現代人の法話 
〜 はたらく喜びを 〜

 今日の世界では共産主義や社会主義が敗退して、自由主義や資本主義が人々の生活を司り政治経済機構の主流を占め、誰もがそれを当然のことのように受け止めています。そのお蔭で科学・技術や金融機関が発達し、私たちの生活が快適になったのですから文句を言う筋合いではありませんが、どうも最近の世の中はその行き過ぎが目につくようになって来ているような気がしてなりません。というのは、本来、私たちが直接使い、管理すべき機械やお金が自分たちの手の届かないところでひとり歩きしているからです。
 かつては、モノを作るには自分が材料を集めて工夫をし、自分の手で仕上げたものですが、今日では機械やロボットが私たちの仕事を代替し、素早く仕上げてくれます。また、お金も実際に働いたり、品物の価値に見合った代償として支払われてきましたが、最近では実際に働いたり物品と交換しなくても、利子や配当などの利鞘稼ぎなどの投機的なマネーゲームに用いられて、かえってそのほうがお金が儲かるようになったからです。もし、この状態が続くようであれぱ、近代的機能や資本を所有して使いこなす、頭のいい一部の企業家や金融プロがモノを作らずして世界の富を独占し、末端の大衆はその管理下のもとで酷使されるか、はたらく意欲を喪失してしまうにちがいありません。
 私たちは従来、何かを自分の手や頭で作り上げたときに、ささやかな人生の充実感が生まれ、生き甲斐を感じ取って来たものです。たとえば農家の人が農作物を生産したり、大工さんが建物を建てたり、職人さんが道具を作ることに喜びを感じ、それを市場でお金と交換して生活の糧として来ました。市場での交換価値こそありませんが、家庭の主婦の子育てもこれに含まれます。また、そうした形あるものにかぎらず、理論とか技術とかサービスといった抽象的創作物も含まれ、学者や教師や技術者や芸術家やスポーツ選手などは、人間や機械や作品や成績を作り上げて社会にその成果を還元して来ました。しかしながら、今やそうしたモノを作りだす人よりも、何も作らずにお金をうまく運用して増やす金融界や投資家が幅を効かす現状は、どこかおかしいと思いませんか。
 かつて中国の百丈禅師は「一日作さざれば一日食わず」と語ったことがあります。私たちはたとえお金に換算されなくても、あるいはそれを誰に認めて貰わなくても、自分でつくったモノに対して喜びを感じるような人間になりたいものです。もし、私たちがそうしたモノを作り出す喜びを失い、怠け心を起こして働かず、お金儲けに奔走するとしたら、はたしてまともな人間と言えるでしようか。



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