現代人の法話 
〜 真剣に祈る 〜

 貴方(女)は神仏に真剣に祈ったことがありますか?現代では私たちは割合恵まれた生活を送っているので、人生上の間題で悩み、真剣に祈るということをしなくても済むようになりましたが、一たん重病に見舞われ、倒産の浮き目にあったりすると何とかその苦難から逃れようと助けを求め、神仏に祈るようです。しかし、その苦難も去ってしまえば「喉もとすぎれば何とやら」で、神仏の加護や周囲の助けを忘れてしまい勝ちです。しかしながら日頃から真剣になって神仏に祈り、感謝の気持ちを抱いて毎目を送っている人にはかならずその御利益をもたらしてくれるでしょう。
 世界的宗教の教えには必ずといっていいくらい、有限な人間を超えた絶対の存在に対して、何らかの形の「祈り」が見られます。例えばキリスト教の「主の祈り」、イスラム教の「デイクル」、インド教の「ジヤパ」、南方仏教の「パリッタ」、密教の「マントラ」(真言)や浄土教の「称名念仏」など、祈りの対象が「神」であろうと「仏」であろうと、私たち(有限者)が無限の絶対者に祈りを捧げるために、その名を呼ぶ言葉が吐かれます。
 そこには、名称そのものが「はたらき」(実質)に他ならないとする、名に対する信憑性がうかがえます。「祈り」はときに現世利益的な祈願請求と受け取られるものもありますが、本来は自己を超越して無限なるものと合一させようとする絶対者からのはたらきかけなのです。自らのカで称え、救われると思っている事は、実は絶対者のカ(本願)によって支えられている一部であることなのです。それに、気づかされたとき、自ずと謙虚にならざるをえなくなってくるのです。



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