある。このスタイルの家が7割以上を占めている。このシンクロに改めて驚愕する。
 そして最大の問題は艮だ。ここに流しがある。これは小野寺の将来に関る問題であるので、このことだけは何らかの方法で多くの方々に話をしておかなくてはいけないと思う。
 これは家癖といっていい。このようなことは、言ったとしてどこまでわかってもらえるだろうか。冗談ではなく、自分の家の永続に関る問題であるのに。

2006年8月13日(日)

 朝神社へお参り。昨夜より心を開放したせいか、じっくりお聞きいただく。ありがたさ。

 午後2時過ぎに、消防車の音が近くで聞こえる。高速道路かな、いや近いな、と思っていたら、大慈寺の駐車場に車が集ってきた。人が集っていて、近くの人に話しを聞くと、どうも山ですべった方が出たようだ。レスキューの人とともに、あわてて裏山へ道服のまま登っていく。すると、東屋の少し下あたりで女性が座っており、動けない様子だ。この女性は、午前中にお寺に来られて、自分が山の道筋をご説明した方だ。あとで聞くと、ご主人とさいたま市より来られた方であるということだった。
 救助にあたっての、佐野消防の方々の、てきぱきとした動きに感動する。全部で9人が山に登る。あとの方は消防車の場所に待機。担架の両脇を3人ずつ支え、上でロープを一人支え、先導者と責任者とがいた。そして、状況判断や指示、山の下の隊員との連絡など極めて的確であるように思えた。
 とりあえず救急病院に運ばれて一安心する。

 15日に法事が入ってしまったため、今日の夕方から棚経に行く。檀家さんも、いつも別な日なのに意外なこととて、あたふたされていた。恐縮だけれど、こればかりは仕方ない。
 最後のY地区の一番最後の土地で見たのだが、東の空の雲が、異様な形をしていた。

2006年8月12日(土)

 お盆を前にして、世間では既に、諸々の霊供養の準備に入っている。これは比喩表現ではない。

 いろいろな地区の先生方と話をする機会あり。いろいろな町村を回ると、その地区地区で特色が随分と違うそうだ。例えば、隣の藤岡町の町民の気質というのは、他人を批判をしないかわりに、ほめもしないという、無関心そのものだそうだ。子供にしても突出して悪い子もいないしいい子もいない、という話をきいた。何故か自分には非常に感心してしまうことあり。そうすると、自分はその気質が珍しかったのか・・。

 感謝すべきである。それはわかる。しかしその上で動かされることもある。自分は謙虚におり、環境が何者かの求めるようになり、しかも自我を出してはいけないという、これまた難しい立場に自然と置かれることもある。
 ただし人生の敗残者になってはいけない。それが目に見える形をもった人間としての尊厳であり、仮に言いたいことがたくさんあったとしても、力強く生きるべきである。要はやってみることだ。だめならば訂正すればいい。何を恐れ、何を躊躇する必要があろうか。足りなければ何度でもすればいい。結果が出るまで継続すべきだ。それをしないで人様に何を教えるというのか。行け、力強く。結果が出るまで。
 ぼーっとした時間があったとき、そんなことを考えていた。

 人より高いのは神、人の欲望に近いのは先祖。物実。お返し。今度は墓。方角。

 今日も見かけたことのある賽銭ドロボーが、午前中9時半頃、堂々と本堂前に立って中をのぞいていた。ゆっくりとした駆け足で近づいたら、逃げるように行かれてしまった。
 「さんせんドロボーの君へ 二度程さいせんを取っている姿と顔を見ています。現場を見なくても今度見かけたら通報します。まだ若いのだから仕事しなさい」と紙に書いて、賽銭箱の側に貼り付けた。賽銭くらいならまだしも、家の中にでも入ってくるようだと大変だ。それに、徹底的に追いかけていかないのは、隣の保育所にでも逃げ込まれたら大変だからである。

2006年8月11日(金)

 昨日、今日とTさんの夢を見る。昨日は滝を浴びに行って、後からエネルギーを入れてもらっている夢。今日は、何かの行の帰り、そのTさんが不機嫌になったり、機嫌が直ったりしている夢。その先は見えず。ただ機嫌が直っていたのだけはわかったが・・。

 その今日の夢の、夢解きのようなことが今日あった。烏が知らんぷりしていたのも気になった。
 術に完全に頼ってはならず、気持ちを飛ばすことも大切であるということを悟った。しかし下手をすると、魂が裸である分、先日のように後遺症も出るが。
 無意識のうちに、大平山神社へ参拝。変化の気をいただき、再挑戦。月令と日とを選んで、この日しかない、という日でだめなら仕方ない。しかし今日なら、何があっても大きなフォローができる。

 結局考えがころころ変わる人というのは、誰かとの別れを生じやすい。また年下に慕われても、年上には疎まれ易いという傾向にある。悪口というのではないのだけれど。
 今日で別に大勢が変わったわけではないけれど、いやむしろそういったことがあったからこそ、根本の箇所が明確になって、それを示せたともいえる。言葉でいうか文字でいうかの違いはあっても、言ってしまって楽になるという場合があり、今日がその日だったと言える。大きなフォローができた。

 後ろが満足しているからいいのか。他人の心と後とを実感として区別する必要がある。この微妙な差。この両方の感覚を混同するとよくない。(後が相手の気を察知してくるということもあるが。)・・そうか、墓か。

 夜、雷光がきらめく。真夜中を過ぎて、雲の合間を17日目の月が顔を出す。
 朔太郎。懺悔。月に燃える。お一二、お一二。

2006年8月9日(水)

 三日ぶりに研修より実家に帰る。行き帰りに気持ちあり。
 野尻湖のそば、黒姫山に昨日リフトで登る。下の方なのでこわくはないが、山の上は激しい場所なのであろうと想像される。妙高山も見える。もちろん外国にも同様箇所はあろうが、日本の誇る山の一つ。童話館。
 夜、皆で外に出ていると、誰かが、今日は満月かと空を見る。
 花火を手に持つ。火をつけ勢いよく炎が飛び出でると、色とりどりの火花に、魂までもが焼かれるようだ。手を振って闇に遠慮なく弧を描く。ザーという音と、白い煙とがその火の後を追う。夏の短夜に見る花火の神秘。

 昨日は立秋であった。八月に入れば気が変わるのは間違いないが、やはり節入りからは目に見えて変化がある。

2006年8月5日(土)

 非常に暑い日であった。
 家の因縁がこのように出るものかと、特にその家で、星のぶつかった人に出るというのを見た。気抜けの家。

 酉の刻に二度目のお参り。乾より。

 夜、どこかの花火の音がする。足利でもあるそうだが、毎年聞こえないので、そうすると、古河の花火か。山のない、藤岡上空を通って聞こえてくる音か。

 今年の夏は、せみのせわしい音を聞く前に、もう虫の声が聞こえる。猛暑の予測がはずれた、ということになるか。

 夜11時20分頃、境内の井戸近くの空間に、植木越しに、懐中電灯より明るい、音のない光が二つ見える。9・9・9の時間。なるほど、二つであり、裏の隠れ、見えないもの。9・9の時間に事故が多い、という理由の一端を見た気がする。

2006年8月4日(金)

 七面山にいってきて、自分がいかに災いを背負っていたのか、というのを実感している。
 私たち僧侶というのは、どうしても人様の災いを背負いやすい。それを解消するために、荒行をしたり、切りをかけたりするわけだけれど、参拝だけでその功徳をいただけるというのは、これは大変貴重な霊地である。
 ご祈願を主体にしている僧侶だけではなくて、葬儀など、法事を主体にしている方々も、おそらくは同じようにいろいろと背負っているのだと思う。ご本人が気がついていないというだけで。
 だから自分の今の、というか、おそらく生涯の課題は「空」であろうと思う。それしかない。

2006年8月3日(木)

 夕方、ある法をしたあとで、烏が東で四度なく。四は震、東は雷。震為雷。そして酉刻によって九四を得る。とすると地雷復にいく。はたしてそうなるやいなや。康節のひそみにならう。

 夜、上弦の月が西の空に沈むと、空が広がる。白鳥が天の川にどっぷりつかっている。さすがにデネブが一番輝いている。そのわきで三角形を作っているのは、言うまでもない、牽牛と織姫だ。白鳥にはアルビレオもある。そういえば、デネブもアルビレオも牽牛も備えている人を、今更ながらに、暦をめくるように思い起こす。この空の特定の空間に主星の大部分備わっている人だ。
 そして自分は織女だ。昔の北極星。ヴェガを正妻の星としたのが正しいのかどうかは知らないが、西川満先生は、野尻抱影以上に星への興味をかきたてた一人だとして間違いない。今でも、あの方の風貌と、動作と、そして心より人を励ますお言葉とを、忘れない。

2006年8月2日(水)

 祖父の命日。ご供養する。
 お水をかけると、意外な程鎮まるのに、驚愕する。お水の力がすばらしい。

 予定していたことが、不思議にずれて誕生日になることあり。誠意のみ。

2006年8月1日(火)

 これをすればこうなる、という方程式は信仰の世界ではありえない。何故ならば、背中に背負っているものが相違するからである。
 だけれど、ご利益話があって、それを信仰の励みにするということはあると思う。そこに欲があったとしても、方便として不必要ではないと思われる。
 ただし、宗教の宣伝にあるおかげ話というのはどうかとは思う。なぜならば、おかげ話は、実際にそれが本当に起こったのかどうかわからない。それに、その人が本当に救われたのか、目先だけ、一瞬だけよくなってあとはだめではないのかという疑いがある。さらにその人の孫の代まで幸せなのか。そこまで追求しないと本当のご利益ではないと思うからである。


 先に空がある。そしてその上にご利益がある。そういった信仰が本物なのかもしれない。今回の旅の感懐に浸りながら、そのようなことを思っている。

 疲れが一日遅れで出てくる。年齢のせいか。

2006年7月31日(月)

 眠りにくい布団のせいで、ほとんど眠ることができない。海苔巻きのような共同の布団から首を出すだけの形。寝返りを打つと、すきま風が入って隣の人の迷惑になるので、動けない。いびきは聞こえるし、トイレに行く音もする。寝たような、寝ないような時間が過ぎ、午前4時ちょうどに係の人が出てきて全員起こされる。

 洗顔などをしたあとで、ご来光を拝みに出るが、残念ながら雲で見えない。
 そのあと朝の勤行。これが4時45分より。それから朝食。終わっても6時前。
 場所を引き払って奥の院に行く。先祖供養の申し込み。ここでもご開帳を受ける。門から見れば神仏の神の方。敬慎院とはお顔が違う。妙符を求める。

 ここに影コウ岩というのがある。ここに七面大明神がお現れになったという場所である。日御碕から大洗までの線上にある大切な場所である。7回岩を回って、祈りを込める。
 二の池でごあいさつ。そして下山する。
 行きとは違って帰りは楽であろう、という考えは甘かった。くだり坂で、しかも足場が悪いので、最大の注意をしないと倒れそうである。もう少し飛ばせそうな感じもあったが、ゆっくり下りる。そのためか、8時40分頃下り始めたのに、午後1時過ぎくらいまでかかる。4時間半。

 細かい感覚についてはいえないがともかく、身についた災いを落としにいくという点では、ここはすばらしい霊場であるということを実感した。また登ることになるであろう。

2006年7月30日(日)

 生まれて初めて七面山に登る。数名の知人と一緒。朝の4時半に自宅を出る。下部温泉よりタクシー。お万の滝で足を洗い、11時に出発する。足の悪い方などがおられるので、ゆっくりしたペースで登る。新しい登山靴も足になじんでいるようだ。
 急斜面の山であるが、そこにジグザグの道ができている。道の途中には「○○丁」という標識が出ているのが一つの励みだ。その標識は灯篭でできており、その前に小銭か米を置いて施餓鬼供養をしながら登っていく。
 気持ちは進むが、体はいつになっても進まない。途中でベンチがあると、休んでしまうこともある。同行の方を励ましつつ、今何分の一だ、残りはいくつだ、とか話しながらいく。
 途中で三箇所休む場所がある。それぞれ坊の名がある。特に最初の休み場の酢醤油のところてんはよかった。
 ゆっくりなので余裕があった自分だが、最後の方には自分にも余裕がなくなり、無言になって、意識もぼーっとしてきて、ひたすら歩く。そして結局到着したのが午後の4時半。休みを入れても、何と5時間半も歩いていたことになる。速い人は1時半には着いていたというのに。

