鳥人間コンテスト

JAPAN INTERNATIONAL BIRDMAN RALLY
鳥人間コンテスト選手権大会
「大空を、自分の力で自由に飛びたい!」
はじまりは、この夢への想いからでした。
1977年、夏 30th Anniversary DVDより一部抜粋
「風のように軽やかに、雲のように雄大に、鳥のように自由に大空を飛んでみたい」
この人間の古くからの願いからはじまった、鳥人間コンテスト。
多くのバードマンたちが夢と希望を乗せ、思い思いの機体で夏の琵琶湖へと飛び立ちました。
大会概要
読売テレビ放送株式会社が毎年夏に滋賀県彦根市の琵琶湖東岸で開催する「鳥人間コンテスト選手権大会」
(JAPAN INTERNATIONAL BIRDMAN RALLY)。
この大会はテレビ番組制作を目的とした自作人力飛行機による飛行距離および飛行時間を競うものです。
開催にあたり、読売テレビは運営委員、審判団、制作委員、事務局等からなる大会実行委員会を編成します。
この大会が空を飛びたいという人間の夢を実現させ、広く一般視聴者に航空機に対する関心の高揚に寄与することを願っています。
鳥人間コンテストの歴史
第1回大会 1977年7月2日
イギリスで行われていた「Selsey Bird-Man Rally」のルールに基づき、「びっくり日本新記録」の企画の一つとしてスタート、
当時の世界記録である48mを更新すべく、37機がエントリー。優勝は、双胴固定翼で82,44mを飛び、世界記録を
大幅に更新した。
第2回大会 1978年7月21日
前回の世界記録更新を受けて「JAPAN INTERNATIONAL BIRDMAN RALLY」として世界大会へと発展。
外国人選手を含む81人がエントリーした。ロガロ翼に尾翼を付けた機体で79,78mを飛び優勝
第3回大会 1979年7月20日
プラットホームに5度の傾斜角度をつくり、飛行機の発進を行いやすくした。固定翼で88,53mを飛び世界記録を更新して優勝。
参加者の機体は、飛距離をのばすために、徐々にロガロ翼から固定翼へと移行していった。
第4回大会 1980年7月19日
大会会場を近江八幡市から、現在の彦根市松原水泳場へと移動。優勝は、固定翼の機体で新記録の101,60mをフライト、
初めて100mの壁を突破した。
第5回大会 1981年8月8日
雨天決行されたが、雨で飛行機が破損し、棄権者が続出。優勝は、ロガロ翼で95,83m
第6回大会 1982年8月7日
快晴のもと行われ、好記録が続出。100m以上フライトする機体が6機も出た。そんな中、優勝は新記録の144,0mの大記録
だった。
第7回大会 1983年8月6日
12機が100mを越え 優勝は162,62mの新記録。この大会で初めて、人力プロペラ機が55,21mを飛び、人力プロペラ機の
可能性を示した。
第8回大会 1984年8月4日
コックピットに風防を付けた機体で、163,03mを飛び新記録で優勝。また人力プロペラ機も健闘し、2機が100mフライトを達成。
第9回大会 1985年8月3日
滑空機で初の200mフライトを実現し214,51mを飛んだが、優勝は人力プロペラ機で新記録の290,45mを飛び、
人力プロペラ機が初優勝。滑空機、人力プロペラ機ともに飛躍的に発展し、歴史に名を残す、革命的な大会となった。
第10回大会 1986年8月2日
前年の、人力プロペラ機の優勝に伴い、滑空機部門と人力プロペラ機部門が独立して、正式にスタート
滑空機部門優勝は158,38m。人力プロペラ機部門では新記録の512,20mという前人未到の大記録が生まれた。
第11回大会 1987年8月1日
天候不順で午前は雨、午後は強風に悩まされたが、滑空機部門は176,71m、人力プロペラ機部門は435,56mで優勝。
第12回大会 1988年7月30日
午後から強風となり、人力プロペラ機部門が中止。しかし、滑空機部門では5機が200mフライトを見せ、大会を盛り上げた。
新記録の261,90mを飛び優勝。
