遐方記






「池の歴史、尽きせぬ水」
 
 栃木県立栃木南高等学校の校歌の二番に次のようなくだりが出てくる。
         
         聖(ひじり)の慈覚(じかく) 牛に来て
         
         掘りし泉の 今いずこ (作詞・生井武司)

         
既に他界されている生井武司氏というのは、土屋文明に師事したアララギ派の歌人であったということだが、その人のこと、作詞のいきさつなどについては、同校創立二十周年記念誌に寄せられた御令嬢新間水緒氏の「下野の大地の青嵐」という文章を参照されたい。他方、この校歌の内容を理解するには、近在の天台宗寺院、牛久(うしく)にある牛来寺(ごらいじ)の寺伝を参照する必要がある。
 下野の国(今の栃木県)の生んだ歴史的偉人慈覚大師円仁が、十年にも及ぶ中国求法の旅を終えた後、五十七歳の時に、生まれ故郷の三鴨山のふもとに戻り(誕生地説は別にもあり)、そこから、蓮華のようなまだら模様のある牛にまたがって、布教の旅に出発する。その途中、乗っている牛が、水を飲みたそうなしぐさをした。ところがその近辺に水がない。そこで慈覚大師は持っていた錫杖(しゃくじょう)を地面に突き刺した。すると水が湧き出したので、「さは、飲め(さあ、飲みなさい)」といい、それで牛が水を飲むことができたという。その後、その水は涸れることなく土地を潤し、「さはのめ」という音の転じた「さわのめ」という地名ができたのみならず、その池から流れる川を精進(しょうじん)川、その下流域を水穂(瑞穂)と呼んだ。牛に乗ってくるという様子などは老子出関の図を想像してしまうけれど、当地の歴史を語る何とも美しい話ではないか。
 
 その逸話がどの時代に作成され、誰によるものかの詮索は抜きにして、場面は一気に千二百年の時を経過して昭和三十年代に移る。その時にも確かに、「伝説」に満ちた池は存在していた。牛来寺の名誉住職高野昇順師によると、池の広さは「八畳間が二間くらい」のもので、「水がボコボコ」湧き出るものであったという。更には、その池の近辺に卵塔形の無縫塔(これは僧侶の墓石と思われる)がたくさん散乱していたという。
 そんな、のどかで平和な土地が、かつて経験したことのない変革に見舞われる。土地改良、農地改革だ。戦後十数年経過した段階で、果たしてどれほどの人が飢えて農地を必要としていたかは不明であるし、農地の大規模改修に、このわずかばかりの土地が必要であったかどうかもまた不明である。しかし事実を老師の言葉に従ってつづれば、食料危機を救うべく農地を拡張するという名目で、行政側は「慈覚大師の池」も含めた土地の造成を決定する。
 それに対して、千二百年もの歴史があるとされる池を、埋め立て消滅させてしまうことに、地元民たちは反対し工事中止の声をあげた。地元民から起こった反対運動である。そのメンバーには高野師や生井氏も含まれていた。
 しかしながら、それらの方々の熱心な反対運動にもかかわらず、行政はその決定を覆すことはなかった。また両氏とも教師をなさっていた関係から、二十四時間現場に立ち会うことは不可能であった。その結果、改修工事は強行され、しかもその工事の過程でいろいろな古の遺物のようなものも発掘されたようであるが、多くのものが秘密裡に埋められてしまったらしい。そのときに、それまで確認されていた数基の無縫塔も埋められてしまって現在ではかげも形もない。
 その工事の進展を見守っていた高野師は危機感を募らせ、散乱していた石のうち「御手洗」という字の彫ってあるものだけを安全な場所にひそかに移転させたという。
 
 その当時の行政担当官は、現在では高齢になりあるいは他界されておられる方もいるであろう。それらの方々を現時点で責めるつもりは毛頭ない。ただその畳八畳間が二間分のたんぼを作ったために、どれほどの米を得て、どれほどの人の飢えがしのげたのだろうか。その当時は「パンのみにて生くるにあらず」という言葉に耳を傾けられないほど、精神が追い詰められた飢餓状態に、人々は陥っていたのであろうか。
 翻って考えるに、現今、減反という昭和三十年代とは全く逆の政策が出ているのであるから、昭和三十年代の過去を反省し、「過去の農地整備計画で破壊された史跡を修復する」という方針を、政府や行政府が打ち出せないものだろうか。いや、たった一つ、「慈覚大師の池」の復活ができないものなのか。政党や内閣が変わったから、責任を負えないという言い訳を準備するならば、その時代時代で、真に文化を理解する政治家やリーダーが必要とされてくるはずだ。しかし各時代でどれほどの有識の方がおられる、あるいはおられたのだろうかという危惧の念までも、どうしても我々は抱いてしまうのである。
 
