遐方記




 



「崇山大法王寺、参詣記」


                          



 平成22年7月27日、中国は登封県にある大法王寺に参拝してきた。

 登封県は中原にあって、中国を鎮める五岳の中岳、崇山を擁している。崇山といえば、達磨大師の修行した少林寺があるので有名である。その達磨大師の逸話とともに、拳法を扱った少林寺映画の影響もあって、武術に関心を持つ者が多く訪れ、近辺には、多数の武術学校ができている。町全体が武術を奨励しているようで、校内だけでなく、この町のあちこちで、多数の子供たちが修練しているのを見ることができる。
 今回訪問した大法王寺(あるいは法王寺)は、その崇山の一つの山麓に位置している。

 この大法王寺は、今まであまり日本人にはなじみがなかったように思えるが、今月初めの、慈覚大師円仁の名を刻んだ石碑が発見されたという朝日新聞の報道によって、一気に日本国内でも名前が知られるようになった。
 
 そもそもの発端は今年の1月に遡る。
 中国のメディアを扱う会社から、大法王寺の関係者が、上海のテレビ局を連れて大慈寺に来たいのだがいいだろうか、という話がもたらされた。
 基本的に大慈寺では、住職の不在でない限り、できるだけ多くの人と接する時間を取ろうと考えている。したがって、会うことが可能な日程の今回の話を断る理由などない。

 1月22日、大法王寺の方々とテレビ局の方々、全員で9名の中国の方々がバスでおいでになった。大法王寺の住職の釈延仏師は、車いすでないと移動できないということで、東京のホテルで待機されていた。
 お話によると、大法王寺の一向は半月をかけて日本の社寺などを訪問されているそうで、特に円仁関係の寺は優先して回り、今までに比叡山延暦寺にも、浅草寺にも参拝してきたという。
 そんな中、円仁関連ではもっと大きな寺院もあるのに、大慈寺のような小さな寺院に来訪いただいたのは、余程円仁に関するお気持ちがあるからなのだろうと推測された。

 当日、仮本堂に彼らを迎え、テレビカメラを前に、円仁に関して自分の知っている知識の深い箇所までを話したと思う。
 昔、韓国の国営テレビが取材に来たこともあるので、しかもどうせ中国でのみ放映されるテレビ、あまり緊張もせずに話ができた。
 しかしなぜ円仁なのか、その辺がどうも理解できないでいた。
 中国語ができない悲しさか、正しく聞き取れたか心配であったが、来院の目的を要約すると次のようになる。
 大法王寺は古い寺院で、舎利塔が建っている。その塔の下から円仁という名前の刻まれた石碑が出てきた。ちょうど円仁がやってきたときは、仏教弾圧の最中で、仏舎利がなくなることを危惧した当時の住職の天如が、円仁に仏舎利を隠すために一文を要請し、それを彫ったのがその石碑だという。
、それで円仁がどういう僧侶なのか、円仁の足跡を遡って、大慈寺までやってきたということだった。

 もたらされたこの話は、衝撃的なものであった。
 9年以上も苦労して古代中国、唐の各地を歩いて求法をしてきた円仁の、その足跡が実際に発見されたということ、だ。
 もしそれが真実であれば、日本中が大騒ぎになるだろう。しかしこの一行は、すでに日本の各地を歩いてきておられるという。とするとこの話題が既に広まっているはずだ、とするともうすぐ新聞にでも出るだろう、だから自分は何も行動を起こす必要はないだろう、と判断し沈黙をした。

 しかしどのような手違いからなのか、この事実は何ひとつ報道一つされることはなかった。(後に、2008年の段階で、大法王寺に参拝した日本人の僧侶がおられ、中国でそのことが報道されたということは知りえたのだが。)
 じりじりとあせるような時間を感じるようになり、出鼻をくじかれたような気持ちにもなり、何か深い秘密でもあるのかという猜疑の気持ちにもなり、そのまま何もできないまま、時間が経過していくのに任せるしかなかった。


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 慈覚大師円仁の展示会を、栃木県立博物館で開催されたのをきっかけとして、栃木市にある国学院短期大学の酒寄雅志先生と御縁をいただいてる。
 その酒寄先生が2月、大慈寺までおいでになられることがあった。そこでこの円仁名の石碑の話題を出してみた。
 先生はとても関心を持たれた様子でおいでになり、大法王寺の一行が来られたときにいただいた本の写真を撮られていった。

