遐方記







「日常生活への感謝」
 
 放送局のホームページに掲示されている文章というものは、残念ながら、時期が来れば消えてしまうものだ。だから、今現在NHK宇都宮放送局のHPに上げられている文章を、同時に大慈寺のサイトに載せて、自分の言いたいたことを当面の間伝えていきたいと思う。ページ上でタイトルは示されてはいないが、この文章は「岩舟町の残る円仁の史跡」という題が定められた上での文章である。
 これは、NHK宇都宮放送局と岩舟町文化会館とで共同企画された「円仁と旅する古代中国、悠久の響き」というステージへのメッセージという形で、栃木県生活環境部国際交流課の葉玲君さんのものと、東京アーテチィツ合奏団の山岸宣公氏のものと同時にNHKのHPに載せられているものである。
 うーん、先日(平成15年11月17日)出させていただいたNHKのFM生放送(県域放送)のテープを聴きなおすのと同様に、自分の文章を改めて読むというのは気恥ずかしい。

2003年11月27日  百十七世 誌
 
 何度も足を踏み入れた場所であるけれど、今回の文章を書くにあたり、新たな発見を求めて再び慈覚大師円仁の誕生地(※諸説あり)を訪れてみることにした。木々が、紅葉から次第に落葉に変わろうとする時期、柔らかな日の光の降り注ぐ、静かな上にも静かな日であった。
 幹線の道路から、小さな看板を頼りに、急ハンドルで狭いたんぼ道を入っていっていく。300メートルほど先に、昼でもほの暗い林の中、円仁の誕生地(岩舟町史跡)がひっそりとしたたたずまいを見せている。位置としてはちょうど三かも山の艮(うしとら)の位置に当たろうか。
 この誕生地には池がある。円仁が誕生した時に、この水を産湯として使ったという。この池に因んでであろう、この近辺の地域を手洗窪(たらいくぼ)と呼ぶ。その池の前に建つ東に向いた小さなお堂は――もちろん実物とは異なるのではあるけれど――いつ来ても、円仁のかつての産屋の姿をあれこれ空想させる触媒となるのが不思議だ。

 いまさら言うまでもなく、栃木県には円仁の誕生地として、岩舟町と壬生町との2か所が伝承されてきている。円仁誕生時に紫雲がたなびいたという伝説一つを取ってみても、片や大慈寺の広智(円仁の仏教の最初の師)が裏山から南方に紫雲を見たといい、片や広智が薬師寺に向かう途次、北方に紫雲を見たという。もちろん、いかなる人であっても2か所で生まれることは不可能だ。けれども円仁の場合には、彼が超人なるがゆえに、両説とも受け入れることに何のためらいがあろうか。両地とも真実の誕生地として、紹介されることが許されてしかるべきだ。そして今回訪れたのは岩舟の方のそれである。
 円仁の父、壬生首麻呂(みぶのおびとまろ)は三かもの駅長をしており、その壬生家は子孫の時代まで、大慈寺(現・岩舟町小野寺)の大檀越であったことが知られている。この壬生氏で生を受けた円仁は、九歳のときに、大慈寺の僧広智に引き取られて、15歳まで修行を積んだ。その後、円仁は下野に数度帰郷しているようであるが、最初の里帰りは生涯の師である日本天台宗の祖、最澄との旅であった。23歳の円仁は数人の兄弟弟子とともに、師匠との同行の栄に浴したのみならず、最澄から各種の潅頂や受戒を、大慈寺および上野の緑野寺で受けている。したがって、その時すでに円仁が、最澄の後継者としての可能性を見越されていたと推測しても不当ではあるまい。その時、最澄一行を慕って大慈寺に参集した民衆は5万人であった。

 この手洗窪にある誕生地には、長く尊崇されてきた歴史の中で、多数の顕彰碑や宝塔を見ることができる。そのうち最も目を引くのが、日本における近代仏教研究の先駆者、東京帝大や大谷大で教鞭をとった南条文雄文学博士の碑である。これは、県下に数ある各種記念碑の中でも、おそらく屈指のものであろう。格調高い漢詩でこのようにつづられている。
『三かもの山 これ石巌々<がんがん>たり』
『師の徳に与<くみ>するは 四海のみる所』
『井あり 澄冽<ちょうれつ> 汲めどもつきず』

