現代人の法話 
〜 お寺はさぼっている? 〜

 月刊誌『中央公論』十一月号誌上で、東大名誉教授の養老孟司氏と曹洞宗の僧侶で教育評論家の無着成恭氏が「お寺はさぼっている?」と題しての対談が目にとまりました。
 そこで養老さんは、「こんにち医療問題が深刻になって、医者が患者に打つ手がなくなったときに告知が遅れるのは、患者からそれではどうしたらよいか、と聞かれたときに、坊さんのところに行きなさいといえないからだ」と述べています。すなわち、肉体的な病気は医者が治療するが、それ以降の精神的な治療は本来ならぱ宗教者がすべきであるのに、それをせずに医者がそれを代行しているのが現状だというのです。まことにもっともな意見で、私たちはそうしたいと願っており、いつでも御要望に応える用意が出来ています。
 しかし、今までの行きがかり上、それをしようと坊さんが末期症状の患者を見舞いに病院へ行こうものなら、「どなたが亡くなったんですか」という話になってしまうんですね。
 というのも、一般の人々の感覚では、坊さんは葬式・法事を司るのが専門で、それ以外のことをするのは余計なことだと思っているからではないでしょうか。坊さんは自分の修行と多くの人々の精神的救済をするのが本来の仕事であったものが、明治維新当時の政府の政教分離や廃仏毀釈政策以降、国民の教育や医療(精神的なものを含めて)に携わるべきでないという風潮が一般化し、坊さんも不本意ながらもその政策に追従せざるをえなかったという事情があるからです。したがってそれにかまけて「葬式・法事でも・しか」従事しないかのような錯覚を起こし、広い境内地に住んで、あたかも優雅な生活をしているように思われても致し方ないでしょう。たしかにそういう向きもあるからこそ冒頭のような批判が生まれるわけで、私たちはそれを真摯に受け止める必要があります。もしそういうお寺があったらどしどし批判するとともに、その設備を積極的に活用すべきでしょう。
 お寺はもともと死んだ人ばかりでなく、生きた人にサービスするところなのです。そして、その毎日はそんなにラクなものではありません。たとえば、お寺は年間を通じて休日がなく、寒風の吹くなかでも毎朝六時前には起きて鐘つきや読経をし、広い伽藍・境内・墓地を清浄に保ち、法務や寺報の発行に携わり、啓蒙書の執筆、教務や講演出張、そして教誨・自治会のボランティア活動など、四六時中、席の温まるひまがありません。したがって私など、かつて一度もパチンコやゴルフはおろか家族揃って旅行をしたことがありません。そして生きている人のために色々な催し物を計画し、実行しています。もしそれでも「お寺はさぼっている」というのならあえてその批判を率直に受けたいと思います。



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