遐方記






          「対立するもののない世界」
 
 各種報道によると、今年3月に始められたイラク戦争が終結に向かっているという。どのような形でどんな結末であれ、「戦争」という名のつく災禍が終結することは歓迎すべきことである。「平和のための戦争」という戦争があっていいのか、ここでこれを論じ、答えを出そうなどとは思わないけれど、戦争ほどいろいろな意味で「対立」という言葉を強く思い起こさせるものはない。
 
 戦争という特異な事例まで至らないとしても、考えてみれば、我々の世界は、対立関係にある諸概念の上に成り立っている。「強」と「弱」、「白」と「黒」、「こちら」と「あちら」、・・など、ものごとの量に関するもの、ものごとの質に関するもの、そのどちらかにおいて対立関係にあり、しかも名前を持って言い表されているものを、我々は日常経験するところである。それに対して反対概念の方に名前の与えられていない対立関係もある。「本」と「本ではないもの」、「木」と「木ではないもの」、・・というように表現すれば、この世の中にあるすべてのものを言葉で表現することができそうだ。対立という言葉が相応しくなければ、別個のカテゴリーと言いかえることもできよう。そういったものの上に我々の日常が成立していることに異存はあるまい。余談になるが、哲学的な思弁を繰り返した過去の仏教僧侶たち(ディグナーガやダルマキールティなど)は、たとえば「木」という概念を定義する場合「木以外のものを排除したもの」と定義したという。
 そういった難しい話ではなくて、またそれほど対立した概念としてではないけれど、仏教を分類するときに、「顕教」と「密教」という言い回しがある。これは、分類わけとしては都合のいいものに含まれる。例えばチベット仏教などでも、この分類は用いられており、決して不都合なものではない。
 その両者の厳密な意味や区別はわからないが、文字通りに解釈すれば、顕教は明らかにされている教えということであり、密教とは秘密の教えということであろうか。一方の顕教には、法華経、念仏、禅など様々な姿がある。他方の密教は、真言宗と天台宗のものが主に知られている。そして日本の天台宗においては、その両者を取り入れ、法華経を中心とした教えと、密教の教えとのどちらが優先されるのかに関して、様々な見解があったことも報告されている。
 では顕教とは具体的にどのようなものであり、密教とはどのようなものなのだろうか。そういう大問題を浅学非才の自分が語り得るとは思わないけれど、その一端を経典の中から拾ってみよう。顕教にあたるもののうち、「七仏通戒偈」には次のように書いてある。

「諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教」

あらゆる仏の教えというのは、「よいことをしないさい」「悪いことをしてはいけません」「心をきれいにしなさい」ということである、と簡潔かつ端的に説明している。とすると仏教とは「道徳」と違わないのではないか。もし仏教が道徳であるとするならば、ことさら僧衣を着て修行なんてする必要はないのではないか。いや違う。これは在家信者のための教えであって、出家者のためではない。とすると在家の信者の人にとっては、道徳だけが重要であり、道徳の実践をすればいいのであって、そこに仏教をはじめとする「宗教」と名のつくものは必要ではないのではないか。どうなのか。
 その「宗教」という言葉で思い起こされるのが、最近、中央教育審議会が「教育基本法」を改正するに当たっての原案を作成したが、そこに「宗教的情操の育成」という言葉を入れるか入れないかで問題となっていたということだ。最終的に「宗教」という語がはずされてしまったが、そこには、「宗教」と「道徳」とは全く別のものであるという判断があったからだろう。
 「宗教」と「道徳」は違うというがどこが違うのか。百説も出てくるような質問だと思われるが、自分は以下のように解釈している。道徳には「祈り」がない。一方の(大多数の)宗教には、その様式が違うにしても、「祈り」がある、と。言うまでもなく、「祈り」というのは「願い」とは違い、自分以外の者の幸福や安寧を想うことである。
 いやいや、道徳にも「思いやり」という言葉がある、という反論もあろう。では「思いやり」と「祈り」とはどう違うのか。その基本的な方向は違わないのであろう。では何をもってそれらが相違するというのか。「道徳」の方を優位だと考える人は、「思いやり」は実践を伴い、「祈り」は実践を伴わない、というかもしれない。しかしながら、実践を伴わない祈りというものが果たしてあるだろうか。実践を伴う、伴わないという分類は、そもそも時と場合に応じて相違するのではないだろうか。この「祈り」と具体的な目に見える形での「効果」という問題は、実は密教の加持祈祷の部分ともかかわる問題である。
 では「思いやり」と「祈り」の違いは何か。自分なりに解釈すると、一つは激しさと深さと言えるであろうか。「思いやり」は場当たり的なニュアンスを感じるが、「祈り」はより人間存在の深い部分への働きかけを感じる。何も口にしていない人がいて、食べ物をあげるというのが「思いやり」だとする。しかし祈りはそうではない。もちろん食べ物をあげるという行為も重要な要件にはなるとしても、なぜ口にしないのか、金銭的な問題なのか、何かの目的で断食をしているのかを見極め、将来的にも食べ物を口できるようにしむけることが祈りのあり方の一つだと思う。そこには法律の条文で表現できない、人間による「透徹した意思」を感じる。「思いやり」の実践はすばらしいことだ、と言っても限度があろう。「思いやり」の行動をして、最後どうしようもない場面になったら、祈るしかないのではないか。一方、祈りの方も実践を伴う場合が多いのではないか。
 教育基本法に、「宗教的情操」云々という言葉が入れられないことになったのは残念である。日本の場合、希薄になったとはいえ、宗教がわれわれの生活からまったく切り離されているのではないのに、また人間をより道徳的にも高めることができる要素を備えているのに、どのようないきさつがあったかはよく知らないが、日本文化の未成熟性の一端を、戦後60年にもなろうとするのに、発想の変わっていない現実を見せつけられて、悲しい。
 