『十有余宗 みな其の沢に浴す』
価値あるものを価値あるものと評価する。たとえ、所属以外の宗派に属する者であるとしても碑文として残す。これがまことの教養人の姿であると感銘を新たにした。

 誕生地から車で10分ほど北上すると、上岡という地区に円仁の御母君の墓(実相院)がある。円仁は父を早くになくしたので、幼少の頃には、兄秋主<あきぬし>から漢籍の手ほどきを受けたという。しかしなぜ父親の墓ではなくて母親の墓だけが残ったのか。墓石のような石の立ち並ぶ様子を見つつそんなことを考えていたとき、突然まわりの視界がすーっと消えていった・・・。

 ・・・暗闇の中に人がいる。白装束の人が蹲っている・・・。・・・何やら舞台のようだ・・・。その人物がゆっくりとした動作をおこす・・・。はっ、と顔を上げる。お面だ。鈴を揺らしながら、何やら舞い始めたようだ。ゆっくり・・・、ゆっくり・・・両手を広げる。鈴をしゃりん、しゃりん、ならす。腰を入れてすっと飛び跳ねる。ドンと床を打つ。これはっ、延年の舞ではないか。これは、音楽劇「円仁」の中で、南洞師によって舞われた延年の舞ではないか。いや違う、違う。舞い手の動きは女性だ。そうか。そうに違いない。これは、遠く中国まで、命を御仏にささげて旅に出た息子を思い、息子のことを案じ舞う円仁の母の姿そのもの・・・。延年の舞とは、灼熱の真夏であれ、あるいは雪の舞い散る極寒時であっても、息子を案じ、ひとりひたすら鈴を振り、休むことなく舞い続ける、円仁の母の想いそのものであったのだ・・・。

 ・・・ふと、われに帰ると、墓石の上には、先程と同じ晩秋の暖かな日差しがさしていた。目の前の苔むした石塔は、時代の古さを物語っているが、高僧の母親の墓であるという理由だけでなく、母が子供を思う気持ちに地元民が共鳴し、この墓を守り続け、その結果今にその姿を伝えきたっているのだ。この思いに間違いはない。
 
 仮に、栃木県の歴史を紹介するとしても、見栄えのいい社寺だけを紹介することに、どれだけの意義があるのだろうか。歴史を語るポーズを作りながら、その実はすべってむけてしまうほどの歴史しか理解していないことになりはしないか。刈り入れられた稲が黄金色に干される田舎の風景の背後に、かつての先人が生きた、その息遣いと情熱へと想いをいたすべし。その土地に立ち、いにしえの時に想いを馳せるとき、どのような物質的遺物であっても、視界から全く消えうせてしまうのである。

 それにしても音楽劇「円仁」は見事だった。その全体を円仁の乗った遣唐船にかたどって建てられたコスモスホール(岩舟町文化会館)で、「円仁」の公演が3度行われ、その3度とも大好評を博した。平成14の正月のことだ。この劇は他の3県でも行われ、同様の賞賛を得た。その劇中、毛越寺の南洞頼賢師が、国の重要無形文化財「延年の舞」を演じられたのだった。
 また何より地元民が参加したことは最高の形で円仁を顕彰することとなった。さらに、これを機縁として「円仁」合唱団が地元に誕生したことも特筆しておくべき事柄である。
 円仁が誕生して1200年と10年あまり。あのときのパフォーマンスは、あまり自己表現が得意とはいえない岩舟近辺の人たちの、最高の表現であり、最高の矜持だったに違いない。この近辺の人々の無骨な生き様は、円仁の性格として伝えられる「性寛柔、慈悲甚深、喜怒色にあらわさず」といった部分とどことなく共通しはしまいか。
 われわれはこの「円仁」を通じて、言い表せないほど価値ある経験をした。そういった意味でまさしく「生きて」いたのである。
 文化や伝統を軽視する地域や文明は滅ぶ、といって過言ではない。文化伝承は人の心の部分と結合するが、文化伝承を軽視するものは、物質の部分とのみ関係を生じるからである。

