現代人の法話 
〜 内容をよく吟味する 〜

最近、私たちは人の言動を外見で判断して、その言わんとする内容をよく吟味せず、一律にその相手を「こうだ」と決めつけてしまう傾向があるようです。そうした一方的な評価をして、相手の言動に対して誤解や偏見を抱き、その真意を分からずに終始してしまうことがあるので要注意です。例えぱ、謙虚と卑屈、実直と馬鹿正直、繊細な心遺いと神経質、おおらかさと鈍感、節約とケチ、毅然と横柄、寛容と甘やかし、自由と放縦、批判と非難、思告と叱責など、これらは外見上は同じように見えますが内容は全然異なります。にもかかわらず、それらを同一視してしまいがちです。
 私の恩師、中村元先生は東大教授として長年奉職され晩年に文化勲章を受賞された世界的な仏教学者で、先年亡くなられましたが、生前中、誰に対しても優しい眼差しで語りかけ、親切でした。昭和四十年代に先生がハワイ大学の客員教授として赴任された折り、私は当地の浄土宗別院に勤務しており、初めて先生にお会いした時には色々な励ましの言葉を頂きました。帰国後、機会あって広済堂から『阿弥陀経の心』という本を出版した折りにも、私ごとき無名の青二才にも「心打たれる書」という推薦文を送って頂き、身に余る光栄でした。過日、知人の中山書房の店主、中山晴夫さんも先生のありし日の姿を次のように語っています。(平成十一年十二月七日付け朝日新聞夕刊)「本を届けた玄関を開けると、先生のお母さんが、ととっと廊下に出て来て『ヘぇへぇ有り難うございます。』と挨拶される。その後に出てきた先生がお母さんと同じように廊下にぴたっと座って、『あ、中山さん、へぇへぇ、どうもご苦労さんです』と挨拶なさる。代金を頂いて玄関から出るまで二人して廊下に座って手をついて見送って下さった。私のような小僧にですよ」
 日頃、こうした先生の言動をよく知っている人は、「恐縮居士」とアダ名したくらいですが、知らない人はおそらく先生を、卑屈で、馬鹿正直で、神経質くらいにしか評価しないことでしょう。そうした感覚の持ち主こそ、心がおおらかではなく鈍感と言うのでしょう。
 同じようなことが「節約とケチ」以下のことにも当てはまると思います。すなわち、「節約」とは、つまらぬ私用への出費を抑え、イザ人や社会に役立つ事には思い切って使うことを意味し、「ケチ」とはつまらぬ私用には乱費するくせに、それ以外のためには出し惜しみすることで、その用途を見れぱ一目瞭然です。一所懸命、仕事に専念している姿を見て、周囲を度外視したその態度は横柄だと言うのは場違いであり、人に対して寛容であることはけっして相手を甘やかし、(たとえ悪行であっても)その言動のすべてを黙認し放任して許すことではないと思います。また、「自由」とは、自分の依って立つ言動に貴任を持つことであり、「放縦」のように自分勝手な行動をとってその結果に責任をとらないことではありません。「批判」や「忠告」も同様に、相手の言動に対して、その改善策を指摘するためであって、「批判」や「忠告」も同様に、相手の言動に対して、その改善策を指摘するためであって、「非難」や「叱責」のように自分の不満のハケ口を相手にぶつけ、快哉を叫ぶことではありません。
 このように相手の真意を測る前に、外見上、同じように見える相手の言動であっても内容が全然異なるものを同一視して混同し、相手を「こうだ」と決めつけることは避けるべきではないでしょうか。



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