 大急ぎで入浴し、5時から夕食。全くの精進料理であり、生ものは持ち込みで食べることも厳禁されている。しかしお神酒はいただけた。ここで大阪D院のK師を紹介いただく。今回の先達役をしていただいている。
 午後の6時にご本尊のご開帳。初めて直接拝す。口元に笑みをたたえるご尊顔。女神様。読経をして、焼香。
 6時半より、夜のお勤め。ここで各種のご祈願と先祖供養をする。神仏との出会い。
 次に、ここで参拝者たちは、日蓮宗の五段の加持(?)を受ける。大変に気持ちのいいものである。これだけでも、身についた災いが落ちるような気持ちがする。


 お題目をひたすら唱える。200回ほど。なかなか気持ちのいいものだ。手が自由に動く。

 消灯9時までの間、K師とゆっくりお話ができる。今後のお付き合いをお願いする。

2006年7月29日(土)

 久々に真夏の気候に戻ったような日であった。暑いけれど、心穏やかな日を過ごす。

 夜、花火の音がどこからかする。音に誘われて行ってみると、三鴨山の東の方に明かりが見える。更に近づくと、地平線ぎりぎりに花火が打ち上げられているのが見られる。あの辺だと藤岡町の赤麻か、あるいは藤岡か。音が随分と遠くまで聞こえるのに感心する。
 一瞬、赤い大きな花火が上がる。心に感じることあり。

 さて、明日は早起き、お山だ。

2006年7月28日(金)

 そろそろいい時期であろう、という行動が意外にもスムーズに完了する。気が抜けてしまうほどであった。四日間も悩むことはなかった。ただ裏が強すぎて、表が少しこっけいになってしまった。
 自分が前もって案ずるほどのことではない、簡単なことというのがあるのかもしれない。ただ自分の興味と、相手様の思いとが、ほんの少し、衣服の生地の厚みほどずれているようにも感じられるが。
 恥じらいの文化というのは、社会全体で作るものなのか、個人の感性なのか。どちらにしても、共通基盤が意外にも磐石であったのに驚く。
 願いの完了のお知らせをもらう。明日物実。


 友人が私のことを評して、思いが多い分だけ、言葉が足りない人、という。自分でもそう思う。話しているよりも、文章を書いている方が楽だし、自分の思いを的確に表現できる。

 30と31日、生まれて初めて七面山に行く。不安と期待。

2006年7月27日(木)

 なき師のリアルな夢を見る。師のかわりに神棚のお祀りをしなさい、と言われる。生前教えてもらっていた通りにやる。しかしどうもうまくいかない。自分の実力のせいだ、と思っていると、Tさんがこの事象は結局だめになるので、祀りがうまくいかなたっかのは、それを暗示していたのだ、とフォローしてくれた。

 伊東の木下杢太郎記念館に行く。才能を目の当たりにする。知性と感性のバランスに思いをいたす。
 しかし夫婦の名を見ると、よかったのか悪かったのか(本当に不明という意味で)。自分の現実をも見せ付けられる。

 箱根の山を越えると、本当に、栃木あたりまで気持ちが行かない。今日はどうしてもひっからなかった。しかし電車が東京に近づくと、日常に戻る。

 一昨日の夜に気がついたのだが、よくわからないのだけれど、人間の魂とは、生きている人のものでも、何というか、丸くて燃えているようなもの、なのか。

 夜半、小雨が降り始める。名も知らない鳥がきーと一声なく。三日ぶりの栃木。今日は夜が明るい。

2006年7月24日(月)

 うちの烏はよく教えてくれる。
 今日は動こうと、朝の寝床の中から思っていると、朝から自分に知らせるように遠くでなく。「うちのご主人が隣の・・」とか何とか話してでもいるのだろうか。また別口がきてすぐそばでカアカア鳴く。烏の言葉がわからないのをもどかしいのか、最後は人間の言葉のような語を発して鳴いていた。しかも二回も。
自分には「だめだ」といっているように聞こえたのだが・・。しかし祝福の言葉と思って行動に移す。

 果たして烏の指示とおりなのか、今日は妨げがあって、話が進まなかった。今日が悪い日だったからだめだったのか(月が弱い)、はたまたこの行動自体が悪いことなのか、それは次回の行動のときに明確になるであろう。
 ただ心の機軸だけは今まで通り、不動のもの、確実なものとしておきたい。

 昼間、ぼんやりと本堂の中で、電気もつけず何もせず座っていた。そうすると、足早にお参りの人が来る。本堂の前の資料を取って、その次は手でも合わせるのかと思っていると、賽銭の箱を持ち上げ、斜めにして、中に何物も入っていないのを確認すると、また足早に去っていった。
 唖然として、今のはいわゆる賽銭泥棒ではないか、とふと気がついて、裏口からくつを履いて追いかけていったが、もう姿も形もなかった。
 最近よく賽銭が盗まれている。誰の仕業か知らなかったが、今日その本人の顔を家の中から正面から見た。相手は自分の顔が見られたことには気がつかなかったようだ。その特徴は、同じ岩舟町の岩船山に出没するという賽銭泥棒の風貌と似ていた。

2006年7月23日(日)

 夜になって降り出した雨が夜半にやんだ。
 湿気のあるむっとする空気をあびて外に出ると、白い蒸気のような熱気が木々を取り巻いているのが見える。手前の木の更に向こうの木々までも、厚く蒸気で煙っている。薄明かりに、音もなく蒸気が移動していくのが見える。木が常緑樹だけに、寒冷地帯が突然熱帯に変わったのではないかという錯覚を覚える。地球の破滅が来たのかとさえ思う。
 相変わらずぽたぽたと雨だれの音が聞こえる。夜なのに、汗を拭いてもまた汗がにじみ出る。

 一昨日こられた方に、自分は坊さんの中でもアウトサイダーだ、と言ってしまった。気取るつもりは全くない。そのまま、事実なのだから。
 住職日記だというと、毎日こうした、ああした、と書くのが普通であろうと期待して読まれる方がおられるかもしれない。しかしこのメモは、大方のご期待を裏切っているだろう。本心を書こうと思えば、これ以外のスタイルでは書けないのだ。
 人から非難されず、穏便なことを書いておけばいいという人は読んでいただかなくてもいい。見えない世界の話はお寺の人がすべきではない、という考えの方も同様である。しかし人を、本質的によくしてあげようとしたならば、あるいは神仏の力を借りようと思ったならば、きれいごとや、建前や、つまらぬお説教などは、全く無用のものなのである。だからこそ自分は、醜い自分までも、そのままここに表現するのだ。それ以外のスタンスは自分は持ち合わせていない。

 今日は大暑。気が確実に変わった。心よりほっとする。涙も止まる。表0、裏2。じわりといく、いかせる。

2006年7月22日(土)

 昨日より、どこかの心がはじけてしまっている。涙とともに。裏表から直進あるのみ。

 このところ、七面山の話が多い。七面山は、参拝に参ろうと心に決めたときから、何者かが動き始めるようだ。今日もその一例を目の当たりにする。

2006年7月21日(金)

 お隣の村檜神社で、屋根の改修をしており、見学会があるので見に行く。いつも参拝させていただいている社の屋根、緊張する。緻密で丁寧な職人の指先。
 夕方は隣の保育所で納涼祭。
 しかし、あることを考えると、なんで自然と涙が出るのだろう。こんなことついぞなかったのに。そういう時期や年齢なのだろうか。そりゃ現実は現実なのだけれど。名前の因縁か。蛍のように、命。

2006年7月18日(火)

 全身からエネルギーを長く出していると、頭の先から足の先まで包むことができる、というのを見た。あたかもその気に気がついているように。イメージが現実と重なり合う。
 準備してくれているので、目から入り込んで、思うままにに歩く。息をかけても喜びの気。


 人様のためと思って話しているときは、自分が話しているのではない気がする。そして話のあとでも、その気がしばらく残る。どなたか知る気になればわかりそうな感じもするが、結局はわからないような感じもする。ということはわからないということか。

2006年7月17日(月)

 一日中雨が降る。気温が低く体が休まる。
 昨日の世話人さんのご奉仕のあと、すぐに除草剤を撒こうと思ったが、今日はできなかった。つわぶきの植え替えもできなかった。

 御朱印帖の最初のページに書かせていただく。しかも二冊。
 本当は笹の葉で書くのが本当だというが、まだ自分にその技はない。その文字がお寺を表現してしまうので、なかなか重要なものだ。

2006年7月15日(土)

 暑い日々が続く。日本の湿気は確かに体にはよくないように思える。

 15日には、氏神様での参拝で、心にひびくことがある。実質的に暦が変わるのが、節入りと中入りだけれど、そのずれに不思議を感じる。

2006年7月14日(金)

 二日にわたる甲府、秩父研修が終わる。
 武田信玄の墓所に参拝。感ずるものがありそうであり、礼を尽くして去る。家にも人の顔にも相があるように、寺にも相がある。理屈は結構。教えも結構。しかし事実が先にあり。
 秩父神社。初めての参拝。感動。ただ順番の違う不敬をさりげなくたしなめられる。

 無骨だが懸命にする。昨日も今日も定刻になると、知らせるものあり。
 
 夜、東の山に異変あり。注視すると異変の割合が増えていく。何のことはない、月が出てきている。夕立に洗われた、しかし蒸し暑い世界が、月の出現によって明瞭になる。白い月は、見ている前から姿を現して、最後はスポイトで吸い取られるように山を離れる。闇夜世界は刻々、月夜のステージに変化し、お寺の庭全体を異様な興奮へ押し上げていく。人を驚かすことに徹っしていた魔物は、途中から宗旨変えをする。カシオペアは月の出現によって力を失い、大人のような分別顔で、腕組みをしながら留まる。
 今から一体、何のショーが始まるのやら。

 S先生よりの大切な情報。白山の頂上30分手前に、千人も入る大きな小屋がある。そこに泊まって午前3時に起床して山頂まで行き、ご来光を拝むのだそうだ。そしてその小屋には神主さんが常駐していて、ご来光のときに、何やら祝詞をあげてくださるらしい。
 一度は行かねばらならいお山であろう。

2006年7月12日(水)

 ハードな一日を終える。しかし皆さんがやる気があるので気持ちがいい。そうすると、こちらも何とかしよう、頑張ろうという気持ちが出てくるものだ。

 雨が降ったり、天気になったり。一時は、熱中症が出るかと思われる程の熱気を帯びる。
 栃木の田舎も同様であったときく。

 世俗と勝義とは言うけれど、世俗を離れたことをいかに言ったとしても、この世間では意味がない。時間の平穏に過ぎることを願う。心静かに時を待つ。もちろん、勝義は精一杯使ってのことだが。

2006年7月10日(月)

 久々にI先生にご挨拶にいく。東京も蒸し暑い。

 有力な場所に立っている看板の値段を聞いて驚く。自分の背丈にあったものを備えるというのがいい。しかしながら、様々な工夫は必要だ。場所からして目立つものが必要となろう。どのようなアイデアにするかは、多くの方のご意見を聞こう。

 今の学生は文学に興味を持たない人が多いのだという。では自分の気持ち、考え、思想をどのようにして彼らは表現するのだろう。例えばだが、恋愛感情をどのようにして表現するのか。自分の中で心を整理して、芸術まで高めるという、その過程はなくなってしまったのだろうか。

