現代人の法話 
〜 苦しみを共にする 〜

 今日の世の中は、文明の利器のお陰で、私たちの生活は快適になり、お金さえ出せぱ、大抵好きなことができますが、それで人生のしあわせが買えるわけではありません。そうした生活に慣れるにしたがって、反比例するかのように、私たちの体力、知力、気力がひ弱になり、一端、文明の利器が取り外されると、自立できないようです。そうした人間にとっては、自分と周囲との交わりの間に文明の利器が介在するので現実の姿を見極めることができず、次第にヴァーチャル(非現実的)な世界に生きることになります。そこでは文明の利器にかまけて、能力の限界を知らないところから自分を過信し、それ以上の能力の持ち主(例えぱ親や教師や先輩)に対して不遜な言動を弄びがちになります。また、地域や家族との運命共同体としての連帯感や、共に汗水流して働き、一緒に喜びや悲しみを分かち合うという機会が薄れて、孤立なるようになります。そこではお互いが人間として励まし合い、助け合うといった同事同情の念が湧くわけがありません。
 かつてゲーテは「涙をもって食べたパンでなけれぱ、ほんとうの人生の味はわからない」と言い、作家の小林多喜二はその書簡集で『闇があるからこそ光がある。そして闇から出てきた人こそ、一番本当に光の有難さが分かるんだ』と語っています。
 十九世紀は二−チェが喝破したように、「神が死んだ」世紀であるとすれば、二十世紀は人間がその知識をもって科学技術を発達させて自然の征服を企て、そのシッペ返しをくらって自らのいのちを縮めた「人間失格」の世紀といってよいでしょう。はたして今世紀は私たちの英知によって「人間の復活」なるか、「人間の死」を迎えるか、その岐路に立っているといっても過言ではないでしょう。



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