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 神様は乗り越えられる人にしか試練は与えない。束縛があるからこそ、飛べるのだ。悲しみがあるからこそ、高く舞い上がれるのだ。逆境があるからこそ、走れるのだ。涙があるからこそ、前に進めるのだ。世界の名言集をまとめた本を私は図書館で読んでいた。本から視線を窓の外へと向ける。まぶしいほどの陽のひかりがアスファルトと集合住宅のコンクリート壁を照らしていた。なにが正しくてなにが悪いのだろう。私は意味もなく考えた。正しいことがあるということは同時に間違ったことがあるということだ。仕事が全てで今働いている人がいるということはそうでない人間がいるということだ。世界は広いということは世界は狭いということだ。そして世界が狭いということは世界は広いということだ。最初があれば最後があるということだ。3回目の失業認定日が今日だということを私は現実味のない視線の先に感じた。最後があるということは最初があるということだ。


 私はなにをしているのだろう。失業してから半年が経った。職安から帰る道すがら地下鉄のホームで私は迷っていた。踏み出すべきか否か。私は間違ったことなどしていない。よりよい環境を求めそして変えようとした。それが悪い方向に転んでいるだけにすぎない。少なくともいまは。これから先、いい方向へ進むかもしれない。私は上着のポケットからデパスの錠剤を一粒とりだして口に放り込んだ。もうすでに慣れきったように私は舌先でその錠剤を転がし飲み込んだ。これから先、その先にいったいなにがあるというのだろう。期待すれば裏切られる。何処へいっても私は以前の私には戻れない。ありのままの自分をみつめ、ありのままの自分を受け入れる。それが答えだとするならば、今の私には無理だ。期待、裏切り、絶望、希望。その先にあるものは。そして私が立っているこの黄色のラインを踏み越えた先にはなにがあるのだろう。なにもない。きっと、それはわかりきった答えだった。夢も希望もあったもんじゃない。毎日必ず起きる東京の人身事故のひとつにカウントされるだけだ。自殺。自を殺す。己を殺す。なぜ私は私を殺そうとしているのか。そんなことはどうでもいい。楽になれるのならばそれは私が選んだひとつの答え。私は一歩を踏み出す。地響きと腹の底から逆流する胃液とが私の背中を押した。一歩、あと一歩だ。そうすれば楽になれる。視線は宙の一点を見つめていた。そして片足を浮かせた瞬間、私の視線になにかが横切った。それは地下鉄の排水溝から現われたドブネズミだった。私がそのドブネズミに視線を動かした刹那、ドブネズミも私を見た。一瞬、光がそのドブネズミを照らしつぶらな黒目が確認できた。次の瞬間、ドブネズミは電車の下敷きになった。


 私は死にぞこなった。部屋につくなり万年床へ横になった。夕暮れの日差しをカーテン越しに受けながら私はうたた寝をした。それはまるで死人のように不思議と熟睡できた。夢を見た。過去のこと。過去の職場のこと。同僚、先輩、後輩、上司。出向先で出会った人たちのこと。私をしかってくれた営業のこと。夢のなかの私は生き生きとしていた。希望をもっていた。向上心をもっていた。そしてなによりそんな私がいまの私から見てうらやましかった。病気を患うまえの私は田舎者でただただがむしゃらだった。仕事に情熱をもっていた。明日の私を信じていた。可能性なんて青臭いものを信じていた。同僚と笑いあい将来を語り合った。目が覚めた頃、私はひどい憂鬱感に支配された。あのとき死ねばよっぽどすっきりしたのかもしれない。こんな現実をつきつけられずにすんだのかもしれない。それだけが心残りだった。窓のそとはすっかり深夜に染まっていた。洗面所で顔を洗い鏡を見た。

「ひどい顔」

 私は鏡に向かってつぶやいた。それでも夢に見た頃の私の面影を私は無意識に探していた。少しずつでいい。私はあの頃の私を取り戻そう。これから生きる理由。それだけの理由があれば、あの頃の私はがんばれたはずだ。

[EOF]


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