 雲が出ている。蒸し暑い夜、窓によりかかる。片手にコップで八海山を持つ。どこからか虫が複数鳴きだしている。そして自分は想像するのだ。この夜の雲の上には満月に近い月が出ていると。心と想いというのものは、この月のようなものであると。

2006年7月7日(金)

 七夕ゆえ、ではないであろうが、針の先ほどの出会いがあった。

 車の運転は運転手の人柄を表す。呼吸がわかる、というのだろうか。安全運転。それを味わう楽しみ。最後は心のごあいさつ。

2006年7月6日(木)

 10時ころ、心に柔らかい響き。エネルギーの大きい人というのはいる。
 明日は、七夕か。牽牛と織女との出会い。一年に一度というのは伝説であって、もし本当に相性がよければ、本当はいつでも会えるのである。

 夢の世界が現実ならば、ぜひ天の川を渡ってみたい。いや渡れるはずだ。

2006年7月4日(火)

 今日始めて知ったのだが、動物の供養は、北から南に向かってするようだ。昔の動物の墓がそう建っていた。この小野寺の土地の中にも、急所という場所がいくつかある。

 予算があるとなかなか思うようにいかないこともある。大慈寺でも一肌脱ぐ場合が出るくるか。必要のないものはお渡しし、利用していただく。

 褐色色の粘った液体ような思い。

2006年7月3日(月)

 インターネットが情報獲得の主流になってきていることに疑いはないが、まだまだ広告という点では看板に劣る、と感じられる。そして、ある程度知らしめる、ということも必要だと思われる。

 人様のお顔を見て、あれこれと思うことあり。因果が顔に現れる。しかし山手樹一郎の「十六文からす堂」ほどの腕にはまだまだである。もちろんあれは作り物であるけれど。
 水野南北が人相を極めたとき、食事によって人間の運勢を変えようとされた。それは、宗教家さえ言明しなかった、ものすごい教えなのかもしれない。さらにまた、それは可能なのかもしれないが、現代社会に生きる我々に、もっとストレートに因縁率を変える方法はないのか。

2006年6月30日(金)

 神社では夏越の大祓い。今年も半分が過ぎる。
 
 数年前、今の三千院の小堀御門主様より「大般若理趣分」の伝法をいただいている。今回の旅行でこのことを改めて思い出して、今日よりいつまでとは決めずに読誦し始める。しかし、その読誦後の、この圧倒的な手ごたえは何なにか。小堀御門主様はその伝法のとき、内容は申されずに「自分はこれで、苦しいときを救ってもらった」という話されていた。それと、今回お聞きした三千院の経営建て直しの話とがダブってしまう。
 確かに真言宗の寺院というのは、本来は他宗の者が言及すべきことではなかろうが、何か一つの方向性のようなものを感じる。それが真言宗の中のどの流派であろうとも。もしかしてそれは、「理趣経」(天台でいう理趣分)の読誦をしているからではないのか。答えはすぐに出せないが、大きなヒントをいただいたように思う。
 「般若心経」は般若経のエッセンスとしてすばらしいお経だが、プロたる僧侶は、般若経それ自体を重んじるべき、か。確かに、西安の大興善寺での法要のときに界明住職様より、日本側は「理趣経」をお唱えしないか、と言われたことがあった。

 「理趣分」(真言宗でいう理趣経)にあたってみたいと思う。これが、今日、自分の改めて得た財産。

2006年6月29日(木)
比叡山参拝

 妙法院の菅原御門跡様とお目にかかる。まだまだお若い。
 案内人さんの説明。弁財天のお堂というのは、白蛇が出入りできる穴を必ず作るのだそうだ。

 帰り、片道バスで約8時間。年配の方が元気なのに驚く。
 木曽の御嶽山を始めてバスから拝む。伊吹山、妙義山、すべて素晴らしい。
 
 落日の太陽を、群馬県の神々しい山々の向こうに拝む。三日月が、動く景色や雲の合間を遊び飛ぶ。

 とりあえず、今回の旅に参加いただいたすべての方に感謝。

2006年6月28日(水)
比叡山参拝

 根本中堂の内陣に始めて入れていただき法要に参加する。神力品をあげる。ここは完全なる別空間であった。法要と同時に護摩がたかれていた。
 このお堂は、人の祈りを要求する。祈りがなくては耐えられない程の暗さであり、無音であり、土の冷たさがあった。
 根本中堂のご本尊は薬師如来であるが、本来薬師如来は東方の浄瑠璃世界においでになるという。なのに、根本中堂では、西方においでになって、東を向くようになっている。これだと阿弥陀如来と同じ向きとなる。この件を先輩僧侶にお聞きしたが、わからない、ということだった。


 円仁様の御廟にあと一歩で行けず。

 三千院では小堀御門主様からお話をいただく。年齢を全く感じさせない巧妙なるお説法。自分が最初ここに来たときに、三千院の財政を立て直す必要があったが、「道心の中に衣食あり」の「道心」をもち、しかも祈った結果、自然と立て直すことができた、というお話が特に心にひびいた。しかし自分にとっての「道心」であってよいのだろう。
 また、いつ拝見しても、こちら様にある阿弥陀如来は素晴らしい。

 青蓮院の東伏見御門跡様にお話をいただく。
 御修法の御本尊の一つ、熾盛光如来をお祀りするお堂が変わっている。南から北に不動明王を拝み、それと背中合わせに北から南に熾盛光如来を拝むような形になっている。しかも巽と乾に使われていない井戸が掘られている。どうも理解できない。この井戸が急所ではないのか。「富春」という額もあり。

2006年6月27日(火)
比叡山参拝

 横川の中堂のあと、元三大師堂に参拝。山門を入って参道を歩いていく。確かに多くの人がいたし、砂利道ではあったのだけれど、どこからか小石が飛んできて自分の左の袖に当たっておちた。最初はそれを、虫かと思ってとっさに手ではらいのけた。その直後、すぐ後を歩いている人たちが、あはは、と笑った。
 唖然としたが、その前後の状況を考えてみる。小石が飛ぶほど速く歩いている人は前にはいないし、後ろの人が前から石を当てるということもできるわけがない。それがソフトボールを下手から投げるくらいの勢いで飛んできたのだ。だから一瞬作務衣の袖に張り付いたくらいの感覚があった。後ろの人の笑いも、てっきり自分が石をはらった様子がおかしくて笑ったのだと思ったが、あとから考えてもそれはおかしい。自分に一体何が起こったのか、パニックのようになってしまってわからなかった。


 参拝後、人がみな出ていくのを待っているとき、前後が無風の全くの快晴の中で、嵐かと思うほどの風が一陣吹きすぎた。

 できれば元三大師様を大慈寺に勧請しお祀りさせていただきたい。少なくとも、何かのときには、特に人助けのときには、必ず元三大師様が手をお貸しいただけるという実感を得る。
 しかし何とまあ、手荒い大師様であること。

2006年6月26日(月)

 呼吸が合うというのは大切なことだ。どんな呼吸でも受け入れると、そこに気の交流が始まる。そうすれば、短い時間にも気の増幅がある。夜この文章を書いているときに、ありありと実感する。
 人形の名前というのは難しい。

 
 明日より比叡山の団体参拝に行く。檀家さんたちと同行する。他の寺院の方々とバス5台。朝4時頃家を出て、厄除け大師様の駐車場に集合、それから約半日の長旅となる。
 外面的なことも大切であるが、今回は、最澄様の御霊に触れに行くことになるであろう。祖師の許可のない事業というのはありえないであろうし、宗教の価値というものが、昔の人の言葉というのではなく、実感として、今目の前の何事かなくては意味のないものとなってしまうからである。

2006年6月22日(木)

 人にはきっかけが必要だ。そのきっかけを得るのに、大変な時間を費やす場合さえある。しかしそのきっかけを掴めば何の困難もない。そんなことはままあることだ。
 そのきっかけが与えられるような祈りの場を提供することが、宗教の責務である。
 というような意見だけも、立派な宗教論かもしれない・・。

 しかしそのきっかけの先までも提供しようというのが、新しいタイプの宗教ではないか、と思う。新しくて、そして一番古い宗教の復活。新しい道を得るきっかけを得て、さらにその新しい道までも提供し、指導することが必要だと思う。
 もちろん、きっかけを得ることも、そのきっかけ自体を提供することも、これまた大変なことなのだけれど。

 山手樹一郎の「十六文からす堂」シリーズを読む。作りもののの世界とはいえ、あれはあれで立派な宗教だ。わくわくしながら読む。

2006年6月20日(火)

 今はなき師は、「人助けは危険な仕事」といっておられた。本当にそうだったのであろうと思う。このものすごい開運法を残していただいた師をありがたく思う。何十万分の一でも。

2006年6月19日(月)

 人間一人で生きているのではない、と感じるのは喜びである。

2006年6月18日(日)

 先住の兄と同級生という87歳の方に聞いたお話。
 昭和10年頃には、大慈寺でご詠歌や念仏踊りの大会をやっていた。葛生や田沼から集って、一日中やっていた。自分は小学生だったが、学校を休んで聞いた。今の本堂の前あたりに仮のやぐらを作って舞台にし、聴衆は50人くらいいた。そのご詠歌は、今のご詠歌よりも味わい深いものであり、丸みのあるものであり、みな大変歌がうまかった。その旋律を覚えている人がいたら、なくなってしまう前に教えてもらっておいた方がいいだろう。その行事は五年も続いたようだが、あるときからぷつりとなくなった。ということだった。

 大変に貴重な情報をいただいたSさんに感謝。

 書いておかないと伝えられなくなってしまうということはある。

 大慈寺の奥の院のふもとに、二基の歴代住職の墓があった。元禄時代の、大慈寺を発展させた方のもののようだった。その墓石がそこにあることを自分は疑問視していた。いずれは山の下の歴代住職の墓と一緒にしなくてはいけないだろう、と考えていた。なぜならば、奥の院というのは、見るからに昔のイワサカであり、仏教の聖地になった以降も、それにふさわしいお守りの仕方が必要だと思われたからである。
 しかしながら、現にあるものを動かすというのは、しかも墓石を動かすというのは、相当の覚悟がいるものだ。気にはかかりながら、時間だけが過ぎていった。
 そしてその移転のことに気がついてから、一年もたったころだったろうか、ある日突然、その二基の歴代住職の墓石とも、その場で崩されて、ばらばらになっていたのである。これは何かの見間違いではないだろうか、と目をしばたいた。しかし間違いなく、道路をふさぐように、墓石がくずれ落ちている。およそ200年以上も何の問題もなく立ってきた墓石が、今日この日に倒れているのだ。しかも当山の住職が、下に移転させようと心に決めて、そう間もないうちに。一体これは何のサインなのだろうか、何度も自問せざるを得なかった。
 そもそも誰がこの墓石を崩したのだろうか。それがわからない。人気のない山の上だが、その墓石だけをくずすというのは、いかにもクレイジーだ。もしいたずらする気なら、観音堂でも、石碑でも何でもある、それなのに、なぜその墓石なのか。では何のために、その墓石を崩す必要があったというのか。それが一番の問題だ。まあ、その原因はともかく、どのような場所にであれ、それを早急に立て直す必要があるのは間違いない。
 すぐに石屋さんに来てもらった。しかし自分にはまだためらいがあった。元の場所に戻すのもいいのではないか。いややはり山の下に下ろすべきである。さてどうしたらいいものか。そして話をするときには、自分は不思議な勇気を持った。すいません、これを山の下まで下ろしてください。自分はそのことを腹に決め石屋さんに言明した。
 そして、大変な思いをして、石屋さんがその墓石を山の下まで下ろしていただき、さらに判明できない字の墓石のものを除いては明治以降しか残っていない歴代住職の墓の、一番の上座にご安置申し上げたのだった。それがわかる犯意での、歴史的な順序であるだろうから。
 しかしことをし終えても、自分が本当に正しいことをしたのかどうなのか、まだ心に迷いがあった。何事かあれば、すぐに墓石を元の場所にお返しするくらいの気持ちは常にもっていた。何とか気が落ち着くように願ったし、あるいは何か気の変化はないか、細心の注意をもって観察していた。
 その後しばらくして、何とか落ち着いてきただろうかと感じ始めたころ、奥の院のその場所に行ったときのことである。奥の院のその岩の箇所から、何とも暖かい気が漂い出ているのである。唖然とした。岩から温かみが流れてくるなどという経験は今までに一度もない。そのとき自分は、ああこれでよかったのだ、と確信を得ることができた。加えていうなら、その岩からの暖かさを感じたのは、このときの一度だけではなかったのだ。またこの体感を通じて「何様か」が、今回の件をお喜びになられたことを実感したのである。