 円仁の御母君の墓から更に北に目を向けると、遠く諏訪岳のなだらかな稜線が見える。あの山のふもとに大慈寺がある。かつては最澄が、小野小町が、一遍上人が目指した御山である。平安時代には「大雄山」とも称されたが、その立ち姿は女性的にすぎる。運よく天気のいい日には、角度によって、ほぼ同じ大きさで雪を抱いた男体山を遠く、御山の背後に見ることもできる。
 この小野寺近辺の風景が印象に残っていたのであろうか。円仁は後世、次のような歌を残している。
『雲しきてふる春雨はわかねども 秋のかきねはおのが色々』
ここから諏訪岳を目指して車で約10分、稲刈りの終わったたんぼ道に車を走らせる。

 円仁がなした業績とは一体何だったのか。なぜ円仁を評価すべきなのか。評価されるべき業績があるとしても、なぜ彼の名前が人口に膾炙しないのか。当時円仁は、その著作に対して、学問の神様・菅原道真が序文をものすほどの偉人であったのに。
 円仁は遺言で「自分の墓は目印だけでいい」と言い残した。その言葉に代表される全く謙虚な姿は、そのまま円仁に対する、後世の人の態度を決定づけたといっていい。彼は自分のなした偉業を自ら捨て置いたのである。その結果、「円仁さまを宣揚することは、円仁さまの謙虚な気持ちを台無しにする」という周囲の人々の対応となるのに十分だった。円仁だけに大師号が与えられるという情況になりかけたときに、円仁の師である最澄にも同時に大師号を与えてほしいと進言したのは、円仁の気持ちを慮った、円仁直弟子の相応和尚(比叡山千日回峰行の創始者)であった。
 さらにまた、大きなものに包まれると、その存在を忘れてしまうという事実もわれわれの経験する所だ。水や空気が近くにあるのと同じように、円仁の事業は我々の文化の基底・基礎の部分にあり、あまりにも身近すぎて気づかないのである。しかし意識されなくても、間違いなく我々の心持ち(精神文化)の支柱の一部を形成している。
 誤解を恐れずに言うならば、円仁は、日本最古の旅日記―ライシャワー元米国駐日大使の学位論文の題材である「入唐求法巡礼行記」―を書いていたから偉人なのではない。自らの信念を貫き、高齢の身でありながら命の保障のない旅に出向き、世界史に残る大仏教弾圧の中を駆け抜け、多くの文化や技術、新たな学問、思想を持ちきたり、なおかつその定着に粉骨砕身したから評価されるべきなのである。師匠を常に追慕し、分をわきまえつつ行い、その結果、日本仏教の母といわれる比叡山の基礎を確固なものとした。円仁なくしては、間違いなく今日のような日本の仏教発展はなかったということができる。今日あるような形で、日本の文化芸能の発展がなかったともいうことができる。
 それらの業績に対して、朝廷は史上初めて円仁に「慈覚大師」という賜号を与えた。一部の哲学者と自称する人が評するように、円仁が、万民平等の理想と相反する行動をしてきたというのでは決してない。その証拠として、全国に円仁が開基、あるいは中興となって寺院が600か所以上ある(天台宗典編纂所の調査による)。仮に、誰かが円仁伝説を各地に振りまいたにせよ、高慢・無反省でしかも差別的な人間に対して、これだけの伝説が実際残り得るはずはないであろう。これ程の量と質のある伝説を各地に残す日本の仏教者は、他におそらくは弘法大師空海くらいではないだろうか。

 平成15年6月、円仁開基の東北の主たる4寺院、中尊寺、毛越寺、瑞巌寺、立石寺をご朱印でつなぐという「四寺回廊」が開始されたのは周知だが、円仁ゆかりといわれる600以上の寺院を結ぶ、目に見えない回廊を渡すことも、我々の心がけ次第によっては、全く不可能であるとは言えない。そういった回廊を渡すことは、価値ある人物、価値ある業績を正当に評価することに他ならないからである。また当然のことに目を向け、日常生活の基本に感謝を捧げる動機となるという点で、価値あるものだからである。この回廊実現への意向は、いつの時代にも、日本全国のここかしこに、うつぼつとうごめき、時として頭をもたげる。

