昨日の夜、18時過ぎのことだ。
職業訓練が終わり、その日のうちに病院へと向かった。
祖母は癌だった。全身に転移し助からなかった。
最初、診断を聞いた時点で自分にはこれはながくないだろうと直感していた。
だから、診断を聞いた時点でぼろぼろと涙が自然とこぼれていた。
病気の進捗が悪くなるにつれて余命の判断が医師から告げられたが、
祖母の必死に生きようとする意志が余命をのばした。
祖母は強かった。
祖母は私の育ての親だ。両親が共働きで家に弟とふたりしかいないなか、
祖母は私の母親になってくれた。いらぬ心配も山ほどかけた。
他人のいうことをきかなくなった反抗期の頃。
派遣で使い捨ての現実をみて全てにたいして絶望しなげやりになった頃。
ひとり上京し、就職先の会社が倒産してしまった頃。
不安障害になり、通院しながら小さい会社を転々とした頃。
なにもかも嫌になり死にたくなった今。
そんなとき、いつも支えになってくれたのが祖母だった。
祖母は誰よりも強く、やさしかった。
祖母が死んでしまったら自分はどうなるのか。
考えるだけでも恐ろしかった。
様態が悪くなったとの知らせを受けて地元の病院へ電車を乗り継いで向かった。
2時間以上かかってしまった。祖母は生きていた。
最後の最後に私を必死に待っていたのだ。私は昔話をした。
実家で暮らしていたあの頃のこと。
よく弟と地元のお祭りにいっていた頃のこと。
おばあちゃんがつくってくれた手料理のこと。
話はつきなかった。
状況が一変したのは新しい抗がん剤の点滴を変えてすぐのことだった。
急に祖母の呼吸が乱れ始めた。
看護師があわてはじめる。
心電図の波をうつ機械が病室へと運び込まれる。
その間、私と看病をしていた義兄弟が必死に声をかけあった。
瞳孔が完全に開いていた。
呼吸が止まった。
心電図の波が不規則に乱高下し、一直線になった。
私は祖母の名前を叫び続けていた。
全てが途絶えた。
今となって言えるのは、祖母が死んでも私は私だった。
明日になればまた変わらぬ毎日がやってくる。
一晩たち、強かったと思えたはずの祖母の手は冷たくなっていた。
ついさっきまで死にたいとおもっていた自分の手はそれを跳ね返すほど熱をもっていた。
生きるということがなんなのか、私にはわからない。生きる意味が私にはない。
しかし、死んでいった祖母のぶんまで生きなければいけないと冷たい祖母の手を握って私は思った。