 千年以上続いている宗教も、戦後新たにできた宗教も、宗教基本法によって、横一線に並べられ――それはそれで当然のことではあるけれど――それまで密接であった日常生活と宗教との隔絶が図られ、「歴史文化を重要視することは、特定の宗教を重要視すること」とある部分で激しく混同され、宗教が腫れ物に触るような扱いを受けるようになった事実は、逆に宗教に対する否定的な心情を生み出す一端にもなったし、頭でっかちでそこに心が伴わない自称(であろう)文化人を多数生み出す要因になった。ひいては、教育を受ける子供の心のある部分の発育を妨げ、人を唯物思想に押しやり、現今発生している心の諸問題の要因になったようにも思えてくる。しかしこんなことを考えるのも、・・大慈寺が「遐方」にあるからだろうか?

 話を戻そう。密教の実践のほとんどは、在家ではなくて出家の人によるものである。人が「密教」という語を聞いて何を連想するだろうか。おそらく火を焚いて仏を供養する「護摩」供養、あるいは「護摩」祈願であろう。今日、心願成就を願って、全国の護摩祈願をする寺院に多数の参拝客が訪れているのはよく知られているところだ。ではこの祈願、祈祷と「仏教の本質」とどのようにかかわるのか。
 その前に、一般の人が神社・仏閣を訪れる理由はどんなものであろうか。「あそこの観音様はご利益がある」とか、「お金が増える水がある」といううわさを聞くと、たとえ遠い距離でも訪れようとする。参拝には、そういった現世利益的な要素が多いのは否定されないであろう。それはそれでいいのだが、目先のことだけを見ると、「仏教とは金儲けに効果があるもの」とかいう、極めて的外れの解答しか出てこないということになってしまおう。とすると、他人の「願望」が叶うようにと祈祷することが本当に仏教あるいは「宗教」なのだろうか。
 先の祈りの件ともかかわるが、人のために祈ることは、宗教の根本的な本質である。これは間違いなかろう。そして「試験に合格したい」「事業を成功させたい」「お金を手に入れたい」・・人の願望は多種多様である。それに対して祈る。それは本当に宗教と言えるのか。
 この問いは、本来、祈祷を行う者がしてはいけない性質のものではないか、と思う。そういう問いをすること自体おごりなのではないか。あくまでも祈祷者は仲介役でしかない。なぜならば、ある人の願望を叶えること自身が、その人の本当の幸福になるのかどうか、我々には本当のところはわからないのだ。すべて見通す、それこそ仏陀にしか判断できないことであろう。だからこそ、祈願にためらいを持つべきではない。願望成就がその人のためになるかどうかを祈祷者が判断することなど、それこそ身の程知らずというものだ。だから、祈祷者は熱く祈ればいいのではないだろうか。そうすることによって、結果がどんなものであれ、最終的に祈願を申し込む人にとってよい結果になるのではないか。善悪の判断は「仏陀」にお任せしておけばいい。「祈る」あるいは「願う」という行為自体によって、その両者の精神性が高められることがあるのではないか。やがてその願望が変質して、より人間性や宗教性を高めるきっかけになればいいのではなかろうか。こう言いつつも・・これは現時点で私がこう考えているだけであって、この考えは年齢的な経過あるいは宗教体験によって変わる可能性も当然ある。