第13回大会 1989年7月29日
台風の影響で強風が吹き、前年同様人力プロペラ機部門が中止。滑空機部門の優勝は、225,90mを飛び、
女性が初の総合優勝を飾った。
第14回大会 1990年8月4日
3年ぶりに行われた人力プロペラ機部門では、驚異の新記録1810,54mという初の1000m超えフライトを見せて優勝。
滑空機部門は強風のため、中止となった。
第15回大会 1991年8月3日
滑空機部門は、初の300mフライトを達成し、新記録の318,75mで優勝。人力プロペラ機部門は、500,20mで優勝。
第16回大会 1992年8月1日
滑空機部門は、232,08mで優勝。人力プロペラ機部門では初の2000mフライトとなる新記録の2019,65mで優勝。
第17回大会 1993年7月31日
滑空機部門は、248,31mで優勝。人力プロペラ機部門は2180,78mの新記録で優勝。
どちらも学生チームで、学生が活躍する大会となった。
第18回大会 1994年7月30日
雷雨と強風の中、滑空機部門は、274,72mで優勝。人力プロペラ機部門は2371,65mの新記録で優勝。
第19回大会 1995年7月29日
滑空機部門は、329,83mの新記録で優勝。人力プロペラ機部門では、3機が5000m超えのビッグフライトを見せ、
優勝は驚異の8764,0m。肉眼では見えない水平線の彼方までの飛行となり、翌年の大会からGPSが導入されることとなる。
第20回大会 1996年7月27日
滑空機部門は、300,36mで優勝。3年連続で同じパイロットが優勝し初代ミスター鳥人間となる。
人力プロペラ機部門では、9761,56mという新記録で優勝。
第21回大会 1997年7月26日
台風9号の直撃を受け、大会史上初の全面中止。
第22回大会 1998年7月31日・8月1日
この年より2日間にわたり実施された。良好なコンディションが得られ、好記録が続出。滑空機部門では、理論上限界と
言われた364,08mの新記録で優勝。人力プロペラ機部門では、琵琶湖の対岸へ到達する23688,24mという
驚異的な新記録で優勝した。この対岸到達で、大会初の着水命令が出された記念すべき大会となった。
第23回大会 1999年7月30日・31日
強風・日没のため、滑空機部門では2機を残して大会終了となった。滑空機部門は、345,92mで優勝。
人力プロペラ機部門は、4913,46mで優勝。
第24回大会 2000年7月28日・29日
20世紀最後の大会でも再三の風待ちに悩ませれ。滑空機部門8機を残して大会終了となった。
滑空機部門優勝は256,53m。人力プロペラ機部門は7945,85mで優勝。前年につづいてチーム2連覇達成。
第25回大会 2001年7月27日・28日
参考競技として人力ヘリコプター部門を新設。5チームが出場、6,30秒という滞空時間で優勝。
滑空機部門では、前人未到の400mという記録を破り、417,49mの新記録で優勝。
人力プロペラ機部門は、3823,70mで優勝。
第26回大会 2002年7月27日・28日
人力ヘリコプター部門を正式に導入。滞空時間4,07秒で優勝。
滑空機部門では、前年優勝者が再び400mフライトを見せ、414,33mで優勝。
人力プロペラ機部門では、6201,74mで優勝。
第27回大会 2003年7月26日・27日
ライト兄弟の初飛行から100年目に当たるこの年、ビッグフライトが連発。
滑空機部門では、自らの大会記録をさらに上回る新記録の420,48mで3連覇を達成。
人力プロペラ機部門ではなんと琵琶湖大橋まで到達するという驚異的な新記録、34654,10mで優勝。
琵琶湖大橋という、それまで大会関係者の誰もが口にしなかった”究極の目標”へと到達した。
余力を残しながらも着水命令に従い、大橋手前で着水した。
人力ヘリコプター部門では滞空時間2,89秒が優勝。
第28回大会 2004年7月31日・8月1日
人力プロペラ機部門で折り返しの新ルールの適用。滑空機部門にもフォーミュラクラスが新設され更なる展開を目指したが、