2006年6月15日(木)

 ストレートに話しあえるというのが一番である。それがたとえ目だけであったとしても。清水の舞台ならば当然か。正直に聞かれたので、正直に答える。
 人は様々な因縁を持つ。その解消には時間がかかるのが常だ。それもまた人にとっては必要なことである。水面に浮かぶ花びらを、どこから飛んできたのか、どの花からなのか吟味することもなく、ただ手にすくって愛おしむ。

 梅雨になって、久しぶりに雨が降る。自分の重ねてきた年齢を考え、当たり前であった梅雨という現象が、日本の四季の不思議と重ね合わせると、これまた味わいのある現象となる。

2006年6月14日(水)

 栃木県立博物館の方々がこられて、写真を撮っていかれる。
 そこで面白い話。
 大慈寺にある、慈覚大師のもってきたという手香炉は世良田の長楽寺さんにも同じような伝説とともにあるという。また奇妙なる柄の部分のマークも同じだということだった。

 また、立石寺さんにある御首像が国の文化財の指定を受け、5月いっぱい公開されていたということだった。拝めなくて残念。
 また、中国の赤山法華院は、すごい建物が4つも5つもあり、そのうちの一つが慈覚大師円仁様の旅行の様子だということだった。日本にはあんなのはないし、中国人観光客でごった返していた、ということだった。是非一度どうぞと言われた。
 大慈寺の慈覚大師円仁堂にある仏像の調査も、今度していただけるという約束もいただく。ありがたい。

2006年6月12日(月)

 大慈寺には、相輪塔というのがある。伝教大師最澄様の建てられたものだ。自分が自分の子供の頃、その相輪塔のまわりを、「息を止めたまま片足で7回半回ると馬の顔が見える」という噂があった。そして何度かやってみたことがあった。
 何故そのような伝説のような、言い伝えが子供たちの間で残ってきたのか、それについては全く考えることがなかった。最近はその話を知る子供も少なく、伝承がなくなるとが寂しいな、という思いくらいしか持たないでいた。
 今日Mさんという方が見えた。その方とお話をして、いろいろ思う所があった。確かに大慈寺の裏山には龍神伝説がある。その龍神の信仰を残すために、こういった言い伝えが作られ、残されてきたのかもしれない。

 富士山に金龍の写真をご奉納いただく。圧巻。

2006年6月8日(木)

 自分には誰が教えてくれているのだろう。父のような気もするし、自分自身のカンのような気もするし。しかし状況自体も、ドンぴしゃりのタイミングであるから、もっと大きな力なのかもしれない。

 中也は、若くして死んだにもかかわらず、残した詩は大人のそれだ。それを今更に実感する。ほのもえあざやぐ。

2006年6月6日(火)

 夜中に、今までずっと作業をしていたテープ起こしが終わる。何年かかったことだろう。
 今は亡き師の肉声をもう聞くことはない。あまりにも多くのことを学び、まだ学ばねばならないこともあまりにも多いのだけれど、それを運用し、活用していくのは、こちらの技量である。一つの高みを教えていただたのであって、そのレベルを維持するように心がける必要がある、ということだろう。
 今さら言うまでもなく、弟子たちのことを、よく考え、包み込み、愛情をもって接していただいた方であった。自分にとっても命の恩人であるとして疑わない。

 さて今度は、整理とまとめだ。

2006年6月5日(月)

 昼間、ふと雉が井戸の側にいた。その存在に驚いたこちらの気配に一瞬ちらも驚いていたが、またゆっくり庭を歩きだした。何ともまあのどかな田舎であること、と自分でも思う。
 夕刻、草の生え具合や、境内の様子を見ていて気がつかなかったが、ふと上を向くと、月がふくらみ始め、東少し高い上空にかかっている。


 午後、比叡山のアジャリ様を尊敬し、よくしていただいた、という方がお見えになられ、慈覚大師円仁修行の寺というので、参拝されていく。自分は、天台のそのアジャリ様に救われた、という思いを持たれている方のようであった。

 ある程度の年齢になると、その人間のあり方がどんなものなのかを知るのに、心の触れ合いが非常に価値あるものと思えてくる。そんなの当たり前だといわれても、それが理解できるのに随分とまあ時間がかかったものだ。
 自分の心をまっすぐに述べるというのは勇気がいる。それをなし終えた充実感にひたっている。心を裸で外に出していることに。

2006年6月2日(金)

 人間は星に支配される。それは間違いない。しかし計算をして、これはという日を仮に出したとしても、それは人智の範囲であって、どこかに漏れが出る。
 そういった意味で、誕生日というのは万人にわかる大切な日である。たとえ星の配列が悪くても、この日を使うというのがいいようだ。そしてその思いは、必ずや通じるものと信じる。小町の人形。
 かつてこんなことをした、と未来において思い出している自分を、今この時点で思い出している。時間の感覚がおかしい。一体どうなるのだろう?

2006年6月1日(木)

 氏神様へのお参り。神仏は一体か、別体か。具体的には大慈寺の本堂に、神はいらっしゃるのか。などの思いを持って一日であり、辛酉日の神社へお参りする。やはり神は神、という思い。仏の方がどれだけ取り込めるか、か。思いや祈りは同じなのだけれど。

 朝から墓の話。確かにそうだけど、確かにそうだけど、と思いつつ何かが違うような・・、大丈夫か。何であれ心の問題であろうし、そのことを排除して形だけではどうにもならない。心に権威は通用しない。ご存知だろうけれど。

 予定を狂わせようという、具体的な力をもった動きを感じる。それが吉なのか凶なのか。自分の行動がこれほど支配されることがあるのか、とあきれるほど。最後は「やっている」ではなく「やらされている」で落ち着くか。

2006年5月31日(水)

 太陽は東から出て西に沈む。だから日本の地方によって、太陽のある場所が異なっている。だが、同じような場所にある地区では、大体同じような気が支配する。そしてその中で、個人が世間とどのようにかかわるか。その断面を輪切りにして知る神秘の方法もある。
 そしてこれも素晴らしい発見、というか経験則だと思うのだが、一刻を二時間としたことだ。この二時間で世の中がじわりと大きく動く。
 だから、災いが起こるような場合にも、二時間前には必ず前知らせがある、という。気の問題。二時間の神秘。天機。

 五月の末から六月の初頭は、なぜか毎年、世の中があわただしい。悪い意味あいではない。大事な日々が続く。

2006年5月30日(火)

 自分にとっての、一週間の懺悔が今日終わる。ある意味で神仏との契約でもあるし、人が一歩でも幸せになるのを妨げるモノが動くこともあるだろうし、本当に人を幸せにすることができるのなら、いつでも僧侶の座を捨てるくらいの気持ちがないと、本当の意味での開運法の指導ができないのかとも思う。
 
 それにしても思う。宗教的なものを少しかじった人というのは、他人の説を平気で切り貼りして、社会が受け入れるであろうような方法で売り出し、学者のように、自分より先にこういう話を述べた人がいたということなどには「全く」触れない。そういった、厚顔無恥な、いわゆるマスコミと大衆にだけ好かれる人がいる。その反面、学者バカの先生たちは、大衆受けをするように書くと、これまたは世間感覚からずれた本になって失笑を買う。編集者が先生、先生というと、自分の立場を忘れて踊り踊らされる人たちのことである。
 ではその両者に片寄らない立場は、それらよりより好まれるのか。

 お客さんが今日、お金の工面ができなくて、相談に来ました。返済期日は迫るも、あてにした口はうまくいかないとう。この人に対してどのように指導やアドヴァイスをするのか。
 こういった相談に正しい答えを与え、しかも「実際に」解決した立場の方を、「正しい立場」とするのがいいのではないか。このような問題は、精神論ではなく、実際に宗教には「力」があるということを忘れ、無視し、頭からコバカにしている人は、決して解決はできないであろうと思う。その限りにおいて、宗教を口にし、大義名分にするという点で、両者とも醜い。

2006年5月29日(月)

 地元のケーブルテレビで大慈寺の子安地蔵のことが放映されている。それで何人かの人に、話かけられる。子安地蔵は子供の安全を願うお地蔵様だ。
 とすると、仏教は自力なのか他力なのか。この根本問題ぶちあたってしまう。要は神仏に救っていただくのか、それとも自分で自分を救うのか。

2006年5月28日(日)

 雨が激しく降っていたが、夕刻からは次第に晴れ間が出てきた。
 川の水かさが増して、流れる水音が聞こえる。その上、蛙が鳴く。キーキー、キーコーと何やら虫が鳴く。

 この日常の何の変哲もない、しかし美しい音を表現するのに、古代より日本では和歌という手段が用いられていた。5757・・のリズム感が、日本人には肌にあうのだろう。
 私たちは、文章を読むときに句読点が来るまで、息をとめる。そのリズムをうまくつかった文章とういのをいつかは書いてみたいものだと思う。

 言霊や音について思いを巡らす。神の言葉についてのあれこれを思い起こす。

2006年5月26日(金)

 夕刻、同じ天台宗のM師が、比叡山のことにも詳しい、若い僧侶を二名連れておいでになる。そのときのお話。

 比叡山でも、信者さんの相談を受けられている方がおいでになる。ある場合には相手が納得するまでお話をお聞きになる。必要があれば、宿曜経などによって方位なども見ていただける。
 また、霊の問題で悩まれている方がいると、元三大師堂にご祈願の依頼が来る。それで解決しないような場合は、別の僧侶や、場合によっては民間の人の所に行ってもらうこともある。
 さらに、時々元三大師堂に入って仕事をすることがあるが、外陣と内陣とでは雰囲気が全然違う。内陣はゾクゾクと寒気がするような感じにもなる。誰か何かがおいでになるという感じがする。
 また極めつけは御廟(みみょう)である。ここは人が入っている間は天候が荒れて、出ると元に戻るというように、気象が変わったりすることがある。ということであった。

 どれ一つをとっても興味深いお話。お話をしていただいたM師とその連れの方々に感謝。

2006年5月24日(水)

 人の気は夜に充満する。寝ている間に体力と気力の回復があるし、気に包まれることもある。気持ちよさ続く。

2006年5月23日(火)

 明け方、師のリアルな夢を見る。師の手品のような技を見せていただき感心したし、また自分に関する教えも受けたし、さらに人生上での戒めもいただく。もちろん反論はない。ただ人間としての思いが残るのみ。
 
 早朝、大慈寺に参拝されていた方からの話。裏山で、奥の院から上に、真榊とかいう榊が群生しているという。生命力もあり、葉肉も厚い。それが何平方メートルもあるのだという。もちろんこちらで植えたのではなく、自然に増えたもの。やはり諏訪ヶ岳は神の山という徴か。そして山の上まで観音経をあげに行ってきます、と言われて登っていかれた。

 人間心で、十分に悦びを満喫する。妨げは無視に限る。ある種の気に慣れてくると、簡単に長くその気を保持することができるようになる。布団に入ると実感する。名前の影響というのは間違いなくある。名は体を表す。不離なる人間関係を表す。

 夜になって、師の夢の意味を明確に理解する。恥、この上なし。

2006年5月20日(土)

