遐方記







「通過オーライ」
 

 世の中には様々な災害がある。地震あり、台風あり、あるいは人災というのもある。これらは大概、普通の人間には予測のつかないことばかりである。

 動物には予知の能力があるとする研究もあるようだ。そして同じように、人間にも、ある特定の人だけではなくて、一般の人にも潜在的にこの能力が備わっているという話もよく聞く。しかし様々な要因があって、その能力に気がついていないということだ。もしそういった能力が本当に一般の人にあって、かつ活用することができれば、人は幸せな人生を歩くことができるであろう、と思う。

 だが、大多数の人間にそういった能力はない。どこどこで災害があるからこの方向に行くのはやめよう、と予めわかる人というのは少ない。たしかに、そういう人がいないわけではない。一般の方でも虫の知らせで災難から助かった、という人もいることはいる。しかしそういう方々のことは、ここではとりあえず置くとしよう。

また、災害云々という話も、大きすぎる問題なので、ここでは個人の運にだけ話を限定することにしよう。

 人間生きていればいろいろなことがある。といったって、いつ、どこで、何が起こるかを知る人は少ない。そのような何が起こるかわからない未来を、誰も知ることはできないと考える人、神のみぞ知るという人もいよう。逆に運命論者は、未来は厳格なまでに決まっていて、それを特殊な能力をもった人間は知りうると考える人、運命は決まっているが、人間では知り得ないと考える人もいる。さていったいどの立場にいるのがいいのであろうか。

 自分は、運命はある程度決まっていて、ある程度知りえるという立場がいいのではないかと思う。常識で考えてもそれはわかる。

そもそも人間、生まれたときから、様々な制約がある。地域の制約、家系の制約、両親の制約、遺伝の制約・・、そういった中で誕生し、努力もそういった中での可能な範囲で行われる。極端な話、南国に生まれた子が、スキー選手を夢見ても普通は不可能であるということだ。

 そういうことから、地域を見て、家系を見て、その人の運命、大体の道筋の予想がつく。ところが、それ以外で計算できない部分がある。それが遺伝以外の、天賦の運(悲運も含む)である。これは外部から、あれこれ議論をしても結論が出る話ではない。なぜそのような運というか才能を持って生まれてきたのか、それはわからないものだ。

 そういう遺伝やら、天賦の才やら、そしてその人の未来やらを全体から知る方法があるのだろうか。もしあれば、何としてもそれを手に入れたいと人は思う。もしそれが手に入れば、自分の将来を知って正しく道を歩むことができるだけではなくて、人のために有効利用できるからだ。

 バイオリズムというのがある。これなどは、遺伝だけではなくて、天賦の才も含めて、ということは個人に焦点を当てて、自分の将来を知る一つの手立てではないだろうか。そのバイオリズム一つを考えてもわかることが、人間には、運のいいときと、運の悪いときがある。バイオリズムがどの程度正確なのかはよく知らないけれど、こういった技術を利用すれば力強い人生を歩むことができるであろう。

 このように考えると、ある程度個人の人生というのは決まっているとするのがいいのだと思う。

 しかし人間、このときに悪いことがありますよ、といわれるとあまりいい気持ちがしない。大概そういうことを商売にしている占い師さんたちは、だから注意しなさい、として片付けてしまう。だが宗教に携わる者としては、それだけでは足りないと思うのだ。このときに、事故にあいやすいから注意しなさい、として話を終えたところで、ある程度まで回避できるようにはなるだろうが、もっと確率高く回避させる必要があると思うのだ。それには何が必要なのか。それでもって世間には、様々な宗教ができ、様々なお守りが売られ、様々な方法が考えられている、と思われる。

 どれを取ろうが結構。極論すれば、仏教でなくても構わない。そしてその悪い運気の時期を「実際に」通過できるかどうか、それが大切なことである。

 その悪い運気をやり過ごすことを「通過オーライ」と呼ぼう。悪い運気のときを、大過なく過ごせた。あるいは実際に悪いことがあったかもしれない。しかし小さな災いで済ますことができた、というのも立派なご利益だ。大きな災いがあれば小さな災いに、小さな災いがあれば災いがなくなるようにと、そういった気持ちで神仏に手を合わせるということは、とても大切なことなのだと思う。それには祈りという言葉を与えてもいいのではないだろうか。何々宗教ということとは別にして。

 大げさな話、悪い時期を「通過オーライ」させるのが、宗教の根本ではないかと思う。逆に言えばそれができない宗教に存在価値はない。少なくとも現代人が必要とする宗教の分類からは、はずされてしまうだろう。

 もちろんここには詭弁の入る余地がある。「この宗教を信じていたから、これだけの災いで済んだのだ」とか、「信じていなければ、もっとひどいことになっていた」とか、その人の心と信仰分野における将来とを、縛りつける言動が生み出される余地がある。それが本当にそうなのか、あるいは宗教者側のでまかせなのか、それを判断するのは信者さん側の問題とするしかない。宗教も様々、人も百人百様なので、これ以外の言葉をもって説明することはできない。個人としては、出入り自由の宗教が本当の宗教のあり方だとは思っているが。

 これは自分への戒めである。祈りの心がどこまであるか、祈りの心がいつもあるのか、宗教者を語る価値があるのか、目の前の人の不運を「通過オーライ」させられるのか、どうか。

                                                                      200641 日  百十七世 誌





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