台風10号の影響を大きく受け、人力プロペラ機部門は強風のため中止、滑空機部門オープンクラスは173,26mで優勝
フォーミュラクラスは30,79mを飛び初代チャンピオンに。
第29回大会 2005年7月16日・17日
絶好の気象条件のもと、人力プロペラ機部門では折り返しフライトに初めて成功。駆動系のアクシデントに見舞われながらも
22813,05mで優勝。滑空機部門は、376,80mが優勝。フォーミュラクラスは50,77mが優勝。
第30回大会 2006年7月22日・23日
30回記念特別競技として、人力プロペラ機タイムトライアル部門を開設、8機がエントリーしたが、唯一スタート地点に
戻ってきたチームが7分2秒61のタイムで優勝。人力プロペラ機ディスタンス部門では折り返しに成功し28628,43m
で優勝。滑空機部門は258,21mが優勝。フォーミュラクラスは157,37mが優勝。
第31回大会 2007年7月28日・29日
滑空機部門では理論上の限界を超え483,47mの驚異的な新記録で優勝。人力プロペラ機部門は3998,51mが優勝。
フォーミュラクラスが151,31mが優勝。人力プロペラ機タイムトライアル部門では昨年につづき唯一スタート地点へ
戻ってきたチームの、4分37秒62が優勝。
第32回大会 2008年7月26日・27日
人力プロペラ機ディスタンス部門で折り返してプラットホームに戻ってくるフライトに成功、36,000,00mを達成し優勝。
滑空機部門は377,98mが優勝。フォーミュラクラスは、140,57mが優勝。人力プロペラ機タイムトライアル部門は
5分10秒00が優勝。
第33回大会 2010年7月24日・25日
昨年、経費削減などを理由に開催されなかったが、多くの方からの再開を望む声に答えて、Iwataniスペシャル
鳥人間コンテスト選手権大会として復活。人力プロペラ機部門は18556,82mが優勝、
滑空機部門は421,11mが優勝。タイムトライアル部門ではそれまでの記録を大幅に更新する1分55秒02という
大記録が誕生した。
第34回大会 2011年7月30日・31日
滑空機部門優勝314,41m 人力プロペラ機タイムトライアル部門優勝2分08秒63
人力プロペラ機ディスタンス部門優勝18687,12m テーマ「飛ばなきゃならない理由がある」東日本大震災を乗り越えて
東北の強豪大学が人力プロペラ機ディスタンス部門で優勝、アースマラソン完走者のタレント間寛平62歳も最高齢で出場。
大会のロゴマークステッカー(第12回大会)
一般販売品はブルーですが、大会出場者のみこの赤いステッカーがもらえます
飛行順番の抽選券(第12回大会)
大会前日に行われます、13機目にフライトすることになります。
プラットホーム
第4回大会より彦根市松原水泳場となりました。1か月かけての建設です。
湖岸より約100メートル離れています。助走路10メートル、高さ10メートル、助走しやすいように5度の傾斜がついています(第3回大会より)
第12回大会出場までの記録
一年前から制作開始、仕事から帰宅してからと日曜日は終日制作となります。10か月ほどかかりました。
書類審査をへて、出場が決まるのが4月頃ですがそれでは制作が間に合わないので先行します。出場出来るかは祈るだけです。
出場が決まり組み立て確認をしながら急ピッチで制作。
大会開催2日前に栃木市〜琵琶湖をめざしてトラックで移動
琵琶湖東岸、彦根市松原水泳場へ到着、テント設営及び機体の搬入、そして天気を見ながら組み立て。
大会前日、審判団、審査委員による機体チェックがありそれに合格しないと失格となります。この時いろいろ質問され緊張します。
機体検査も合格となり、夜を徹して機体の組み立て作業がつづきます。
大会当日朝から晴天に恵まれ、滑空機部門から順調に競技がスタート・・・
人力プロペラ機部門は午後からなので、最後の細かい制作が続きます。
組み立て完了!、あとは順番待ちです。