 先日手に入った本について話をしていたら、それを必要な方が出てきて、たまたま持っていたコピーをお渡しするようになった。このように、出るもの、入るもの、すべて必要なときに必ず縁ができる。

 川面凡児系の方と縁ができる。燃える法輪。
 死者は怖くないけれど、生きている人間が怖い、とよくいわれる。今日もその実例を聞いて、いやはや、人間の心というのは、外に見えない部分で種々あるものだと今更ながらに思う。その気持ちに、行動に、自分で恥ずかしくないのか、と。

 子安地蔵を尋ねて、おそらく第一号の参拝者の女性が来られる。柔らかい石仏ゆえか、祈りがすーっと入る。
 Tさんの一言。「HPでも何でも、初めてから反響が定着するまで1年かかりますよ。」と。ふーむ。

2006年5月19日(金)

 雨ではないとお話できないこともあるし、お渡しできないものもあるのか、とつくずく思う。スカラベが人に止まる。

 確かに、今なぜ多くの人々が、スピリチュアルなものを求めているのか。そういった問題については、既成宗教は扱うことを避けようとしているのは間違いない。そういった霊の部分を扱う問題が、宗教の本質である悟りとか、解脱ということとは全く違うという意見もある。それは確かにそうだと思う。ただその高みに至る過程で、そういった人間の霊性の部分を無視して人は救えないし、救われないと確信している。
 「そういった霊とか因縁とかの話を新興宗教だと教えてくれるので、そちらに行くのですよ」という話には耳が痛い。「自分は騙されているかもしれないとは思っても、既成宗教では教えてくれない面を新興宗教や占い師は教えてくれる。だからそちらに行かざるを得ないのですよ」と言われて、絶句してしまう。次の句が出ない。
 既成宗教が、明確にそれらの問題に対して、世間に発言をしていくということは必要なことかもしれない。

2006年5月18日(木)

 鎌倉方面へ出張で行き、さて、帰りはどのようなルートで帰ろうか、次の仕事までにはちょうど時間が中途半端。では古本屋に寄ろう。ではどこの店にしようか、と思いつつ、電車の中は座れる条件がないとしんどいな、とも思いつつ、結局最近通っているお店に行く。手持ちの金も少ないし、前に不愉快な思いをした店でもあるので、買わずに帰ってもいいと思い立ち寄った。
 あれ、と思う。今では絶対に手に入らない本かと思われる本がケースに入っている。ケースの外から上下を確かめ、大きさを確かめ、その本であると確信する。
 まあその人の価値観にもよるが、知っている人なら出すであろう価格の30分の一位の値段で手に入れる。もちろん、次出たときに備えて、お店の人にはそんな情報は一切知らせない。
 この本は、最初は師からいただいたものであり、今度は二冊目だが、今回初めて自分で買った。
 そういったいきさつを考えると、この本は、次にご縁のある人に渡るか、大慈寺の儀式のときに使われるか、それはわからないけれど、何かすごく大切な、特別な因縁を感じざるを得ない。お引き合わせのようなものを感じる

 宗教者が公認の 黒い本。

2006年5月16日(火)

 今日は隣の藤岡町の小学校四校、中学校二校にお邪魔し、NPO法人おいふぁの活動を理解していただく。昔の知り合いの先生あり、父や伯母と同僚であった先生あり、様々な人との新たな出会いをいただく。
 今回はじめて藤岡の全地区を回ったのだが、その広さと、平坦な地形と、川の優雅さと、土地の肥沃なのに驚く。本当にのんびりとした、穏やかな土地柄であると感じられた。一時期は、岩舟町と合併の話もあった町なのに、これほどまで雰囲気が違うものかと驚いた。


 子安地蔵を本堂に安置申し上げる。人々の願いを受けていただくようにお願い申し上げる。
 お寺のことについては、さて次はこれをやり、その次はこれ、とある程度の予定を立ててことを進めるのだが、今回の子安地蔵については、自分の意思ではなく何者かに動かされているとしか思えない。偶然に偶然が重なるし、あるべき場所に、すべての仏像が落ち着いていく不思議がある。そしてそれにどのような意味があるかは、今の自分には知るすべがないのだが。

2006年5月15日(月)

 人にはいろいろ話していても、いざ自分のことになるとわからないものだ。
 自然は気がつかないことを教えてくれるし、大慈寺の烏君も何かと教えてくれる。その指示をそのままに受け取らないと、無駄足、残念でした、ということになる。
今日はそれになってしまった。

 烏は霊物だという。確かに他の鳥とは違う。今年年頭に見た烏の大群あたりから、大慈寺に沢山住み着いているようだ。何を悪さするでもない。(まあしたとしても、墓地にあがった団子をくすねるくらいか。)こちら人間側から、烏側に危害を加えないとわかっているので、庭のすぐ側まできて雨水を飲んでいる。だからといって追い払おうとは全然思わない。
 一度ならず側でよくよく見たが、あごの下の肉までついて黒々として、嘴も太く大きい。古事記の時代から烏は何かを示してくれる霊鳥として扱われており、他の烏は知らないが、大慈寺のは何事かを教えてくれる烏の部類に入るようだ。
 だけど一体、烏が教えてくれるとはどういうことなのか・・。クレイジーな話になりそうで恐縮だけれど、自分は鳴き声を聞いて烏が教えてくれていることを判断している。他の人には別の判断方法があるかもしれないが。こういうことは、信じられない方に無理に信じてもらおうなどとは全然思っていない。自分が活用すればそれでいいまでのこと。

 仕切りなおし。

2006年5月14日(日)

 昨日Tさんと御話ししていて、メモすべきこと。
 国宝であれ、最新のものであれ、仏像は盗まれて3年経過してしまうと、もう所有権を元の所有者は主張することはできないということ。だから、仮に仏像を盗んだ人がいて、3年寝かしておくと、その仏像はその人のものになってしまうということだ。
 大変に恐ろしいことである。だから最大限の注意が必要だ。

2006年5月10日(水)

 他界されている師が生き返ったという夢をまた見る。それで、自分の仕事はどんなものか、とおずおずと質問する。すると何も答えられず、少し苦渋の顔をされたように思えた。師に対する恥ずかしさを、目が覚めた後も痛切に思う。

 人間は一人で生きているのではない。何者かに動かされることもあるし、何者かが示してくれることもあり、あまりの偶然に唖然とすることあり。心の中の声。

 夜から雨が降り始め、月も見えない。蛙が闇夜にコケケケと鳴く。

2006年5月8日(月)

 連休が明ける。普通の生活の中にも、勘が戻ってきている。いや、日常生活の中にこそ、勘は必要だ。それにうれしいこともあり。

 観光協会長のMさんが、熱心に大慈寺の子安地蔵を世に出そうとされている。その思いに感謝。
 考えてみれば、自分はどれだけ多くの方のお世話になっているのだろう。そう考えると、いつでも謙虚でい続けなくてはいけない、という思いを新たにする。

 現在の寺院の状況などを聞く機会あり。宗教というのは、紙一重であるというのを改めて感じる。宗教が宗教の範囲内である限り問題のないことも、「欲」が少しでも「宗教」より多くなると、評価は一変する。
 本当に人を救うということに、自分が誠実であり続けることの難しさを思う。

2006年5月5日(金)

 お釈迦様の花祭り。
 普通は4月8日に釈尊誕生会をやるけれど、大慈寺では、つつじのきれいな連休の5月5日を花祭りの日として行事を行っている。
 そうしたら今年は、旧暦の4月8日だったと。今年はつつじが遅かったので、ちょうど見ごろのつつじの時候となった。しかも岩舟ガールスカウト団や、地元小野寺の南北小学校のハイキングも重なって、例年にない賑わいとなった。
 夜は、上弦の月が明るい。

2006年5月1日(月)

 この世のことでない話を、したり聞いたりすると異常に疲れる。二時間のお話のあと、一時間ほど何もできず、体が動かず、崩れるように横になる。そしてそのときに、いろいろ見る。そのあとで家人に、額に逆にしたおわんのような模様がある、といわれる。

 何者かが、動こうとしている。それが人を使って行動を起こそうとしている。その途中でわかったのは、龍は獅子のように激しく吼えるのだということ。女性なのに。
 大慈寺の裏山は、法華経守護の龍神をお祀りする山だけれど、四十年も前に火事になったことがある。龍は水というけれど、火ということもあるのかと思っていたが、どうなのだろうと改めて思う。何の因縁か。
 話の途中で地震が起こる。
 体が動きだす感じ。気の量感。両側からうろこ。
夏日だったというのに、鳥肌の立ちっぱなし。
 本堂の三メートルくらい上空に光。お題目の勧め。

2006年4月30日(日)

 ある場所で日蓮宗の僧侶とお会いする機会を得た。特に、荒行で知られる寺院の住職さんだった。そこで、その祈祷の神秘の一端を伺う。そして同じ人様のため、世のために祈るという共通項で話がはずむ。その流れで、自分の持っておられるもの(秘伝)を、惜しみなく出していただく。その態度に、同じ仏教の僧侶として尊敬の念を抱く。また感謝の念にも耐えない。一期一会の、その瞬間の煌きがあった。

2006年4月28日(金)

 上野に天台宗の展覧会を見に行く。それぞれに感動はあるものの、やはり信長の影響を感じざるを得ない。あの事件さえなければ、どれだけの宝物があったろう、と残念でならない。
 今回新しい発見だったのは、円珍様が、自分の姿を像として残すように遺言したということ。法力ある僧侶は、死んだあとでも現世に影響を与えられるというお言葉ではないかと感じた。あと良源様も。
 また横川の仏像の祀り方で、観世音の両脇仕が、毘沙門、不動はいいのだが、現在の大慈寺の祀り方とは逆であるということにも気がついた。どちらがいいということは、わからないのだけれど。
 あと運慶作の仏像が、松本明慶さんの仏像に似ていたのに驚いた。いや時代的には、当たり前、逆なのだけれど、改めて松本大仏師を見直すきっかけとなったかもしれない。
 円仁様関連では『入唐求法巡礼行記』の虫食いが激しいのにも驚いた。黒石寺様の円仁像の本物にも驚いた。

 毘沙門、薬師、毘沙門、観音(横川)、阿弥陀(常行堂)、黄不動、・・・か。先入観もある。

2006年4月27日(木)

 教えるということが、どれほど自分の勉強になるのか、改めて知る。それが自分の実践と勉強の原点でもある。だからこそ厳しい。

 姫小松が咲き始める。連休が楽しみとなる。連休明けも楽しみ。

2006年4月25日(火)

 無縁供養塔の墓洗いをする。これが陰徳になるのだという。これで二回目だが、確かに陰徳になったような気がする。それは参加者の「何となくすがすがしい」という感想によっても知られる。しかし、人助けをしたときの陰徳の感覚と何となく違う。うまく言葉では表現できない。小雨が降っていた最初の天気が、途中から快晴に変わった。
 寝る前にどこから陰徳が来ているのかと思って目をつぶると、何となく浮かぶ。このように、この墓洗いというのは、言われているように、五名以上(今回は七名)の参加者があったからこそ可能であったのであって、個人でした場合には、難しい面が出るかもしれない。

 NPO法人おいふぁの理事ということで、近隣市町村の教育委員会にあいさつにいく。それぞれ特徴があって面白い。こちらかの要望をすんなりと受け入れてくれる自治体、こちらの身元まで言い当ててしまう自治体、公務員然としたマニュアルだけで対応する自治体、こちらの身分がわかった途端に態度が変わる自治体、いろいろあった。いい悪いは別として、各地区の行政の窓口の特徴がわかって面白かった。別にそれによって、こちらの対応を変えるわけではないし、上司に報告するつもりはさらさらないが。

2006年4月22日(土)

