現代人の法話 
〜 死んで生きる 〜

 「死ぬるとは人のことかと思いきに、俺が死ぬとはこいつたまらん」と江戸時代の蜀山人は詠んだと言われていますが、凡人にとっては自分が死ぬのは嫌なことでしよう。しかし、現実には、遅いか早いかの差はあれ、人はいつかは百パーセント死ななければなりません。そんなときには、出来れば苦しまず、安らかに死ねたらと願うことでしょう。ちょうどシエクスピアが『ジューリアス・シーザー』でいみじくも喝破したように、もし私たちが臆病者なら、死を恐れて居たたまれず何度も苦しみもがくことでしょう。しかし、勇者なら一度かぎりで死に突入できるはずです。
 仏教、特に浄土教では、死ぬことは生老病の延長にあり、それは自分の思うままにならないと説いています。それを、思い通りにしようと願うから苦しむのです。ですから苦にしなけれぱよいのです。生きている間は一所懸命、自分のこの世でなすべきことに専念し、イザ死ぬ段になったら生きている間と同様に、万事、み仏におまかせしたらよいのです。そういう人は死んでも死なず、死んでも生きられることになります。これを「往生」(死んでも生きて往く)と言います。



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