 最初、先生の態度は懐疑的であった。学者の態度として、最初は疑ってかかるというのは基本であって、それに忠実であられたのだとは思うが、そんなに大発見が放置されているはずがないという思いも、根底にあったのではないかと思う。
 その次に先生は、写真だけでは飽き足らず、本のコピーを送って欲しいという依頼をされ、言われるがままに送り、研究の成果を待った。
 「中国ではこういうものを作ってしまうこともよくあるのですよ」というお言葉は、その間、自分を期待せずに待たせるのに相当の効果があった。
 
 自分は、大法王寺の一向が1月に大慈寺においでになった翌日、ご住職の延仏師のおられる東京のホテルまでお目にかかりにいった。大慈寺まで来られなかったのは、身体的な理由であるのであって、遠路おいでいただいたのを無にするのは、失礼であると判断したからである。
 ホテルの庭で、延仏師は多くの弟子を従え、恰幅のいい体を車いすに乗せておられた。
 一通りのあいさつを終え、できあがったばかりの円仁の師匠広智菩薩の小説を差し上げた。延仏師は本を指差し、
「ここに仏舎利のことは書かれているのか」
そう質問されたけれど、実際に書かれていないので、書かれていませんと、ありのままに答えるしかなかった。
 
 そのとき、円仁像の話が出た。円仁の大きな像を大法王寺に作る計画がある。年内くらいに完成になるだろう、という話であった。
 それならば、モデルになるかどうかはわからないけれど、小さな円仁像を作って貴寺にご奉納いたいのだがよろしいかとお話をした。
 ならば期限を7月にしてほしい、という要望が先方から出された。その期限が、どうして7月であったのか、円仁像を作る時間を考えてのことなのかどうかはわからない。
 しかし言葉通りに、わかりましたとの即答をした。

 そういう経緯があったので、酒寄先生の懐疑的な言葉をきいたあと、自分の心は揺らいでいた。
 大法王寺から出てきた円仁の名を刻んだ石碑はどうもニセモノの可能性が高い。そういうものを作る寺院に円仁像を送る必要があるのだろうか。
 いや約束したからには渡さなくてはならない、これが筋道というもの。それに円仁の名前を書いているという時点で、円仁を尊重してくれているということを示しているではないか。
 そんなことを思い、人間のすべき道を見定め、ともかく仏像作成と譲渡の約束だけは果たそうと心に誓った。

 円仁像の作成を依頼したした仏師さんは、比叡山で俗世と完全に遮断された状態でこれから修行する予定になっていた。満行するのは6月の下旬。そこから一気に彫ってもらうしかない。
 その話をしたところ仏師さんからは快諾を得、山を降りたら一気に作成するということとなった。因みにこの仏師、大慈寺で出家した慈英さんという若手で伸び盛りの匠である。


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 事態が動いたのは、円仁研究家のV.阿南女史が大興善寺で写真展を行ってからだった。阿南氏は酒寄先生に、中国ではすでに大法王寺の円仁の文字の入った石碑のことが有名になっているという情報をもたらした。
 そういう事実が、先生に再度石碑への関心を高めさせたのかもしれない。
 その後の先生の研究の進捗について知る所ではないが、6月の下旬に電話をいただいてすぐ、酒寄先生と朝日新聞の渡辺さんが拙寺においでいただいた。大慈寺に大法王寺の方がおいでになったときに置いて行った本をご覧になるためである。
 そこで渡辺さんは石碑の上の部分が不自然に欠けているのを指摘された。これは中国人が土の上から掘ったときに、上面だけにできた傷ではないかというのである。
 
 ここで初めて、この石碑が真実のものではないかという前提で話が進んでいるのを知った。半ばあきらめていた情報に、自分の心も、閉ざされていた部屋に光が入ったように明るくなった。
「もう少し調査をして、そしたらすぐに記事になりますよ」
その言葉に、事態が切迫しているのを感じた。何かが動く。これは大きなことになる、と。

 実際にその後すぐに、酒寄先生は大法王寺に赴き、実際に石碑を目で確かめ、そして多くの研究者の意見を取り入れながら、これは円仁の書いたものであり、円仁の残した中国での現在唯一の遺物であるという結論に到達されたようである。