 HPの手直しをしようと思って、写真やら資料やらをそろえる。今まで不足していた部分がよく見えてくる。

 朝早く、村檜神社にお参りしようと思っていくと、隣接する保育所の入口で何やら二、三人の人がいる。何とその人たちは山野草をこっそり持っていこうとしていたのだ。初老の女性二人に男性一人。人の姿を見てそそくさと帰って行く。とちぎナンバー。花を美しいと思う人の心は、その人の心が美しくなくてはならない。だから、あの人には、花の美しさなど、これっぽっちもわからないであろう。花を見て花を見ず。
 
また一つ、栃木人を嫌いになる。
 
 夜になって、ごそごそと動く。やはり夜は怖い。でもやらなくてはならない時というのもある。そうであっても夜なのに、名を知らない鳥がすぐそばで鳴く。携帯が正しいことを知らせる。

2006年4月20日(木)

 朝方、西耕地の観音堂改築のための地鎮祭に行く。もともと寺院があった場所で、見るからに土地が、祝詞ではなくてお経を要求している。そしてうそのような話だが、最初は烏が鳴いていたのに、終わる頃にはホトトギスが鳴いた。途中では、どこからともなく桜の花びらが一ひら、肩から流れ、お経本の上に落ちた。そして、確かに天候は危ない状態だったのだが、儀式が終わるやざーっと雨が降り出してきた。
 こんなこともあるものだ。

 そうそう、烏といえば、おととい、火曜日の夜の11時に、烏が鳴いたのを聞いた。これも珍しいことだ。
 そういえば、今日も栃木県南部を震源地とするという地震があった。その時の自分の感覚では、艮の方向から揺れが来たような感じがした。どうも栃木市が気にかかる。合併でもして市全体の地形が変わればいいのだが・・。このままでは何か気にかかる。

2006年4月18日(火)

 心を一つの方向に力を入れてむけると、思考が止まる。真心が通じる。黄色い花咲く。

2006年4月17日(月)

 知人から、珍しい狛犬というのを紹介していただく。確かに、メスと思われる狛犬に、男性の性器のようなものが見えている。別の要素などを加味して考えるに、おそらく製作者が間違ったのではないかと思われる。世の中に同じ狛犬というのは絶対にない。いろいろなバリエーションがあるものだ。

 用があって昼間、久々に都バスに乗る。そしてお年寄りの多さに驚く。乗っている人もお年寄りだし、乗ってくる人もお年寄り、降りる客もお年寄りばかりだ。栃木の田舎でも実感はしていたが、確実に高齢化社会になってきているのは間違いない。

 その用というのは、円仁大仏を中国へ送るときにお世話になった、日中文化事業社のK社長を訪れての情報交換である。久々のこととて、話がすすむ。現状は言わずもがな、一年前を思い出すとともに、次のことも考える。
 そして驚くべき気功師のことを聞く。その人の情報をもっと知りたいとお願いする。
 中国に学ぶこと多し。

2006年4月15日(土)

 数日前「浪花清作品集」を持ってきていただく。言うまでもなく、浪花清さんとは、大慈寺にルシャナ仏を始め五体の仏像を奉納され、また多くの仏像を各寺院に奉納されている91歳の仏師さんである。その方の作品集ができたといって、息子さんが大慈寺までもってきていただいた。
 ご本人がおっしゃるように、仏師を生業とされている方ではなく、お仕事の木材業が高じて仏像の彫刻も始められたのである。しかし作品を見てもわかるように、腕はプロ並だ。その仏師さんを宇都宮のSさんがご紹介くださり、大慈寺との縁ができたのは、三年ほど前のことであった。仏師さんは、しゃきっと背筋を伸ばし、木目を見る目は透き通っている。夜中でも作成中の仏像があると、トイレの帰りに木と対峙し、ノミを振るわれる。しかも未だに現役、現職だ。
 一体一体仏像を彫られるというのは、自分の命を一体一体に吹き込むということだろう。多くの分身を作られた方に頭が下がる。しかも家族の集合写真には、徳があふれ出ている。

 鐘つき堂のそばの賽銭箱の中をあけると、中に桜の花びらがちらばっており、きらきら輝く。

2006年4月14日(金)

 昨日より、講義が始まる。新しい年度、若い人々があふれる。
 久々に哲学的な刺激を受ける。何であれ、人は他人の、特にどの分野であれ卓越した才能のある人のそばにいると、その影響を受けるものだ。それでこそ、人間が社会生活を行う意義があるというもの。
 しかしどこにいても、故郷が思い起こされてならない。

2006年4月12日(水)

 動いてはいけない日というのもある。頭でわかるのだけど、どうもいけない。しかし通過しただろうか。あせるな、あせるな。

 雨降りの後、月がぼんやりと出る。何かしらか舞台照明のようで、春の月にしては遅い朧の感じである。
 今年は花冷えがする。そのかわり桜が長く枝についている。小野寺ではまだ満開を保ったままだ。
 裏山では梅・桃・桜の咲きそろいで、三春を楽しんでいる。

2006年4月10日(月)

 下水の影響というのは完全にある。それをどのように清めるか。今までは塩水と酒でやっていたが、O先生に教えられて、へちまの水でやってみることにする。
 不思議に、必要なときに、必要なものを送ってくださる。

2006年4月9日(日)

 昨日、精神世界で尊敬申し上げるO先生とお目にかかる。深いお話。

 このようなことを言うと、誤解を受けてしまうかもしれないが、神仏を慕う気持ちというは恋愛感情に似ていないだろうか。同じように精神が喜びを感じるものなのだから。しかし後味の方はどうも両者では違うようだ。心の問題で微妙で、よくわからない部分もある。

2006年4月4日(火)

 町長に町政の話を改まって聞く。関心することしきり。
 
 雨が降り出しそうな雲が、上弦の月にかかる。

 九つある星のうち、全くない場合は、本当に縁がない。一つの場合は祈りに近い。
 ああ、今日も桜が咲き、新しい人が訪れ、鳥が鳴いた。何もない春の日だけれど、自分にはうれしさ十倍。

2006年4月2日(日)

 午後九時前頃、、栃木県南部を震源地とした地震がある。栃木県南部とは、大慈寺のある地区と同じ。確かに地響きのようなものが先に来て、そのあとに、本当の地震が来た。自分の住んでいる土地の下が震えるというのは、何とも奇妙な体験だ。辛酉の日。

2006年4月1日(土)

 あれは何歳頃の歌だったのだろう。若さあふれた時代に聞いた歌がよみがえる。若さのある時代、自分も他の若者と同様に、迷い、さまよい、答えがない焦燥感にいらだちながら、議論をし、求め、大自然の中に、あるいは都会の雑踏裏の場末に、一方的に自分の考えを青臭くいきまいていたときに、聞いた歌だ。その歌の旋律が歌手の声色とともによみがえる。
 一人を救うというのは、自分にはそのときには縁がないものと思っていた。社会的な成功を求めて半分では人間的な努力をし、半分では見えない部分に、外に見せてはいけない部分に精力を傾けていた。社会的な成功を求める部分では遅れをとったかもしれないが、それは仕方ないものと思っている。そこそこの成功は得たし、社会的に成功した人が手にできない部分を、自分は間違いなく得ているという自負があるからだ。
 自分はそのとき、社会を動かす、という大きな仕事も興味あったし、また日本を強固なものにするという、男の夢のような話にも興味があった。
 そして、その両方とも実現している男が一人いたのだ。その男に、この歌は深く深く関係している。
 あのじりじりと焼け付くような気持ちは夢だったのだろうか?
今日、もう答えは得たと思い、あるいは答えは得られないものとあきらめ、呆けてはいないか。
 夏の砂浜に素足をのせ、そのときに吹いてくる波風。

2006年3月31日(金)

 年度最後の日。出たり入ったりの激しい日だった。なすべきことをなし、それはそれとして終わる。

 花冷えの日、風にもくれんの花びらが舞う。冗談のような話だが、三分くらいしか咲いていなかった桜が、風圧を受けるに従って、五分咲きにまでなる。強い風が、竹の子の皮をむく手のような働きをする。

 夜になるとふくろうが鳴く。本堂の裏山の方からだ。どこだろうと思って見に行くと、鳴きやんでしまう。もういい、家に入ろうとするとまた鳴く。だけどおおよその位置はわかった。この裏山のどこかにふくろうが隠れていて、人間世界をこっそり見ている。想像するだけで、わくわくしてくる。
 誰かが言っていただが、ゴーへー、ゴーへー、デレスケデーホー、と聞こえる。親のふくろうも、そのまた親のふくろうも同じように鳴いていたのだ。何ともまあ、不思議な遺伝であること。 

 シリウスもずいぶん光の力を弱めている。淡い光の星の季節到来に、冬の星々は、早々西の空へ引退しようとしている。北斗の柔らかな曲線は、舞台女優の指差す手のように、南東の方向を示している。あの空の下には一体誰が住んでいるのだろう。

 昨日の話の一部。今年は猛暑の予感。台風あり。

2006年3月29日(水)

 新しい方とお話を終え、好感触を得たあとで、さてもう一件をどのようにお断りしようかと思案していたら、半月ぶりなのに、今回の話を終えてから一時間もしないで、先方さんから断りの電話が入ってきた。お互いに悪い関係にならずに済んだ。自分にはお手配としか思えなかった。
 
 栃木ではつぼみさえないのに、東京の桜は満開だった。少し肌寒い空気に、湯島聖堂も、神田明神も鮮やかな彩りを添えられていた。

2006年3月28日(火)

 久々に遐方記の原稿を書く。宗教のことを言葉にするというのは、どうも自分には向かないようだ。異常に疲れる。

 昼間、山で何やらがさがさ音がしている。何だろうかと思うと、山鳩の番が山の斜面を、地面を嘴でつつきながら歩いているのだ。地中の食べ物でもあさっていたのだろうか。数分もしないうちに、斜面を登っていき見えなくなった。

 そういえば明日、エジプトかどこかで日食だ。そのときは地元で、何か宗教儀礼でもあるのだろうか。

2006年3月26日(日)

 今日は三月最後の日曜日、たくさんのことがあった。

 午前中は地元自治会の総会に出席。

 お昼前に知人のKさんとSさんが見える。それでSさんの出された本についてのお話を伺う。Kさんが自分のことを心配していただいているのがよくわかった。Sさんのお話は、ある意味で私たちの理解をいつもだが超えている。
 Kさんはメキシコに30年も住まれていた彫刻家で、いろいろなお話を伺った。向こうでは教会が一つの町にはたくさんあって、休日には皆そこに出向く、そして儀式のあとには、必ず神父さんにたくさんの人が日常生活の悩み相談をする、教会が民衆にとって大変身近である、というお話が特に印象に残った。宗教のあり方が日本とは全然違うということであった。

 その後、お二人とともに、「足洗い不動まつり」に参加する。これもまたとても心に沁みた。

 小野寺北小学校の側の細い道を入っていくと、沢のずっと奥に足洗いの滝というのがある。これはむかし、慈覚大師円仁が修行した場所としても知られているし、かの天海大僧正も言及している有名な霊場だ。足を洗ってから入ったので足洗いという地名が残り、細い岩場づたいに細い歩道があるが、その最後にある岩なので、滝の落ちている岩を詰石という。鳥の鳴き声と、――日照りの時期には残念ながら水量がないので落ちずに――流れる滝水の音しか聞こえない。噂には明治の頃、賭博を隠れてするのに都合がよかったという程の、本当に奥の奥地だ。実際に、車も途中までしか入れず、あとは自分の足に頼るのみ。

 その足洗いの滝にいく途中に砂防ダムができた。その近くの広場にテントを張り、岩舟町が主催となって、フィールド体験をしていただこうというイベントが行われた。本当に三方が山の静かな空間で、都会の人が見たら、よだれが出そうな自然あふれる体験空間だ。木工作あり、もちつきあり、山野草の販売あり、豚汁のふるまいあり、・・もりだくさんの内容。あまり知られたくないような秘境が、少しだけ世間に顔を出した、そんな感じである。荒らされてほしくはないが、逆に少しは知ってもらいたいという、複雑な感情を抱く。

