現代人の法話 
〜 継続は力なり 〜

 かつて作家の五木寛之さんはその著『大河の一滴』で次ぎのようなエピソードを紹介しています。
 あるとき奈良の法隆寺の長老であった佐伯定胤さんがゼミナールで唯識という仏教でも難しい学問の講義をされたことがあるそうです。そこには地方の寺からわざわざその講義を受講しに来られた真面目一徹の若い学僧がいて熱心に聞き耳を欹てていたそうですが、なかなか深遠な教えを理解することができなかった。そこで思い余って佐伯さんのところに進み出て「じつは、お別れを言いにまいりました。私は毎日、先生の講義を熱心に、自分なりに一生懸命うかがってまいったのですが、どうも私にはその才がないらしく、先生のお話の大事なところが理解できませんでした。こういう学問には向かない人間だと思いますから、田舎に帰って畑でも耕しながら寺を継いで生きていきたいと思います。長いあいだありがとうございました」と、お別れのあいさつをされたというのです。すると佐伯さんはその学僧の話をじっと聞いていられたのですが、そのあとで、ぽつんとひと言、こう言われたというのです。「千日聞き流せよ」と。千日とは約三年間のことですが、その間、わかってもわからなくてもいいから、短気をおこさず、ただじっと先生の前に坐ってその話を聞いていなさい、というのです。昔から「石の上にも三年」と言われるように、何でもいいから話を聞き流すつもりで坐っていれば、その言わんとすることがちょうど毛穴からしみ込んで来るようにわかってくるものだ、というのです。
 こうした講義の聞き方は現代人にとってはなかなか真似できないことですが、寺での伝統的な教育方法は、こうして一対一で面と向かって熱心に聞法していると、自然にからだの中にその教えがしみ込んで来るといいます。これを、香水の薫りが体内にしみ込むところから、仏教では「薫重」と言い、教育とは聞法を続けることによって自然に師匠からの感化が弟子に及ぶことを意味しています。



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