 そういう「祈祷」の本質という問題は抜きにしても、人がどこそこの寺院に行って「聖なるもの」に触れ、自分の願望が浄化すること、願望を浄化させるような場を作ることも大切なのではなかろうか。本当にその人にとってお金が必要な場合にはお金が得られ、本当に必要なものが入ってくる、あるいは達成されて行く。そういう「聖なるもの」を感じられる寺院にしていきたいと念願している。またこの「聖なるもの」こそが、各信仰によって何であるか異なるのであり、その区別によって宗教や寺院、教会が分かれていると理解している。そしてこの「聖なるもの」とは、我々の五感と関連があるとはいっても、それとは別の、五感を超えた部分との関わりがあるようにも感じている。
 密教の祈祷をするにあたって、実際の祈願内容として多いのは、「家内安全」という申し込みである。ということは、ますますもって寺院に「聖なるもの」があるかどうかが問題となる。「聖なるもの」はより高次の世界へ我々を導くものであり、それに触れることによって、心の浄化がはかられ、心の安定がもたらされ、家内もその近辺も、ひいては世間も安全になっていくものであろうから。

 以上のように、顕教であれ密教であれ、仏教の根本の部分での本質は変わらないと思われる。ただその手段と形態は、対立しているのではないかと思われるほど様相を異にしている。仏教は、特に日本の天台宗はその両方を内蔵するという特徴をもっており興味深い。
 人が生きている限り、必ず相反するものと出会う。例えば夫婦縁などはどのようにして決まるのであろうか。「縁は単なる偶然であって、そこに何らかの見えない意図などはない」ということは簡単である。「結婚にしろ離婚にしろ、個人の意思以外の何ものでもない。それこそが、確立された近代的個人主義時代の人生にふさわしい」という意見がある。当然である。われわれが、時代の潮流や時代の要請を無視して生きることはできない。封建時代の制度や、家長権力の強かった時代にあって、個人の意見など通らなかった実情を考えたら、現在、個人の考えを表明することは当然であり、また必要なことでもある。しかし翻って考えてみるに、この自由社会といわれる時代においても、全くの偶然で人生がすべて運んでいると断定できるであろうか。
 仏教には業という思想がある。よいことにしろ、悪いことにしろ、自分のなした結果を自分が受けている、という法則である。そのことを結婚の問題に当てはめてみよう。我々がどのような業を持って、特定の人との出会いがあるのか。それを我々は知ることができない。その業を前世という考えまで押し広げるならば、必ずしも良縁であるとばかりは限らず、むしろ逆だってあるのではないだろうか。そのうえ「先祖が源氏系の人は、先祖が平家系統の人と一緒になる」とか「平将門系の人は藤原秀郷系の人と一緒になる」などという先祖がらみの話も関わってくるし、この世での縁が自分では図りえないもので動いているということを、完全に否定することはできないのではなかろうか。
 先に述べた社会全体の時代の流れ、という件に関しても――宇宙の業いう発想が若干仏教の中にあることはあるけれど――業という考えを適応できるようにも思える。


 とはいえ、私は評論家であろうとは思わない。評論家は必要だが、自分自身が評論家になろうとは思わない。泣きたいときは涙を流し、笑いたいときには声をあげて笑い、このような対立という波にもまれながら、うねりもだえながら、対立のない世界へあこがれつつ、毎日を「戦って」いきたいと、ここに新たに決意する。
 悟り済ました仏像のような人間の顔など、どこに魅力があるというのか。いやそこに魅力を感じるのなら、そういう人の話に耳を傾ければいい。もちろんマネすること自体悪いことだと否定するのではない。仏像のマネをして、それで人に立派な人だと言われるのがいい、という人はそれでいい。だけどそんな如来像のような顔の人は、憤怒の姿の不動明王になれるのか。剣や捕縛の縄をもち、大憤怒の不動明王は、実は悟った仏の姿の一面であるという。澄ました顔も、憤怒の顔の両方ともできるのは、仏が心の中の「対立」を離れているからに他ならない。もちろん、怒っている顔より、穏やかな顔の方がいいけれど、不動明王になれずして、仏にはなれない、・・という意見はどうだろう。などなど、仏顔がなかなかできない私であるので、自分のために、言い訳をあれこれと長々書き綴ってきた次第である。
2003年4月30日  百十七世 誌




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