 不動まつりでたくさんのふるまいを頂いたあと、三人で小野小町の身投げ渕に行く。そこで、実際にクライミングの指導されている方と出会う。平成9年に土に埋もれていた岩を露出して、本格登山をされる方のための、最終的な練習場となったこと。日本中のクライマーで藤坂ロックガーデンの名前を知らない者はいないということ。そして驚いたのだが、登山に挑戦する者の「生き残り率」は20パーセントであること、などをお聞きした。
 実際に目の前では、もちろん命綱はしているものの、20メートルもの上で、90度以上の角度にせりあがった岩を、じっくりゆっくり、そしてあっさりと越えていった名手は、何と63歳のクライマーであるということであり、唖然とした。
 岩舟町に、このような名所があるので観光のために紹介してはどうかと打診したものの、そっけなく断られたということもお聞きした。
彼の誇りをじかに感じたし、何か本質を間違ってはいないのか、大慈寺に対する扱いとともに、心に感じるものがあった。

 夕方近くなって、山中自治会のお地蔵さんの開眼を頼まれていたので、そそくさと着替えてでかける。
 山中自治会の共同墓地の入口にあるお地蔵様は、もう三代も前から首がない。それを現自治会長のYさんが皆と協議をして新しいものと交換するということになり、そこに招かれたのだった。その法要の様子や手ごたえについては省略するが、一つだけ驚いたのは、開眼法要の後、皆さんで線香をあげていただいているとき、お地蔵様の顔が、変わったことだった。それはお地蔵様が完全体にしてもらったことに対する感謝とも取れたし、自分に願いをかける者には、ご利益を出そうというお気持ちの表れであるようにも思えた。多数の方がお線香をあげれば上げるほど、そのお地蔵様の喜びの表情も増えていくようにも見えた。一人の僧侶の読経も大切だが、一般の方が多数参拝されることも、これもまた大切なことなのだと痛感する。


 はからずも、今日は小野寺にある三つの自治会の、総会出席者の方々と出会えた。そしてすべての方々が、この小野寺の地でしっかりと地に足をつけた生活を行い、基本的に一人の例外もなく、純朴な方々であるということを、改めて実感した。だからこそ、先祖の方々も含め、1300年も地元の神仏を守り続け、神仏のおわす土地に住んでこられたのではないだろうか、と僭越ではあるけれども感じた。保守という名前で呼べば呼べ、邪まな心を持つ者、和を乱そうというする者は小野寺の地には住めないのである。

2006年3月25日(土)

 多くの方が今日も参拝に見える。花を楽しまれる方がほとんどだ。中にはハイキングの方も何人かはいたが。

 平凡社から「比叡山」という大判の本が送られてくる。写真入りの本で、なかなか見ごたえのある本。天台宗の伝統の重みを今更ながらに感じる。平安時代には新興宗教であった天台宗が、1200年の時間を経て、完全に万人の認める宗教となっている。
 個人が開運をしようという場合、この伝統というのも、大きく影響するようだ。天台宗といえばみな、誰であれ、どんな姿の方であっても納得して認めてくれる。その年月は、人間が生きかわり、死にかわりするサイクルを、何倍も越えているからだ。その伝統をいかに時代に合わせて「利用」するか。これが今の、平成の僧侶の役目でもある、と信じる。

2006年3月24日(金)

 暖かい日。庭に出ると、白や赤の梅の香りが、目に見えるような空気に漂っている。鳥たちも木々を伝い、花の色を楽しんでいるかのようだ。片隅には、また夏場には悩まされるであろう雑草たちも芽を出し始めている。

 人との出会いの不思議を思う。
 人間に前世があるのかどうか、それはわからない。しかしこの人はかつて、自分の母親であったか親族であったか、とにかく肉親であったと感じる人に一度だけであったことがある。もう20年以上前のことだ。何がどうという説明などはない。ただそう感じる、としか説明のしようがなかった。しばらくしてから、結婚出産の手紙がきて、ご自分の息子さんに、私と同じような名前がつけてあるのを見て、改めて不思議な因縁への思いを深くした。
 今その人がどこにいるかはわからない。だけど、あの人だけは、会うたびに不思議な感覚を起こす人だった。

 そういう感覚ではないのだけれど、自分にとってこの人は重要だと「感じる」人もいる。何が重要なのかはわからないし説明もできない。しかし命に触れるような、大切にしたいという感覚が人間の中にはあるものだ。その感覚に対して、自分の能力と状況の範囲中で、目一杯のことをする。自分の心身を奉げる。それが今の自分の、いや人間としての使命だと信じる。

2006年3月18日(土)

 梅が七分咲きとなった。とすると、今年は卒業式に桜が満開というような事態にはなるまい。
 
 恩師の還暦のお祝い。伝統的な赤いちゃんちゃんこを召していただく。挨拶が定型的過ぎて、はまりすぎて笑われる。
 ウイーンからの友人を自宅に招待するも、先約があって次回ということになる。

2006年3月14日(火)

 夕方、御茶ノ水の聖橋の上をふらふらと歩く。北側には、東京医科歯科大の大きな建物が神田川と平行に建ち、更に大きな高い建物も建築している。東の方、川の両側にはビルの四角い形が並び、湯島聖堂を始めとする常緑樹の丸みのある森林とコントラストを作っている。
 思えばこの橋を、何度渡ったことだろう。聖という名のあるように、かつては湯島聖堂に俊英が集り、彼らが中心となって日本の基礎を築いた時代もあったろうし、その道路先右手奥にある神田明神を信仰し、お祭りに人生をかけた方々もいたに違いない。
 一昨年来、中国の驚異的な発展に羨望とも言えるようなまなざしを向けてきた。それに比べて、この懐古趣味的な東京、江戸の眺望に浸る自分に嫌悪さえ感じもするが、かといって、この日本を愛さずに一体どこを愛せというのか。

 自分には徳が足らない。徳をつみたい。もう少し自分に徳が乗らないと、自分の自由な人生にならない。それは言葉にならず実感できる。徳を両手でかき集めたい。
 本当に込み入った相談を受けると3時間はかかる。それは仕方ない。その間、それだけのものをこちらでは提供しなくてはいけない。朝の祈りで明らかにひっかかるので、心経を多くあげる。

 東京ガーデンパレスホテルで十五分だけ講演会。百名にも満たない聴衆のうち、あとの懇親会で十名ほどの人に声をかけられる。感謝。反応の多さに「東京」を実感する。

 謙虚というのは、平等であることを表面に押し出すのではない。差別ではなく区別して物事を見られること。何でもかんでも自分を貶めて話すのは平等ではない。自分が与えられている状況を区別して見られることが、本当の平等である。ということを涙が出るほど痛感する。
本当に涙が出るほど・・。

2006年3月10日(金)

 心に一つの方向性があって、何とかして実現したいものだと願う。普通では実現困難な問題であっても、何とかして叶えようと思い祈る。それが対人の問題になれば、益々本来は容易になるべきなのだ。だが、頑迷であるとか、どこか欲にからむとかの場合には、どうしてもどこかに無理が出る。
 しかしその無理も、天のお力を借りる場合に、その祈り込んだ量がかたまりとなって、ぐあーっと動くこともある。いわば、自分への信頼度を得られるかどうかという問題ともなる。
 二時間は頭が働かず、夕食後は精神の疲れで寝てしまった。
 お話するだけはお話して、受け取る受け取らないは別の問題であり、この話させるというのが、祈りの賜物であり、誤解を受け易い月、それの解消というだけでも有益であったと思われる。そもそも自分は言葉不足。長いつきあいというのが人間には大切であろう。肩から力の抜けた姿にご先祖が感動。外からはわからないかも。

2006年3月8日(水)

 暖かい日であった。仕事が終わって神保町で本屋に寄って、今日は暖かなので、地下鉄の神田駅まで行こうとふらふらと歩いた。日が延びてきたので、5時を過ぎても町並みをよく観察できた。
 浅草では、赤く欄干が塗り替えられた吾妻橋を渡り、隅田川の川面を見ていた。満々とした水はかすかな波を作って、これから来る春への下準備を密かにしているようだった。空が夕焼けから段々と暗くなるにつれ、明るい町のネオンが力を増してくる、丁度境目の時間帯であった。電車が橋を渡る音が遠くに聞こえた。

 夜の月も明るかった。この町並みや自然や微妙な季節の何でもない変化が大好きだ。

 三月に入ってから完全に自分の環境が違う。朝も偶然に会いたい人と出会えたし、自分に必要な情報が次々と手に入ってきている。

2006年3月7日(火)

 いつも数字を見るようにしている。電話がかかってくれば、誰からだろうと見る。受験番号が合格ボードにないか探す。でもその固定番号より、動いている番号の方が面白い。
 すれ違う車の番号、知人の住所の番地の数、乗った電車のキップの番号、相手と話した通話時間、話が出たときの時計が示す時間、何でもかんでも数字であり、いろいろな意味を「無言で」教えてくれている。
 昨日大阪の方からの電話、切ったときに通話時間を見る。不思議なメッセージをもらう。今までも自分にとって、重要なことがある数字だ。

 しかし、この喜びの気持ちは何なのだろう。人がいなければ、青空に向かって歌いだしたくなるような気分だ。何でだかはわからない。

2006年3月3日(金)

 今日、道路を走っていたらどうしても参拝したくなったという在家の方が見えられた。何のご用件かと思うと、ただ参拝だという。それで本堂にお通ししてお話してみると、いろいろご縁のある場所に行ってはお参りをしていただいている方らしい。
 あまり在家の方が、無縁さんとか、を参拝されない方がよろしいですよ、というお話をしたら、もう数年前に女房も死んだしなるようになれと思っている、というお話だった。
 その中、一つだけ興味を引いたのは、北海道に散骨専門の湖というのがあるそうで、そこに行ってろうそくをあげて線香をあげると、とても怖い思いをした。鳥肌が立つようだった。死んでいく本人は納得して散骨されたのだろうけれど、どんなものだろうか、というお話だった。
 大変に興味あるお話として今日のメモに書いておきたい。

2006年3月2日(木)

 岩舟町の岩舟地区に、たまたま夕方居合わせた。西に三鴨山があり、空は夕焼けに近い色を見せていた。その山の上には三日月が出ていた。なぜだろう、すごくうれしかった。これから月が満ちていくという、その芽生えのような感じ。それが薄い、淡い月が指し示している。めでたい徴、という感じだろうか。
 大慈寺のある小野寺に帰ってきても、まだ月が空に残り、ちょうど西に傾いて皿のような形になっていた。この嬉しさは何なのだろう。

2006年3月1日(水)

 雨が一日降り続く。

 今日お聞きしたお話。自然は厳しいのだという。人間が自然に対して手を加えようとすると、新しい災いが発生するのだという。そんなものだろう、と思う。
 自然の状態を保つというのは、木々とか、緑のある自然という意味だけではない。人間でもそうだという。人間の自然の状態というのは何なのか。その自然という状態を取れなくなると、新しい病気は発生するというのだ。
 何と自然の恐ろしいこと。こうなると、天の摂理というのかもしれない。これを人間が左右できるというのだろうか。

2006年2月21日(火)

 今日スタートだったといっていい。自分の心によってこんなにも変わるとはいえ、自分は何か大切なものを、忘れてしまうほど長い間忘れていた。
 それを今日思い出せた。そのきっかけは、人のために役立とうという気持ちだった。
 当たり前なのだけれど、自分が自分の原因だということを気がつくのに時間がかかる。機が熟するまで神仏はじっくりとお待ちになっているのだろう。

2006年2月19日(日)

 O先生より、かわいらしい雛人形が届く。細かい心配りに感謝。

 今、原稿らしきものを書いているが、自分の言いたいことというのは決まっていても、人様にわかるように書くというのは難しい。一体自分の言いたいことは多くの方の理解をいただけるのだろうか。

2006年2月18日(土)

 水の瞑想が気持ちがいい。ほんの毎日5分か10分だろうか。本当に心が洗われる。
 人間苦しいことを継続したくはないが、気持ちいことは続けようと思う。瞑想が気持ちいいものだという発想がない人には難しいが、実行して気持ちいいのだから仕方がない。
 水というのは不思議だ。老子の言葉を引くまでもなく、どこにでも入っていける。どこまでもつながっている。

 最近遐方記を更新していない。こちらのメモで言うことが足りていることが多いので、あちらは手薄になっている。しかしあちらしか見ておられない方もいて、最近変わってませんね、と言われた。

2006年2月14日(火)

 長く放置していた書き物がようやく完成する。自分の意図する所を正しく表現するというのは難しい。この文章を書くという作業にしても、一人でやっていると思ったら大間違いだ。書き物そのものの内容を他の人にチェックしてもらう、ということもあるし、何日が締め切りですよ、というので人様から要望、というか指示もある。しかし一番大切な気持ちというのは、読んでくれる人がいるという期待感であるし、また同じように書いている人がいるという見えない連帯感、ライバル心、刺激なのである。
 だけど、そもそも、あの原稿でOKが出るだろうか?