 このことが新聞に載る直前に、酒寄先生から電話をいただいた。
「今日の夕刊に記事が出ます。天台宗からもコメントをもらいました。明日の朝刊の方には住職さんの名前も出る予定です」
知らない場所で、動いている何かを感じつつ、夕刊を買い、翌日の朝刊の全国紙の文化面を見て、とうとうもやもやしていたものが晴れたと安堵した。

 そのあと、大慈寺まで直接話をしてくれた人も多かったけれど、大慈寺以外の場所で、知らない人に情報を知らせたり、共有したり、講演会の予定を多数問い合わせたり、という動きがあるのを聞いて、夢ではない実感として事実が確定し始めた。
 
 そのあと朝日新聞以外の新聞や公共テレビ放送などが後追い報道をしてくれた。更には栃木県地元紙の下野新聞が一面で記事を載せてくれるなど――事実を言うと、こちらの方が県内での反響は大きかったのだが――したため、円仁の名を刻んだ石碑が中国で発見されたということが、ほぼ周知のものとなってきたように感じた。

 そして事態は、酒寄先生のお勤めになる国学院大学での発表会の、溢れんばかりの聴衆の参加、多くの研究者の発表と同時に、大慈寺的には多くの見知らぬ人からの連絡、提案、問い合わせとなり、日本中に円仁の名前が知られることとなってきていることを実感した。

 これはひねくれではなく、事実として自分にとっては、その報道があろうがなかろうが、円仁像をもって大法王寺に行かなくてはならないという現実は、大法王寺の延仏住職と1月に約束して以来生き続け、そちらのみに心を傾注していった。


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 崇山で入山料を払い、しばらく登ると二手に分かれる道に出る。右手が大法王寺で、左手が崇岳寺方面だ。
 崇山は単独峰ではなく、いくつかの山が集まっている。その多くは、ごつごつした岩が、山頂付近まで置かれている、一瞬見ると奇怪な山である。この石はあまり利用価値がないという説明を聞いた。
「10時頃お待ちしております」
中間に入ったWさんはそう話していた。その時間ちょうど位に大法王寺に到着した。

 一番下には「大法王寺」と書かれた大きな石柱が建っていた。何でも北京の権力者の字によるらしいが、延仏師がこの寺に入って復興したことに対する記念らしい。
 延仏師は、ちょうど25年前、この寺院に入った。その当時は参拝者もなく、ただ古代の塔が建っているだけだったという。そこを延仏師が復興したのだ。
 どのようにお金を集めたのかを聞いてみた。そうしたら弟子たちが集めるのと、信者たちの寄付によると説明していた。
 その石柱から階段を登り、門を入ったあたりに僧侶でお堂の番をしている者がいた。方丈の方向を通訳の薛さんが聞き、そちらに荷物を引いて行った。

 いくつかの塀にある戸を通って右手にいくと、昔ながらの竈がある。そのわきには洗濯物が干されている。そこから回って右手奥の塀をくぐると方丈があった。
 私たちの姿を見つけると、多くの僧侶や関係者たちが近寄ってきた。
「ご住職がお待ちです」
普段、お忙しい釈延仏師は大法王寺にいることがまれらしい。数日間の外出を終え、この日たまたまおいでになっていたので直接お目にかかることができた。
 建物の外で素早く道服に着替え、機内持ち込みで抱えてきたリュックから円仁像の入った箱を持ち、中に入った。

 延仏師は、車いすに乗ったまま、いつもの黄色い僧服を着ておられた。丸顔で体格もよく、改めてみると70歳前後のお年であろうか。
 こちらをご覧になり、一瞬考えるような表情を見せられたが、ああ、という感じになって自分を認めてくれた。半年前に一度お会いしただけである。
 型通りのあいさつをし、御縁ができたことのお礼を述べた。すると円仁像を地蔵堂のそばにお祀りする予定である旨のお話をいただいた。こちらはどこであれ、祀っていただくことだけでありがたい。

 要点だけを話し終わると、では先に行ってくれと自分たちを促した。ともかく円仁像を箱から出そうとすると、いやお堂の場所でいいというお話であったので、案内の恒興師の案内でお堂を上に登って行った。
 登ると表現しているのは、この寺の地形にある。山の傾斜を利用して、下から段々と上にお堂を造っていくのである。だから上へ上へ、という形になる。
 いや逆かもしれない。北魏や唐代の塔は一番上の場所に決まっているのだから、下に下にとお堂を作ったのか。とすると一番下が、あの大きな石柱の建っていた場所になる。とするとこれ以上建物は建てられまい。
 としても、多くの堂塔があって、下から上まで、直線にしても100メートルではきくまい。歩くだけで息が切れる。

