現代人の法話 
〜 私たちにとっての人生とは? 〜

 あなたは今まで、何のために生きているのか、考えたことがあるでしようか。昔の道歌に「いつも三月花の頃、私しゃ十八、嫁十六、使って減らぬ金百両、死なぬ子三人親孝行、死んでもいのちのあるように」と歌われていたように、しあわせとは目常卑近なところで経済的にも健康にも、また親孝行の子供にも恵まれ、家庭円満で長生きできる状態が望ましいとは庶民の夢でした。今日の世の中ではさしずめ、家にあっては快適な部屋でうまい物を食べて面白いテレビを見、休日には素敵な洋服を着て街を濶歩し、友達と楽しく語り合ったり買い物したり旅行に出掛けることができるといったところでしょうか。このようにお金もあり、健康にも恵まれ、ヒマもある生活が望ましいにちがいありませんが、そうは問屋が卸さず、その逆で、周囲との争いごとが絶えず、お金もなく、病気がちで、ヒマもなく、生活のためにあくせく働いて、あっという間に毎日が過ぎ去ってしまい、いつのまにやら歳をとって人生の店じまいをしなければならないのが現実のようです。はたしてそれで自分の人生がしあわせであったと言い切れるでしようか。
 そうしたことから、生きるのに嫌気がさして、周囲に当たり散らして危害を加え、とどのつまりは自分のいのちを絶つ人がめっきり多くなったようです。最近の統計によると一年間に日本人の自殺者は三万人を突破し、これは交通事故による死亡者より多い数です。その原因は折りからの不況による生活苦からというより、生きる根拠を失ったからではないかと思われます。かつてはこうした生命の大切さを宗教や道徳が教えてくれたものでしたが、戦争はそうしたものを過去の封建的な遺産として一蹴し、それにとって代わる科学思想に裏打ちされた学校教育の中では一切教えることを拒んで来ました。今日の社会では知識や技術や資格による合理性や効率性が強調され、人間の情けや悲しみや涙といった情緒的な側面が否定され拒否されて、人間関係がドライになった感があります。そして、それを癒す手だてがどこにも見当たらないというのが現状です。ここでいくら、かつての宗教や道徳の復権を説いたところで猫に小判でしょう。特に日本人にとっては宗教や道徳といったものには、それにまつわる過去や最近のいまわしい事件から、無関心乃至は拒否反応が強いようです。
 最近、文部省の科学研究費を受けた「日本人の宗教意識と行動」の調査(代表・阿部美哉国学院大学学長)によると、全国の成人で「信仰や信心を持っている」と答えた人はたった二七%だったそうです。そして、全体の七割が神社仏閣に初詣に出かけ、過半数が盆や彼岸に墓に詣でているものの、「神社や寺の総代会や護持会」といった日常的な活動にはほとんど参加していないという結果が出ています。宗教団体別の信頼度は、神道が四割、仏教が六割、キリスト教が三割で、新宗教は三%と少なく、逆に「信頼できない」が八割に上り、「金もうけ主義」「強引な勧誘」などのマイナスイメージが強いといわれています。このデータを見るかぎり、一般的に日本人は、特定の宗教にコミットすることを潔しとしないが、無自覚的な宗教心を持っていると言えそうです。
 他方、外国ではかつての共産圏の国々を除き、大抵の国で(特にイスラム教国)宗教は人々の日常生活に欠かすことのできない規範や習慣になっており、宗教を持たない人は「信用がおけない人」と言われるくらい、宗教と個人が表裏一体となった生き方をしています。それにひきかえ、わが国では宗教とは国家や家の存続のために与えられたもので、個人の信仰や信心とは別物という考え方をする人が多く、したがって体制や制度が代わるにつれて宗教をアクセサリー的に安易に取り替え、重層化し、個人の信仰や信心もそれに振り回されて来たといえそうです。特に戦後の日本人は、戦前の軍国主義への反動からか、国家や家や親に対する忠誠心が薄らぎ、かといって自分自身の確固たる信念もなく、ただ衝動に駆られるままに浮遊しているというのが現状のようです。社会の指導的立場にある人々がそうなのですから、それに従う子供たちも推して知るべしです。