2006年2月13日(月)

 満月。境内を歩く足元を照らす。庭の高木が長い影を、白い敷石の上に伸ばす。世は確実に春の準備をしている。昼だけでなくこの月の光の中にも、それを穏やかな風とともに感じる。
 月下の門をたたくのは、闇夜の穏やかな風、木影の揺れ。

2006年2月11日(土)

 自分がまだまだ未熟であるのを証明してしまうのだが、複雑な思考をしていると宗教的な勘が働かない。感覚の世界で宗教活動をしていると、思考を組み立てて理路整然というわけにはいかない。このバランスが取れない。いつかこの矛盾は解消されるのだろうか。
 今自分は感覚の世界に比重を多く置いている。

 今日こられたSさんのお話によると、F総研でも、講演の場で精神世界、魂の話を積極的にするようになったということだ。そうしないと仕事にも日常生活にも効果が上がらないのだという。だから魂の話をするのに恥ずかしがる必要はない、とお話をされていた。
 そうであろうと思う。すべての基準は、人のためになるかどうか。救いになるかどうかなのだろう。

2006年2月10日(金)

 二月なのに月がきれいだ。あたりまえ、要は心一つか。
 
 今日、山に鶏が四羽日向ぼっこをしていた。あまりのことに驚いた。車があったから誰かが見ているのだろうけれど、あれは一体何を意味していたのだろうか。
 鳥といえば、今月の四日、お隣の村檜神社にお参りすると、山鳩が階段の一番上で地面の上こちらを向いて出迎えてくれていた。ありがとう、とあいさつをして脇を通り、お参りが終わって、もうどこかに飛んでいっているだろうと思ってみたら、まだじっとしていた。

 自分の心に感じるものあり。

2006年2月9日(木)

 人との出会いというのは不思議だ。同じような星の人との出会いがある。びっくりするほど似ている。
 その気にしたって、少しの時間と空間を共有すれば、気の交流が起き、そして力が動きだそうとする。大概の場合は喜び。
 心のでこぼこがおもしろい。まっさらならつるつるだ。でこぼこを摺り合わせて、呼吸を合わせて、相手を認めて、お互いのでこぼこを受け入れあう。掌を重ねるような喜びの気。

2006年2月8日(水)

 神仏に通じる祈り、かどうか。じりじりと動く。動かさなくてはいけない。
 世の中には、運のいい人、悪い人というのがいる。悪い人にはそれだけの厄なり、何なりが付いているという考えがある。とするとその厄を落とすように祈り、験があって、その人がよくなった。ではその厄自体はどこに行ってしまうのか。
 人の話を聞くというのはそれだけの心の準備が必要ということか。待ったなし。祈り。模索中。

2006年2月4日(土)

 立春。無事新年を迎える。一日で気が違う。

 最近、毎日夢を見るのが楽しい。そのときは記憶があるのだろうけれど、目覚めてしまうと忘れてしまうものだ。ところが単純作業をしているときなど、ふと、昨夜みた夢を思い出す。そうだった、そんな変なストーリーだった。いや楽しかった、などという感想とともに。だから夢の中では多くは楽しい夢を見ているのだろうと推測されるし、心の奥底でもそんな気がしている。だから早く夢を見たいものだ、と目覚めているときから思い続けている。

2006年2月3日(金)

 神仏の先にあるもの。それを自分は文字通りに、神仏を越えた世界と思っていた。
 そうではない。神仏の先といのは神=仏という悟りだという。そして自分には、当たり前だけど、特にそれが必要であるということ。自分のことというのは見えないものだ。感謝。
 そういう世界に入っていきたいと思う。

 節分の夜。人の誰もいない西の山に、三か月より少しふくれた月が煌々と木々を照らしていた。風が山間を強く吹く。宇宙がざわめく。

2006年2月1日(水)

 年の変わり目であり、気が引き締まる。今年は戌年か。どうにか少し目鼻がついてくるだろうか。
 今日もありありと思い出している。こんな風景、この時間に、このような感慨をもってこの部屋にいたということを。少し心を澄ませば、将来もわかるような気もしたし、嬉しい気持ちが持続しそうだったので、まあ悲観的な未来はないであろう、と思った。
 今日はほぼ一日雨。しかし12月から1月にかけてのクレイジイな寒さはない。

2006年1月30日(月)

 今日は春を思わせる暖かな日であった。人の笑顔もいつも以上にはなやいで見えた。嬉しいひと時もあった。

 何年ぶりであろうか。大宮の、ある神社へのお参りをした。なつかしく、道もよく覚えていたし、駆け足で、ただひたすらに走っていた時代を思い出した。
 土地から気を全身に受ける。この充実した体感。全身からオーラが光りほとばしりそうな感覚。
 生きることに疲れた人は、是非気があふれる場所を自ら探し、訪れていただきたいと切に願う。

2006年1月26日(木)

 過日この「日記風メモ」に梵鐘のことを書いたからだろうか。その後、泥棒君が賽銭箱をこわして、中にあった何物かをお持ちになりました。(社寺のものはただのものではないのをご存じない人が多いようで・・。)

 先日「小野寺は寒い」と小野寺出身の人に聞いた。「東西が山の盆地だから」という。そうかもしれない。しかしだからこそ、この小野寺に入るときには盆地の入口で手足を洗い、心身を清めて入ったのだ。だからこそ1300年近い歴史を持てたのである。

2006年1月15日(日)

 例年だと梵鐘の鐘を撞く人というのはそう多くないのに、今年は年末から始まって正月の五日くらいまで、数えられないくらいの音が聞こえた。また隣接する村檜神社にも今年は参拝者が多かったと、世話役の方が話されていたという。景気が回復してきたのかしら、という人もいるし、去年の大仏奉納事業で小野寺が知られてきたからだ、という人もいる。
 その明確な理由もわからないまま、正月飾りをしまう時期になり、お札のお焚き上げをしているときに、見知らぬ車が境内に入ってきた。参拝の方だろうと思って気にも留めていなかったが、車であちこちうろうろしている。それでどのような用件か声をかけてみた。そうすると次のような答えが返ってきた。
 「あのう、すいません、開運の鐘ってどこにありますか。」
 その若い男性の答えに驚いた自分は、再度聞き返した。
 「え、このお寺、大慈寺のですか。」
 そうだという。その人は場所を聞くと、わかりましたと示された場所に向かって行った。自分はお焚き上げの場所に戻り、今の人が鐘を2度ほど撞くのを聞きながら考えた。大慈寺の鐘は確かに開運の鐘だけれど、それほど多くの宣伝をしてきたわけではない。A新聞に年末記事が出たけれど、除夜の鐘だけのものであった。とすると、誰か別の媒体に記載されたに違いない。だがどうも見ていると、鐘撞きに来るのは若い方が多い。若い人向けの雑誌だろうか、だが正月の十日も過ぎてくるというのは、文字通り「開運」が目的に違いない。(その人の車のナンバーは隣の群馬県のものだった。)そうすると、今ブームの風水系の雑誌なのだろうか、あるいはそちら系のカリスマがマスメディアで宣伝してくれたのだろうか・・。などなどいろいろと想像してみた。
 いずれにしろ、大慈寺は風水的に言っても最高の場所であることは、1300年近く存続してきているという事実が証明してくれている。そしてこの地に足を運ぶということ自体、長い歴史のしみこんだ気をいただくことであるし、多少宣伝になってしまって恐縮だけれど、この地にご自分の霊園を持つということは、子孫の繁栄を確かなものにすることにもなるのである。

 そうそう、正月二日だったろうか。普段は数羽しかいないのに、カラスが100羽以上群れをなして大慈寺上空近辺を乱舞していた。何のシグナルかは知らないが、どこかに親分がいないかずっと見ていたけれど、残念ながらわからなかった。

2006年1月10日(火)

 昨日円仁まつりが終わった。その様子は地元の下野新聞や栃木テレビで公表されたとおり、大いに賑わいを見せて終了した。

 あまり、こんなことは書きたくないのだけれど、前後関係を明確にするために事実をつづりながら話を記録しておこう。円仁まつりの終了後に、世話人さんたちで打ち上げ兼、新年会を行った。場所は隣の藤岡町の部屋にあるTという料理屋さんである。その店の人で「ちょろちょろ」と動き回るように働くHさんという35歳の男性がいた。ずいぶんよく働く人だなあと思っていたのだが、宴も半ばを過ぎた頃にそのHさんが、すすっと私の所に近づいてこう話かけてきた。「あの・・失礼ですが、住職さんのお父さんは中学校の先生をしていた方ではないですか。」このように話しかけられることはよくあるが、隣町なので少し驚きながら、その通りである答えをした。「実は先生にはすごくお世話になったのですよ・・。」と彼の話を要約すると以下のようになる。
 父が20年ほど前に、その料理屋さんの近くの中学校に赴任していたときに、そのHさんを担任した。そして自分は特に先生にかわいがってもらった。他の生徒とはしないのに、自分とは休み時間に一緒にバドミントンなどをしてくれた。卒業したあとでも、イベントのあるたびに先生のお寺には何度も行ったことがある。そして、もし就職ができなければうちで寺男になりなさい、とまで話してもらった、云々・・。
 そのHさんという人物がどのような人か、もちろん、短時間ではとても判断しきれるものではない。しかし父は、Hさんがもしかして就職が難しいのではないか、そしてその場合には自分の所で引き受けてやろうと考えてそう話したのではないか、と推測された。(Hさんはその料理屋さんに就職されて、今では立派な看板の職人さんになっている。)
 父がどのような教師であったか知らないでもないが、その父の心根に意外な場所で触れられたことに驚き以上の、ありがたさを思った。そして、ふと涙がこぼれた。徳は、人に見せず知らせずに行い、それが見えない形で子孫の手助けをするのであろうか。

2006年1月8日(日)

 明日の円仁まつりの準備のために、世話人さんたちが集った。テントやら、いすやら、テーブルやらの設定をしたあとで、明日の予行でひとつ、焼きそばを焼こうじゃないかということになった。そうだそうしよう、ということになって、さっと分担が決まった。手馴れたYさん、こだわるNさん、なかなか手さばきを見ていて面白かったし、味も十分耐えられるものであった。
 プロなら同じ味でいけるだろうけど、素人がやると毎回違う味になってしまうだろうな、という意見が出た。どちらに人が多く並ぶかで人気がわかるなあ、という話も出た。明日も今日みたく穏やかならいいね、と和気藹々とした楽しい一時。

2006年1月2日(月)

 お香の威力を感じる。お寺の境内の地面に立てるというのも効果があるようだ。もちろん一般の家庭では不可であろうと思うけれど。

2006年1月1日(日)

 今日は元旦。初日の出を見たいと思っても、残念ながら今日は天候が悪く、太陽が顔を出したのは11時頃になってからだった。

 改めて太陽のありがたさを思う。