 円仁の仏像は、仏師の慈英さんが大慈寺まで、出発の2日前に持ってきてくれたものだ。比叡山に登る前にある程度の型を作っていたようなのだが、行を終えて帰ってきてから満足せず、新たに作成したという。しかも一度目で気に入らず、二度目も満足せず、三度目の仏像であり、3日で完成させたものと説明されていた。約6寸の高さである。
 顔は厳しく、体躯は痩せ、静かに目を下げた座禅の姿を取る坐像だ。

 円仁は世界に名だたる旅行記『入唐求法巡礼行記』を書いていたが、この大法王寺を通過する場面だけは記述がない。にもかかわらず、通常より日数を多く費やしている。とするとここで逗留した可能性は高い。
 そして仏教弾圧の中での帰途であるので、満ち足りたお顔をしていてはいけない、服装も地味なものでなくてはいけない、命がけの姿でなくてはいけない、という条件をすべて満たしている。

 地蔵堂は、一番上から二番目のお堂であり、そこは地元の多くの信者がいた。その左わきのお堂に安置してもらえるという。
 自分の心は震えた。一体この仏像を中国の人に理解してもらえるだろうか。大きいものを好む中国人が――あとでわかるのだが、この延仏師は巨大な280メートルの釈迦立像も2008年に建立していたのだ――満足するだろうか。きらびやかさがなくても、その表情に円仁の心を読み取ってくれるだろうか、そんな危惧を持ち続けた。
 メンツを重んじてくれる民族性なのだろうか、一切表情からは仏像への感想を読み取ることができなかった。今でも、これで満足されたかどうかは知ることができない。

 延仏師が車いすを抱えられて、すぐにお堂に到着した。師は車いすのまま円仁像に対して礼拝を始めた。自分も左わきに座をいただき開眼の作法を同時に始めた。
 終了に多少の時間のずれはあったが、入魂作法ができたであろうと感じた。
 何事かを延仏師が話された。通訳の僧侶が
「今ここで、この仏像に対して延仏師によって、『円仁』と名づけられました」
と説明した。なるほど、開光(開眼)とは名づけのことでもあるのだ。
 この時しかないとと思い、円仁仏の説明を延仏師にした。
「この円仁像の体の中には、仏舎利が納められているのです」
円仁ゆかりの仏舎利が出てきた寺院で、円仁像を奉納するのに仏舎利を入れたい、という慈英さんの心意気でもあった。
 それに対して残念ながら、延仏師からのコメントはなかった。意外だと思ったのか、仏舎利はニセモノだろうと思ったのかどうかは判断しかねた。

 お堂の外に出た。円仁の名の入った石碑の拓本と、延仏師の書をいただいた。その書を持って記念写真を撮った。
「今から、お堂などを案内させます。そのあとでよかったら精進料理を食べていきなさい」
そう誘ってくれたけれど、時間の関係もあって、諸堂塔の案内をいただくだけとした。
 延仏師は簡単な挨拶をしたあとで、車いすを押されて帰っていかれた。

 恒興師に導かれて、一番下まで降りて行った。
 先ほどは見えなかったが、拳法を境内で少年たちが行っていた。筋肉が隆起し、重い旗の棒をぐるぐると振り回していた。
 

 一つ、一つ、お堂の説明をされる。すべて基礎がレンガ造り、壁は海老茶色であり、通路は石畳である。
 未来仏のお堂では四方に同じ立像が向いて立っていたり、剣のような武器をもつ天王が両側に立っていたり、ミロク様がいたりした。
 
「これです」
恒興師が指差した。そこには間違いなくあの石碑があった。『釈迦舎利蔵誌』。多くの遺物と一緒に壁にはめ込まれている。その石碑の円仁という文字を指でなぞってみた。これを沢山の信者さんたちが繰り返したなら、いずれ摩耗してしまうだろう、という気持ちを持ちつつも指に感触を覚えさせた。
 会昌五年と書いてある。感慨に浸りつつも、写真を撮り、いろいろな説明を受けた。
「盗難の心配はありませんか」
彼は笑って答えた。カメラで24時間監視しているから大丈夫だという。それ以上このことを追及することはやめにした。

