現代人の法話 
〜 人の痛みを思いやる 〜

 先頃の愛知県豊州市の主婦撲穀事件といい、九州・西鉄バスジャックによる殺傷事件といい、いずれも高校ないし高校中退の十七歳の少年の犯行とわかり、こうした無差別穀人事件の多発で世間を震憾させています。かつて犯罪といえば加害者の特定者への怨恨が原因であったものが、今日では、「殺す体験をしてみたかった」とか「世間を騒がせたかった」という、相手の見境がつかない異常な感情に支配された凶悪事件が多いようです。それも、結構、頭がいいとされる未成年者が事件を起こすのですからやりきれません。
 今日のわが国の現状を見渡しますと、大人も子供もおしなべて、知育や学歴偏重の競争社会に追いやられ、家庭の成員や仲間同士の人間関係がますます疎遠になりつつあります。最近、気づいたことですが、家庭や学校でも、かつては兄弟や仲間同士のいじめや喧嘩があっても、それなりにお互いが手加減を加えたり、誰かが仲介に入って取りなしたものですが、今日では誰もが逃げの一手で取り合おうとしません。被害者は孤立感を深め、その腹いせを玉突きのように他に転化して、周囲を敵視してより弱い者をいじめ、社会に危害を与えるか、ファミコンに熱中して孤独の世界で自分の不満の鬱憤晴らしをするようです。
 また、幼少の時から成績や頭のいい子に育つように親からちやほやされ、何でも欲しいものが与えられ、自分の言い分が通るように躾けられると、とかく自信過剰になり、世界は自分の思うままに支配できると錯覚を起こし、社会に出てもそれが通用すると考え勝ちになるようです。
 こういう人はとかくわがままで自己主張が強く、相手の気心や言い分には耳を貸さず、自分の要求を一方的に相手に突きつけ、服従させることしか考えず、自分は秀才だという自負心から、親兄弟や教師をはじめすべての人を見下し、一人優越感に浸りがちです。したがって、自分の思い通りになれぱご機嫌がよいが、それが叶わないと機嫌をそこねて豹変し、忠告しようものなら態度を硬化させて反発し、逆上してその相手を詰り、ときには暴力を振るって苦しめたりします。
 こうした人は良心が麻痺して相手の存在などは眼中になく、いったい自分が何をしており、それが良いことなのか悪いことなのかの判断がつきかねるようです。そして、自分の思い通りにならないとキレたと称して狂乱状態に陥り、何を仕出かすかわからないので、周囲の者は何時破裂するかわからない爆弾を抱えているようで、いつも戦々恐々としていなければなりません。そうだからといって「君子危うきに近寄らず」で、手をこまねいて逃げ回っているだけでは問題の根本的解決にはならず、本人はますます増長するぱかりで、最後には反社会的な殺傷事件にまで発展するおそれがあり、そうなってからいくら後悔し、保護・監禁しても後の祭りです。ではいったいどうすれぱよいのでしょうか。
 本人に心底から信頼する人でもいれぱ、その忠告に耳を貸して自分の落ち度を知り、改心することが可能かもしれませんが、自分のなしていることすべてが正しいと考え、万一それが間違っていたと気づいても、それを正当化することに終始して、何の自己反省や良心の呵責がないとするならば、おそらくそうした説得行為は無意味となることでしょう。
 こうした犯罪者や犯罪予備軍を世の中から出さないためには、一にも二にも、親や教師や社会の人々が協カし合って、まず知育偏重の競争社会の構造自体を改革し、「三つ子の魂、百までも」の例えのように、幼少時からの家庭での親の躾けを重視し、学校、社会において、大人も子供も一緒になって汗を流して作り上げ、共に喜び合えるような環境作りをする必要があります。そして、子供共々、私たち人間は、欠点だらけの弱い存在であり、助け合って生きなけれぱならないことを自覚し、人の喜びや悲しみを共有できる知恵を身につけることです。そうすれぱ「わが身をつねって人の痛さを知れ」で、自然に相手の喜怒哀楽にも共感でき、いじめや凶悪犯罪を未然に防ぐことができるのではないでしようか。



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