現代人の法話 
〜 共同生活体験のすすめ 〜

 「今時の若者はだらしなくて困る」という言葉を年配の人からよく聞きますが、たしかに二十代の男女は共に茶髪や金髪に頭髪を染めて携帯電話を持ち、男性は耳にピアスをはめてやぶれた半パンツをはき、女性はショートパンツにオイラン靴をはいて町を闊歩している姿をみかけ、いったい彼(女)たちは何を考えて生きているのか疑問に思うことがあります。しかしながら、それがこの世の現体制や大人たちの偽善ぶりに対する反動や反発からのいわゆるつっぱった生き方なのだと考えると、なるほどと頷ける点もあります。
 いくら最近は政治不信で景気は低迷し、リストラによる失業者が増えて社会不安を醸しだし、お先真っ暗の不透明な時代の真っ只中にあるとはいえ、おそらくわが国くらい経済的に恵まれて生活するのに便利な国はなく、通信運輸の発達にともない、情報はマスコミやコンピューターを媒体に四通八通して国内は日帰り圏内になり、車をはじめ電子や電気機器は国民全体に普及し、バラエティに富んだ食生活は世界最高です。そうした中にあって、戦前への反動からか団塊の世代以降、大人も子供もおしなべて甘やかされて育てられ、近代合理主義のイデオロギーも有効性を持ちえず、かといって前近代的なものへ後戻りすることも出来ず、お先真っ暗な時代にあって、誰もが何に頼っていいのかわからず、立ち往生しているのが現状ではなかろうか。そこで従来の国家や宗教や民族の依って来たところのイデオロギーを超越し、グローバル・スタンダードに基づいた共通理念を希求する声が高まって来ている。
 もしこうした共通理念を説く教えを既存の世界の思想から探すとしたならぱ、それは仏教ではないかと思う。(これはかならずしも既存の葬式仏教教団を意味しない)なぜなら、仏教は教祖の恣意的な発想(フィクション)や近代合理主義や政治・経済体制のようなイデオロギーではなく、それらを超克する普遍的法則を持ち合わせているからだ。釈迦は仏教の開祖であるが教祖ではなく、ただ人々に自分の悟り救われた道や世の中が無常で無我であるという仕組み(法則性)を示したにすぎない。
 それはちょうどニュートンの運動の法則である「質量と加速度の積は力に等しい」という法則に似ている。すなわち、世の中の全ての存在は実体がなく、縁起の法則(条件と手段により変化する)に基づき絶えず生成発展しているのであり、この法則に逆らって自分や自分の所有物に固執するところから苦しむのだと教えている。その状態から脱するには、信じると信じないにかかわらず、この宇宙の法則に則った生き方をするかどうかにかかっており、そうすることによって悟り救われると説いている。それはちょうど今日のデモクラシーの世の中で私たちが選択出来る自由な市場原理に似ている。
 残念ながらその仏教も未だ古い衣を身にまとい、わが国では他の宗教と同一視して、過去の遺産くらいにしか評価されず、その教えを真剣に繙こうとする人が少ない。ところが一歩、外に出てみれぱ欧米諸国では、行き詰まったキリスト教や近代的合理主義に突破口を与える思想として、仏教を再評価する声が有識者の間に日増しに高まっている。
 私たちがもし新しい時代の到来に目を向けず、膠着状態にある旧態依然の政治、経済、教育、宗教制度に安住して「何とかなるだろう」と高をくくっているならば、こうした世界の趨勢から立ち遅れ、いつのまにやら後進国に逆戻りし、自分をダメにしてしまうのがオチだ。そうならないためにも、いかなる供給者も受給者も、お互いがその持っているモノや情報を開示し交換して、誰もが自分がよいと思うものを手に入れ、実行しなけれぱ、ほんとうに豊かで平和な世界での、しあわせな自分にはならないことだろう。



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