 仏像の中で圧巻なのは地蔵菩薩である。今までにこれほど慈悲深いお顔をされた地蔵菩薩を見たことがない。冠のようなものをかぶり、手に杖を持ち、全身金箔であるけれど、信者の方を向いて慈悲深く立っている。
 すると突然、紙が燃えだして高い天井まで上って行った。
「あの燃える様子を見て、お願いがかなうかどうかを知るのですよ」
お経も何も書いていない、ハンカチより1回り大きい黄色い紙をろうそくで燃やし、その燃え方で占うのだという。このお堂に一番多くの信者さんが集まっていたのもうなづける。
 このお堂のわきに円仁さんがお祀りされたのだ。

 一番上の寝釈迦のお堂のわきを通ると、山道に入る。さらにレンガつくりの家のわきを通ると、北魏時代の塔が見える。そもそもが、ここに仏舎利があったのだ。それを別の場所に移し替えた。
 簡単に合掌して問題の塔の方へと向かった。
「この塔の正面のここを開けたら、階段があって通路になっています。それを進むと壁が二枚あって、その奥に石碑がありました」
そう指差す場所は、既にきれいにコンクリートでふさがれ、中の様子を覗きたくても覗きようもなかった。周りには夏草が伸び放題に伸びていた。この場所までは普通だれも参拝されないであろう。
 仏教弾圧の中、自分の足だけを頼りに、大寺院の一番上の、そのまた上の塔の、誰も来ることのない場所に、ひっそりと仏舎利を埋めた、その円仁の気持ちと行動を思い涙が出た。
 しばらく一人で何かを感じたいとは思ったが、状況が許してくれなかった。お客さんを丁寧に接待するように恒興師は言われているようであったから。
 
 帰る途中、水を貯めて流している場所があった。
「崇山からの水が貯まったのですよ」
そういう説明を聞き、手に触れると冷たく、体まで染み込むようであった。口に含んでみた。その瞬間、山からの気がどーっと自分に流れ入ってきたように感じた。

 自分たちを歓迎してくださった、延仏師をはじめとする僧侶の方々には感謝するしかない。たった一度会っただけの者の話を覚えていて、しかも待っていてくれたのだから。
 上海のテレビ局の夏さんの気持ちもありがたかった。わざわざ上海から駆け付けてくれていた。自分たちの行動はすべてテレビカメラに収められていた。いつか上海の地で流されるのかもしれない。

 問題の円仁像の建立の件は、現在そういった計画が出ているということで、どうなっていくは未定であるという。
 しかし造る場合には、お堂を建てその中に安置するということにはなっている、ということだった。今回の仏像をモデルにしていただけるかどうかはわからない。


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 延仏師とはもう少し話がしたかった。師は易をよくして人を導くという。ここは道教の盛んな地でもあるから何かの関係があるのだろうか。その件を恒興師に聞いてみた。
「中国の五行思想です。易だけではなくて、医学も、薬も五行です。・・その件については、また今度おいでになったときにお話ししましょう」
どうも、次回来ることも歓迎してくれているようである。細いけれど、確実にご縁ができたことに感謝するしかない。

 偶然、隣の崇岳寺に寄ることとなった。
 小学生の教科書にも出てくるという、有名な塔が目の前にある。空は全くの快晴である。太陽の光と塔との掛け合いが、時間を忘れさせた。容赦なく太陽光が注がれる。
 その奥にはお堂があって、参拝者もいないせいか、番をしている人の椅子しか置いていない。
 お堂の中に入って祈りをささげた。ここならば、ゆっくりと一人だけの時間が取れる。

 おわします仏像は、見た目以上に巨大であった。こちらが背筋を伸ばさないと、到底祈りを聞いてくださらないほど大きかった。
 この地に住んでいた先人を思った。そしてこの地に足を運んだ先人を思った。思いはしたけれど、彼らは全く存在はしていない。

 この崇山の地には今回、円仁が来たから来たのではあるけれど、個人の祈りなどする気など起きなかった。崇山が立ち続けているように、円仁がした祈りと同じ祈りを続けて行いたい。そうしなければここに来た価値がない。
 歴史に触れるのは大切だけれど、それだけでは終わらせたくない。自分は学問は尊重するけれど、僧侶でもある。円仁と対面するのではなく、円仁の後姿を見ていたいのだ。

 よし今度は、人を導く方法を話すためにここに再度参ろう、そう思って中岳崇山を背にして離れた。


                                          (2010,7,30)





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