現代人の法話 
〜 美しい日本語を 〜

 わが国には古代から美しい韻律を持った大和言葉が伝わり、古くは『万葉集』や『古今和歌集』や『源氏物語』など、世界の他の文学作品にひけをとらないものを先人たちは数多く残して来たことはご承知の通りです。
 ところがここ十数年来、特に若者の日本語が崩れ始め、みめうるわしい女性?までも友達同士での会話に「めっちゃ」とか「超」とか「やばい」とか、とても聞くに耐えない言葉を平気で使っているのを見かけます。おそらく就職でもした暁には、まともな言葉を使うのかもしれないから、そうめくじら立てて悲慣慷慨する必要がないのかもしれません。が、こうした言葉を使っているといつのまにやら本人の性格まで変わって行きやしないかと危惧するのは私一人でしょうか。
 先頃、仙台の東北大学で行われた学術会議にたまたま出席する機会をえ、そこで韓国の民俗学会名誉会長の任東権先生の日本語による発表を聞くに及んで、今時、こんなに美しい日本語があるのだろうかと耳を疑いました。そのくらい先生の日本語は他の日本人学者の誰よりもすばらしく、それはけっして遜ったようなものでなく、聞いていてもほれぼれするくらいでした。おそらく戦前に、日本人の先生から正しい日本語の使い方をきちんと教わったのでしょう。そのメリハリのきいた格調高い日本語を私たちはどこかへ置き忘れて来てしまったようで、穴があったら入りたいくらいでした。
 今日ではやたらと国籍や意味不明の外来語が巷にあふれ、意思の疎通に事欠く上に、英語を第二公用語にという声も聞かれますが、それよりもまず、美しい日本語を使ってほしいと願うのは余計なお世話なのでしょうか。



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