 円仁の活躍した時代、下野の国栃木県では、円仁だけではなく、円仁を育てた広智、さらに徳円、安恵をはじめとする高僧や、無名の優秀な僧侶たちが、薬師寺、国分寺、大慈寺へと多数集い修学していた。そのうち、唯一現存する大慈寺に対して唐木順三は、最澄の六処宝塔建立に関連した箇所で「住持仏法、鎮護国家(具体的には鎮護北辺)の拠点地であったわけである」(「あづまみちのく」中公文庫 248ページ)と評した。その大慈寺の駐車場から階段を登り始める。左手の木の枝に、時節柄、真っ赤な烏瓜が一つぶら下がっていた。

 天平9年開基の大慈寺は、天正年間、小田原北条と佐野(唐沢)の一部の軍勢による戦いに伴う火災によって烏有に帰した。世に諏訪岳の戦いという。このとき、大慈寺所有の円仁関連の遺物も多数消滅した。この事実から、戦国時代、しょせんはこの近辺に仏心のある者はいなかったという思いを、ずっといだき続けていたのだった。
 ところが、この文章を書いている最中、ふと見た引き出しの奥に数枚つづりの古文書を発見した。それは偶然にも、諏訪岳の戦いの直後に再鋳された梵鐘(太平洋戦争で供出される)の表面に記された文字の写しであった。そこには大慈寺全焼の直後、唐沢の殿様が大慈寺の梵鐘作成のために、多額の寄付をされたことが記されていた。とすると、唐沢城主は、何の躊躇なく寺院を蹂躙したのではなくて、自分(あるいは自分の配下の者)のなした罪に対して、懺悔の思いを深く持っていたということだ。その思いがけない事実との邂逅は、500年の時を越えて、ストレートに私の浅はかな思考を打ちのめした。それと同時に、このあまりのタイミングのよさに鳥肌が立った。

 大慈寺にある慈覚大師堂は町の文化財に指定されている。江戸末期に建築された小さな正方形のお堂であるが、甍の急勾配の曲線は、やぶさかな技術をもって作られたのではないことを示している。頂上の宝珠や、軒下で八方をにらむ獅子たちは、仏教の権威を象徴している。大師堂の中には護摩壇が備えられている。格天井の一つ一つには、詳細で美しい花鳥風月や龍神の絵などが描かれている。それらが当時一流の狩野派によって作成されたという事実からして、当時の人々の円仁への厚い信仰を見て取ることができる。
 左右に毘沙門と不動とを従え、慈覚大師円仁像が中央に祀られている。真新しい厨子を開けると、僧形で「黒い」と表現したらいいような伝・自刻の尊像がおわします。座禅を組んでいるような形はとっているけれど、その一番の特徴は何といっても、その眼光だ。生きていて、強く何かを語りかけている。そのままが、艱難に打ち勝った強い意志を表現しているようだ。一乗寺の肖像や立石寺の御首像などの柔らかな円熟した感じではなく、むしろ輪王寺にある、活動的な坐像の方に近いといった方がいいかもしれない。首から胸にかけての傷は、火災時、持ち出したときに蒙ったものだとしても生々しい。
 大慈寺には、円仁が唐から持ち帰った手香炉も寺宝としてあるが、公開はしていない。
 その他、小野寺地区だけに限っていっても、円仁伝説に関わる遺物、史跡は、文化財を除いて8点以上ある。その一つ一つを、我々は今なお手にし、目の当たりにすることができる。まさしくこの土地は、日本の「精神文化のふるさと」とよんで恥じない。

 もう、陽もだいぶ西に傾いてきた。東と西との両方に山をいだく小野寺の土地にとって、この時期から冬にかけて、日の光の恩恵はいつでもありがたい。
 これまで円仁ゆかりの主要な3か所を歩いてきたけれど、一番大切なものを忘れてはいけない。たとえば、ある土地の歴史を知りたいと思えば、まず現在のその土地を訪れるであろう。たとえ形はないにしても、歴史はその土地に保管される。そして先祖の血はその子孫に受け継がれているからである。
 したがってこれは過大に言うのではなく、むしろ強調したいこととして、岩舟町の住民が、いな栃木県の住民が、円仁と同じ空気を吸い、同じ土壌の作物を口にし、そして生業を行う。そのこと自体がそのまま円仁の史跡に他ならない、と思っている。少なくとも私には、この土地の人々が、そういった意味においていとしい人々のように感じられる。そう、口は下手だが奉仕の精神あふれる住民の上に、ときとして、円仁のイメージをかぶせるのである。

*この文章の公開はNHK宇都宮放送局の許可を取っています。





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