ところがお昼頃から風が強くなり始め、滑空機部門終了後風待ちに、気象台予想では、この風は今後
強くなることがあっても弱くなることはないとの予想、残りの出場者全員集めてのミーティング、
初めに辞退者を募る・・・残った出場者は規定により、日没競技終了まで風待ちに・・・
その風は収まることなく、無情にも競技終了となりました。
こうして第1回大会をテレビで見て以来、12年越しの夢は記録無しに終わりました。
第12回大会記録、
フライトナンバーH82:パイロット、つかやん 記録無し
フライトナンバーH82は個人(パイロット)に与えられたにコンテスト登録番号なので、以降の大会出場時も同じ番号です。
第13回大会出場までの記録
第12回大会終了後すぐに、一から設計・製作を見直し、10か月ほどかけて制作。
飛行順番の抽選券(人力プロペラ機部門15番目のフライトとなります)
昨年、現地での組み立て作業にかなりの時間がかかってしまった事を改善し大会当日朝から組み立てても
大丈夫なようにしました。
組み立ても順調ですが、(注)、この時はまだ琵琶湖側(飛ぶ方向を向いています)
今年も昨年同様にお昼頃から風が変わり始め組み立て終了の頃には完全に逆風となってしまい琵琶湖を背に
していなければ機体が破損する恐れが出てきました。後ろに見えるプラットホーム場では滑空機部門が行われて
いますが、再三にわたる風待ちにより時間ばかりが過ぎて行きます。
風が悪い中、時間との勝負になって来ましたが、いよいよフライトに備え飛行台めざして移動開始。
プラットホーム直前まで来ました。
ここでまたフォローの風が強くなり風待ちに、少しでも風の影響が無いようにと、岸から離れ防風林の所で待機、
時間だけが過ぎて行きます、そして人力プロペラ機部門出場者ミーティングへ・・・
全機フライトは風も悪いし時間もないが、日没ギリギリまで競技を続行。
そして自分のフライトから5番前でプラットホーム上の機体が強風で破損、これ以上の競技続行は危険との判断と
日没により競技終了。ようやく辿り着いたプラットホームに続くデッキにて・・・
今年も飛べなかったが、遠路遥々応援に駆けつけてくれたみんなと一枚
第13回大会記録
フライトナンバーH82:パイロット、つかやん 記録無し
第14回大会出場までの記録
2年続いて人力プロペラ機部門中止を受けて、この年は最初にこの部門からのスタート
なんと一番くじを引き当て最初に飛ぶことに。
一番機のフライト時間は午前6時、昨年の機体を少し改良した(特に軽量化)のちにそれがあだとなる・・・
組み立ても順調でした。飛行台手前で全員で記念撮影、(プラットホームに上がれる人数は数名なので)
プラットホームに向けて移動
早朝フライトとなり遠方からの応援団が間に合わず応援団会場にはこれだけです。
夢にまで見たプラットホーム上!
ここに来るのに3年かかりました。
機体をセッティングしたらまず、山崎審判長から注意事項と機体の最終的な安全確認、
ここでフライト中止(失格)となる機体もあります。
つづいてテレビ放映を目的とした番組制作上重要な、フライト一番機インタビュー
今年のレポーターは女優で歌手の大沢逸美さんです。
なにかを指さしていますが、大会史上初となる小型VTRを翼に搭載しています。
フライト直前、緊張しています。ここで山崎審判長から、サポートは2〜3名でとの指示がありました。
番組スタッフからは、準備ができたらとっとと飛びま〜〜すの声が、思わず全員爆笑でした。
さぁ、いよいよテイクオフ、この後写真を撮る時間が無いほど真っ逆さまに落ちたので画像はここまで・・
機体の残骸を手に無事、琵琶湖から帰還
応援してくれたみんなにひたすら謝るだけでした。そして笑うしかなかった。
第14回大会記録
フライトナンバーH82:パイロット つかやん 記録:測定不能
こうして14年越しの夢と、3年越しの鳥人間コンテスト出場は
膨大な制作時間と、制作費を投じましたが約2秒で幕を閉じました。
この時の目標に向かって突っ走る情熱は、現在のバンド活動に生きています。