現代人の法話
〜 幸不幸は心の持ち方次第 〜
私たちは自分や自分の周囲のありさまを五感で見聞きし、それらが何なのか知っているふりをしていますが、はたして本当に知っているのかどうか疑問です。というのは、貴方は自分が何処から生まれ、死んだとき何処へ去るのか知っていますか。たしかに周囲から「人間は母の体内から生まれたことを知っている」とか「あの人は息を引き取ってあの世に行ったのを知っている」と言いますが、それはあくまでも他人のことであって、自分の事になるとその事実を確かめることはできません。確かなことは、今、自分がここにいるという事実のみです。
周囲のものを知ることも同様で、私たちは自分以外のものを見聞きして、「彼(女)は不幸な人だ」とか「あの作品は素敵だ」とかの評価をしますが、それはあくまでも自分の心に映じた影像にすぎなく、はたしてそれがほんとうの実像なのがどうかわかりません。
このように考えて来ますと、私たちは、自分や周囲の事物を自分の感情というフィルターを通して判断し、思い込んでいるにすぎなく、対象そのものがすでに感情的なのです。たとえぱ、私たちは晴れたよいお天気ならぱ爽快感を抱き、鬱陶しい梅雨空ならぱ気分まで憂鬱になりがちなことをよく経験するでしょう。すなわち、お天気自体は晴れがましくも鬱陶しくもなく、たんなる自然現象にすぎなくても、それを自分の心がそれを快不快と感じとるわけです。それを西洋の哲学や心理学はデカルト以来、「意識」というもっともらしい概念を用いて、それが自然と自分を隔てる網膜のように作用すると解釈し、最近の脳生理学では、この意識の元凶として「脳細胞」(ニューロン)の存在を突き止めました。
しかしながら「心」は構造にあるのではなく機能にあるとし、現代の解剖学者である養老孟司さんは「ヒトが人である所以はそのシンボル活動である」とその著『唯脳論』で述べています。脳生理学者のエルンスト・カップも「ヒトの作りだすものは、ヒトの脳の投射である」と言っているくらいです。仏教ではすでにこうしたことを経典で「一切唯心造」(一切の自分の見聞きする現象はただ自分の心の創造にすぎない)と考えています。したがって、その「心」の働きかけ如何で、人生が悲観的になったり楽観的になったりし、不幸になったりしあわせになったりします。
幼少の時に両手をもぎとられて不自由な生活を送っていた中村久子さんは、「あるあるある」という次の詩に、その心境を詠んでいます。
さわやかな 秋の朝
「タオル取ってきてちょうだい」
「お−い」と答える 良人がおる
「ハーイ」という 娘がおる
歯をみがく 義歯の取り外し 顔を洗う
短いけれど 指のない まるいつよい手が 何でもしてくれる
断端に骨のない やわらかい腕もある
何でもしてくれる 短い手もある
ある ある ある みんなある
さわやかな 秋の朝
世間ではしあわせになるにはお金や健康やヒマの有無によるといい、そうしたものの獲得にうつつを抜かす人を見かけますが、もちろん、そうした客観的条件が備わることも必要でしょうが、それだけでなく、自分の主観である「心」の持ち方如何によって幸不幸の感じ方が異なって来るものです。私たちの間では、よく「自分くらい不幸な者はいない」といって嘆き、愚痴や不平不満をこぼし、世間を恨み、周囲に当たり散らす人がいます。本人がそう言うかぎりは真実であっても、はたしてほんとうに不幸であるかどうかわかりません。すべて、幸不幸は私たちの心の持ち方次第によって変わってくるものだからです。現代は情報化時代だといっていますが、それは社会が脳の機能に近づくことを意味しているようです。