 特に、ここ数年来、高度経済成長のバブルが弾けてからのわが国の指導者層の頽廃ぶりは目に余るものがあり、いままで成長の陰に密閉されて来たウミが一気に吐き出された感がします。その間隙を縫って、オーム真理教のようないかがわしい疑似宗教がはびこり、真空状態の中に放置されて来た人々をひきつけて来ましたが、その余罪も暴露され、国民を唖然とさせています。政治もダメ、経済もダメ、教育もダメ、宗教もダメ、自分もダメで、一体私たちは何を頼りにして生きていったらよいのでしようか。
 「そもそも人生には目的なんかないのだ」と開き直った人に作家の滝沢龍彦さんがいます。彼は『快楽主義の哲学』(文春文庫)で「最初に身も蓋もないようなことをいってしまえぱ、人間の生活には、目的なんかないのです。人間は動物の一種ですから、食って、寝て、性交して、寿命がくれぱ死ぬだけの話です」と語っています。たしかにそうかもしれません。変に気取って人生の理想や目的を語り、使命感に燃えて生きたところで、そうでない人と同様、寿命が尽きれば誰もがその遺体をさらけ出し、葬られるだけの話です。それなら、ひとに迷惑をかけようがかけまいが、思いっきり自由奔放に振舞って、好き勝手に生きたほうがどれだけ得かしれない、と考えるのも無理はありません。しかしながら、はたしてそれで本当に納得した自分の人生といえるのでしょうか。
 その点で、同じ作家の五木寛之さんは『人生の目的』(幻冬舎)で「人生に目的はあるのか。私はないと思う。何十年も考えつづけてきた末に、そう思うようになった。しかし、やはり人生に目的をもちたい、と思うのが自然な人間の心のはたらきだろう。(中略)人生の目的の第一歩は、生きることである」と喝破しています。ここでいう「生きること」と「ただ生きている」こととは違うと思います。「ただ生きている」だけなら他の動物と何ら変わることがありません。また、生きるために何らかの仕事をしたことが人間の証になることでもないと思います。今から一世紀も前に、ロシアの作家ゴーリキーが述べているように「もしも人間の価値がその仕事で決まるものならぱ、馬はどんな人間よりも価値があるはずだ。(中略)馬はよく働くし、第一、文句も言わない」と。
 では人間として「生きること」とは何か、といえば、「自分らしくよりよく生きる」ことに尽きると思います。これは人間の脳の発達と平行しており、私たちは他の動物と同様に脳の中に大脳があり、そのお蔭で本能的に生きようとしますが、人間には他の動物に存在しない大縁辺系や新皮質の発達が見られ、それにより「自分らしくよりよく生きる」機能が備わっているといいます。米国の心理学者エイブラハム・マズローは、人間の欲求は「生理的、安全的、親和保護的、自己尊重的、自己実現的」(『動機づけと人格』)の順で発達すると述べており、そうした人間特有の発達を遂げずに一生を終わるのであれぱ、他の動物と同じことになります。「われわれは動物の一種なんだからそれでいいじゃない」ということであれぱ、この世に生まれて犬や猫と同様に生き、寿命が尽きたらのたれ死するだけとなります。そこでは勉強したり、何かを創作したり、結婚して子供を育て、家庭を作るといったような生き甲斐を感じる意味も価値もないことになりましよう。
 現に今、政府や親のすねが齧れるのをいい幸いに、勉強や仕事や結婚もしないで徒食し、周囲に迷惑をかけても平気で好き勝手なことをして一生を無為に過ごし、死んでも誰に看取られ悲しんで貰うわけでもなく、この世を去ってゆく人が増えつつあるようです。そうでなくても遺伝子工学の発達によりクローン人間の誕生が可能になりつつある今日、人間の尊厳とか人格とか、ひいては人類の歴史や文化といったものがどれだけ重要視されるのか不透明な時代にあって、私たちはどうして生きていったらよいのか戸惑うのも無理はありません。しかしながらたとえそんな時代が到来したとしても、せめて自分だけは「この世は十分生きるに値する」と納得しながら一生を終わりたいと願っていますが、あなたは如何でしょうか。