 広い日本全土の中の事例一つを見ただけでも、文化や伝統、心の機軸を失うという機運は、現在に始まったわけではなく、戦後すぐから行政も巻き込んで行われていた、と判断せざるを得ない。それなのに何を今さら「心の教育だ」とか何とか空しい声を上げるのか。本当に「心の教育」が必要だと思うのならば、過去、自らの先人が行った政策のフォローをして文化や伝統を復活させることこそ、「目に見える」形での心の教育の模範の一つになるのではないのか。
 歴史は変わる。政治も変わる。もちろん僧侶も変わる。では変わらないものは何か。外的な作用によって若干の変化があるとしても、変わらないもの、それはプラスの意味での伝統の精神である。この精神とは、個人の信仰とは別ものと考えられる。そして言い換えるならば、それは風習であり、習俗であり、長い歴史に基づいた文化である。それを軽視して正しい政治も行政も行い得ると、行政にかかわり種々の決定権をもつ方々は本気で考えているのであろうか。
 中国の文化大革命が正しいものであったかどうかの判断は、あと数百年の歴史を経ないと判断ができないという。もちろん創造には破壊がつきものだ。だが、私は歴史家ではないので断言できないが、文化においてさえ「禅譲」という伝達の方式もあるであろう。むしろそのような形態の伝達が大多数であったはずだ。またこの文化大革命に、仏教的な視点を持ち込むとすると、破壊を行った政権は破壊される、という図式になることになっている。
 本当に必要なのは、そういった同じ平面での議論ではなくて、年代的に次に位置する者が、要するに「質」を変えること、高めていくことだと思われる。

 行政側の対応に落胆した生井氏は、一時期、池のことを忘れようとされていた。しかしそれから二十年、生井氏に、ある大きな偶然がめぐってくる。池の近隣に新設される県立高校の校歌作詞の依頼だ。その依頼を快諾された生井氏は考えられた。よし慈覚大師の池のことをこの歌詞に入れよう、と。たとえ池は埋められてしまったとしても、この高校が存続する限り、池は歌い継がれて残っていくであろう、そしてこの池を実在の形で残せなかった分、校歌という形で残していこう、と。
 その歌詞が冒頭に掲げたものである。「堀りし泉の 今いずこ」とある。池の元あった場所を生井氏は熟知していたはずだ。それにもかかわらず、「今いずこ」と書く。何とも痛烈な批判ではないか。
 「ペンは剣より強い」という有名な金言がある。ペンを文化の伝承ととらえ、剣を文化のことを理解しない、あるいは軽視する公権力と捉えたならば、生井氏はまさしく剣に打ち勝つペンを振るわれた方であったといえよう。


 今年は未年に当り、丑のちょうど反対側になる。それで今年、同門の天台宗寺院、牛来寺の高野名誉住職にお話をうかがい、これまた慈覚大師ゆかりの当大慈寺のHP上で忘れられていく事実を公表させていただいた。

 牛来寺にお邪魔して、お話もそろそろ終わりになろうかという時に、穏やかな高野老師は、次のように述べ、そしてため息をつかれた。
「あの水は、本当にボコボコと湧き出ていた水だったのですよ。だから埋もれてしまったけれど、今でもどこからか、水だけはきっと沸き出ていると思うのですよ。」
高野老師の何かを追い求めるような眼差しは、水がどこからか、昔のように、豊かに湧き出ている有様が見えているようであった。
 千二百年間、地元民の誇りとともに大地を潤してきた池は、不幸な歴史の中で、伝説とともに埋められてしまった。一方で、豊かにあふれ出た水そのものは、目には見えないけれど、誰にも知られない水脈を伝って、広い日本国土のどこかを間違いなく潤し、今なお生き続けていると思われる。その豊かにあふれ続ける「慈覚大師の水」を、わたしたちはみな、わたしたちの家の近くに、かつて間違いなく見た経験があるはずだ。その水のボコボコあふれる出る様子を、昔、意味もわからず歌った校歌をふと口ずさむように、わたしたちはいつかきっと、必ず、思い出す。

2003年8月25日  百十七世 誌

*栃木南高校校歌引用につきましては、同校の許可を得ています。




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