現代人の法話 
〜 ほんとうの教育とは 〜

 今日、教育の危機とか学校の崩壊とかがマスコミなどで喧伝され、たしかにそうした問題にわが国が直面していることは否定できないでしょう。そうなったのも、一重に戦後の社会は、大人の私たちがおしなべて、自分の子供や学生・生徒に対してほんとうの意味の躾や教育をないがしろにして来たからではないでしょうか。にもかかわらず、世の親や教師は、依然として子供や学生・生徒を一流校に進学させるために、よい成績をとるよう、好きでもない受験科目に専念させ、「勉強しろ、勉強しろ」とけしかけています。その結果、出来のよい人の行く末はエリートとなり、優越感に浸って悪智恵を働かせ、その挙げ句に不祥事を起こして司直の糾弾に遇ったりしています。また、その逆で、反発して落ちこぼれてゆく人はうだつが上がらず劣等感にさいなまれ、鬱憤晴らしにいやがらせ犯罪に走ったりしています。こうした両極化した人間になるよう、今もって世の大人も子供もおしなべて精を出しているとしたなら、ほんとうに悲しいことです。
 かつて法然上人はその『一枚起請文』で「智者のふる舞いをせずして、ただ一向に念仏すべし」と述べられましたが、人間は利口になり、社会で成功することが人生の最大の目的ではなく、自分が世の中のほんとうの価値に目覚めて、それと一体化することがより大切であることを教えられたのだと思います。畏友の坂東性純さんの師僧は、かつて思うところあって、習字を禅僧の江川碧潭先生に学んだことがありました。先生はことごとく「あんた上手すぎる、もっと下手に書きなさい。下手にかけ、下手に書け」と何遍も口にされたそうです。おそらくの意味は、一般にいう上手・下手の下手と違い、そうした技巧を超越した境地を指しているに違いありません。が、そうしたものへのとらわれを離れ、ただひたすらに書くということが書を習う人にとってもっとも大切な心構えであり、そうしたものがないと、書も不純な造作となってしまうということでしょう。
 村上華岳という戦前の画家は「画家の仕事は不断の美の原理の発見である。技巧の工夫も写生するということもその手段に他ならない。画家は筆執る時はもとよりであるが、筆執らぬ時も不断の素描をやっているのだ。心の工夫は即ち筆の素描ではないか」とその『画論』で述べています。書にしても絵にしてもそれを描く人と描かれるものが一体とならなければ生きてこないし、人に感動を与えもしないと思います。もちろん技巧的な勉強も必要でしょうが、それよりも描く対象をよく観察してそのままとらえ、そのこころを自分のこころとして同体になることがより大切だというのです。
 よく画家の中には、ちょっと名が売れると美術年鑑などにランクヅケされて一号数十万円の売値がつき、それに媚びて同じような絵を何枚も描き、リトグラフ(石版画)で量産したりする人がいます。また、鑑賞者の中には展示された作品の出来具合よりも、作者の著名度や売値に興味を抱く人が目につきます。そうした作品は、画そのものの価値よりも、知名度や値段に価値があるのでしょう。それは今までの学校教育で目指した、勉強の内容そのものよりも、学校の知名度やそこで得た成績や肩書に価値をおくのと五十歩百歩でしょう。そんな恰好つけに大人も子供も専念して来たわが国の戦後教育のあり方が、今、問われているのです。
 昔から「好きこそ物の上手なれ」という諺があるように、本人が好きでもないものを嫌々やらせても、かえって反発するのがオチです。(勿論、基本的なものはキチンと教えるべきです)学んだり作ったりする作業は一朝一夕にしてなるものではなく、不断の心がけが大切で、たとえ上手にできず、世間で認めて貫えなくても、本人が納得したことをひたすら続けることによって自然にその成果が身につき、その評価はそれを見る人にまかせればよいのだと思います。教育というのはそうした地道な努力の連続であり、そうしたことをしないでただ恰好よくするための功をあせると、本人もそれを行う仕事や創る作品も貧相に見えるような気がしてなりません。



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