 私たち現代人が忘れているものは、ほんとうの自分とは一体何かということです。今迄私たちはそれを知らずに、ただお金やモノを充足さえすれぱしあわせになれるものだと勘違いして来ました。しかし、はたしてそれらを得てしあわせになったでしょうか。そうした表面的なものを得て本人が満足しても周囲はけっして喜んではくれません。現に先代住職の知合いに億万長者がいますが、死後、その家庭は遺産相続間題で子供達が争いの渦中にあり、本人たちは不満と敵意で安心していられない毎日が続いています。そこには人間らしい魂は見当たりません。
 作家の日野敬三さんは「ある力を持った場の中で魂はよく育つ。魂は場の力の集中する中心点です。生きてきてよかった人生かどうか、基準になるのは、自分にとってのよい場所で生きてきたかどうかということです」と語っています。自分にとってのよい場所で生きるとは、ただ居心地よい場所でぬくぬく生きることではないと思います。お互いが喜び合える場所です。あの世に持って行けない、この世の預かりものであるお金やモノに翻弄されていがみあっている姿を、仏教では「餓鬼」といっています。そこには自分の存在の一番奥にある魂が不在ですから、人間ではありません。そんな人生がどうしてしあわせだと言えるでしょうか。日野さんは続けて、「他者を魂で感じ取れぱよい。魂と魂が、磁石と磁石が引き合うような形で引き合って、そこにある熱が生じるのがよい。魂を強めるには、力を集める場をできるだけ広くするとよい。小さい、閉じた砂場の中でお母さん同士が争いだけしていると、魂はいらいらしてしまう」と語っています。私たちにとって、今日、そうした魂の所在を忘れ、先頃の東京・文京区で起きた幼椎園児殺傷事件の母親達のように、お互いが自分の欲望の赴くままに我を張っていがみ合い、傷つき合っているのが実情ではないでしようか。ほんとうに悲しいことです。
 宗教とは、そうした魂の所在や人生の価値を教えてくれるもので、すくなくとも私自身にとっては仏教という宗教を学んだお蔭で、「ほんとうの自分とは何か」とか「人間にとってしあわせとは何か」を教えられ、与えられたいのちを精一杯生きていこうという意欲をかき立てられて今日に至っています。だからといって、けっして今までの人生が順風満帆で、すべてうまくやって来られたとは毛頭思っておりません。むしろその逆で、辛いことや嫌なことだらけで、何で自分だけがこんなに苦しい目に適わなけれぱならないのかと世を恨み、人を呪ったこともありました。しかしながら、そうした痛い目に遭ったお蔭で、そうしたことをせざるをえない世間や人に同情するゆとりも生まれ、苦境に立たされれば立たされるほど「負けてたまるか、今に見ておれ」という敵愾心と勇気が湧いて来ました。能力や実力もなく、家柄も縁故もない中にあって、どうにかこれまで曲がりなりにも生きて来られたのは、一重に周囲の人々とのご縁や良友、良師に恵まれたお蔭で、押しだされて来たというのが実感です。
 私の依って立つ宗教(仏教)とは、一言で言えぱ「自業自得」ということに尽きます。すなわち「蒔かぬ種は生えぬ」で、働かずに怠けていては何も果報は生まれないのが世の実相で、やればやっただけの甲斐があるということです。米国の思想家ジェ−ムス・ギブノンもこうした生命体の行為を「はたらくことによって立ち現れるもの」として「アフォーダンス」という表現を使っていますが、「自業自得」とはまさにそのことです。そこでは神や仏を信じるとか信じないとか、そうした絶対的な存在の救いがあるとかないとか、死後の世界があるとかないとか、と言ったことは間題ではありません。たとえば、よく「霊験あらたかな神仏に祈ったから御利益があった」と言いますが、御利益をもたらしたのは神仏ではなく、本人の行為がそうさせたのであり、神仏はそうした人を加護したにすぎないと考えます。したがっていい加減な仕事や不正な手段でうまく生きようと神仏に祈れ ば、けっしてその結果はよからず、神仏もその願いを聞き届けてくれるはずがありません。正しい手段で仕事に精を出し、周囲の条件が整えられてはじめてよき人生が送れ、神仏の御意にも叶ったことになるわけです。
 この「自業自得」の考え方の根底には善因善果、悪因悪果の「カルマ」(因果関係)の法則が自然にはたらいています。それは神仏など他のカではなく自分が生み出すもので、自分が何かをすれば、それが原因となり、周囲の条件と関係し合って結果を招くわけです。それが善い結果を生むか悪い結果を生むかは、本人の心がけやはたらき方如何によります。私たちは毎目、毎刻、いろいろな原因を作っては、その結果をえているのですから、したがって、しあわせになりたかったなら、それ相応の原因を生み出すより仕方がありませんし、悪い結果が現れたといって他を恨み、責めても仕方がありません。私にとっては、すくなくとも、今日の私はすでに自分が過去に生きてきた決算書を突きつけられていると考えていますから、それに納得し、もし現状に不満足なら、今後、よりよき結果が現れるよう自分も努力し、周囲にもそうなるようはたらきかけるようにせざるをえません。
 私たちは誰しも、今まで生きて来たように死ぬだけです。昔から「人間の価値は棺を覆ってからわかる」と言われるように、自分の人生をいい加減に生き、周囲に迷惑をかけておきながら、イザ死ぬ段になって、よき死を望んでも無理な算段というものでしょう。いくらお金をかけて立派な葬儀を営んで貰ったところで、会葬者は大抵、自分の利益か世間体の義理のために列席するもので、金の切れ目が縁の切れ目で、葬儀が終わればいつしか忘れ去られる存在になってしまうのが関の山です。葬儀の後の会葬者のひとり言で「ああ、あの人が亡くなってよかった」と陰口を叩かれているのを知らないのは死んだ本人だけとなります。私たちはただ生きているだけでも大変なことであり、それ以上に自分の生きた軌跡を残すことは尚更大変なことです。多くの人はそれすらできず、周囲や社会に迷惑をかけ通して、それすら知らず平気で大きな顔をして生きています。何とあわれな生きざまでしょう。もし、ほんとうに周囲の人に惜しまれ、悲しまれて旅立ちたいと思い、自分のこの世に生きてきた軌跡を残したいなら、生きている間に周囲や社会に何事かのお世話や貢献をして喜ぱれなければならないでしよう。はたして私たちにそうした生き方ができるのでしょうか。それすらできない自分を反省したとき、ただ慙愧あるのみです。
 あなたがどんな宗教を信じようと信じまいとあなたの自由で、他からとやかく言われる筋合いはありません。他にかけがえのない自分の人生なのですから、自分の思う通りの毎日を歩んだらよいと思います。ただし、これだけは確かなことは、私たちがどんな人生を送るかは、一重に私たちの心がけやはたらき如何にかかっていると思います。したがって、その結果がどうなろうと、自業自得なのですからけっして文句や不平を言わずに率直にその事実を受け止めることです。人生には目的なんかないかもしれませんし、自分がこの世に生きている意味や価値が見出せないかもしれませんが、そうであっても、すくなくとも私にとっては、自分の人生は生きるに値すると信じています。そして、生きている間に、自分でしかできないことに全力投球し、力尽きたときにはいさぎよく仏の前に自分のすべてを投げだして、あとはおまかせするより仕方ありません。
 私にはひとに惜しまれるような立派な業績をこの世に残してあの世に旅立てる自信は毛頭ありませんが、いくら自分に実力がなく、失敗だらけで傷だらけの人生であったとしても、すくなくとも自分自身に納得のいく人生を歩みたいものだと願っています。そして、ごく普通の平凡な人生で、誰に認められなくとも借しまれなくてもよいから、ちょっとだけ人と異なった自分らしい人生を全うできたという感慨をもってあの世に旅立てたら望外のしあわせだと思っています。そこでいつも私の座右銘になって、日頃怠けがちな私を叱喀激励して下さるのは、故人となられた小笠原秀実先生の歌「足跡の残らば残れ足跡の消えなば消えね一人旅ゆく」です。あなたにとっての人生とは、どのようなものかお聞かせ下さい。



Back